シャカイ系の想像力



 藤田直哉氏のエントリー「システム改変的想像力の作品群」(http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20090804)が、最近ぼんやり考えていたことに近かったので、以下メモを。


 宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』で、「九〇年代のセカイ系(ひきこもり)から〇〇年代のサバイヴ系(決断主義)へ」というアウトラインを描いた。一九九〇年代の想像力は「ひきこもり系」「セカイ系」であり、『エヴァンゲリオン』『涼宮ハルヒ』等に代表される。これに対し、二〇〇〇年代の想像力は「サバイブ系」「決断主義」によって特徴付けられ、『DEATH NOTE』『コードギアス』等に代表される。《「引きこもっていたら殺されてしまうので、自分の力で生き残る」というある種の「決断主義」的な傾向を持つ「サバイブ感」は、ゼロ年代前半〜中盤の大きな流れになっていく》。
 九〇年代の批評を牽引した批評家の東浩紀(とその劣化コピーたち)の想像力はすでに「古い」。だから《そろそろ「ゼロ年代の感性」からの批判で、この耐用年数を過ぎて腐臭を放つ「九〇年代の感性」を退場させなければならない》(ただし、宇野の目的は、ゼロ年代の想像力を確認した上で、「来るべき二〇一〇年代につながる想像力」を準備することにある)。


 セカイ系とは何か。それは最大公約数的には「私的な日常(小状況)とハルマゲドン(大状況)を媒介する社会領域(中状況)を方法的に消去した作品群」(笠井潔「社会領域の消失と「セカイ」の構造」)のことである。
 たとえばイギリスのサッチャーは一九八七年にこう述べた。《私たちは、あまりにも多くの人が「もし問題があれば、政府が対処すべきだ」と考える時代を生きている。「私が困難に陥れば、助けてもらえる」「私はホームレスだ。だから、政府は私に住む場所を与えてくれる」。彼らは、自分の問題を社会のせいにする。しかし、社会というものは存在しない。存在するのは個々の男、女、家族である。どんな政府も個人を通さなければ何もできない》。これはグローバルな資本主義の全面化、ネオリベラリズム化による福祉国家/福祉社会の機能不全と対応するものだろう。「中状況」としての「社会領域」の喪失とは、こうした福祉国家の衰退/ネオリベラル化の流れとも連動するものと言える。


 この場合、セカイ系における「セカイ」とは、特別な時空間である。それは「日常的で平明な現実にいる無力な少年と、妄想的な戦闘空間に位置する戦闘美少女とが接触し、キミとボクの純愛関係が生じる第三の領域」である。つまり「セカイ」という想像(界)的な領域には、個々人に決断とサバイブを強いるグローバル資本主義の過酷さから撤退するための、シェルター=塹壕としての機能があるのだ。
 これに対し、サバイブ系の想像力とは、過酷な現実の中を生き残るには「サバイブするか諦めるしかない」というタイプの想像力のことである。そこでは、社会や労働環境などを漸近的に変革しようとする試みは「古い」とされる。たとえば近年の若者の意識調査(経済学者の大竹文雄たちのアンケート調査)によると、格差問題の真っ只中にあるはずの二〇代、三〇代の若者たちは、格差の拡大についての実感が薄く、また格差の拡大を特別に悪いこととも感じていない人が多いという。
 格差や貧困の当事者である若者に、労働問題や貧困問題に対する「想像力」が根付いていない。むしろ反発に近い感覚すらある。そこには「サバイブするか、諦めるか」という二者択一の選択肢しか与えられていない(と感じられている)のだ。「社会を変える」あるいは「労働環境を是正する」などという「サヨク」的な考え方自体が、感性として古いのだ、と。


 たとえば大手の富士通の終身雇用身分を捨てて独立した城繁幸と「フリーターの希望は戦争しかない」と叫んだ赤木智弘という、一見両極にいるはずの二人が、殆ど同じことを述べているのは、兆候的である。経済学者の駒村康平の調査によれば、社会保障制度について「大きな政府/中規模政府/小さな政府」「格差大/格差維持/格差小」のいずれの組合せが望ましいと思うか、という質問に対し、「小さな政府で、格差縮小」という組合せで答える人の割合が多い(2割弱)というのも、日本社会の特徴に見える。〈労働・格差・貧困問題よりも、いかにサバイブするか〉というリアリティが強い。


 しかし、これは別の形で「セカイ系」的な想像力ではないか。セカイ系=撤退にしてもサバイブ系=決断主義のいずれの場合も、人々が変え得る「社会」という中間的な領域を、最初から想定していないからだ。つまり、セカイ系とサバイブ系の想像力は相補的なものなのではないか。もしかしたら、「サバイブするか諦めるかしかない」という状況に耐えられない人々こそが、そんな自分を美少女が救済してくれるセカイ系的想像力に閉じこもるのかもしれない。


 しかし、「社会」という概念はそもそも多層的・立体的なものだろう。そこにはたとえば、次のような様々な層がある。(1)福祉国家的な意味での社会(大きな国家)。(2)福祉社会的な意味での社会(大きな社会)。(3)メゾレベルでの地域性や社会資本(ソーシャルキャピタル)。(4)「自分たちが社会を作っている」という社会契約論的な意味での社会。(5)社会的な交換を成り立たせるものとしての信頼・信用……。


 ここから現代のサブカルチャーを見回せば、たとえば、次のような想像力も様々な形で見受けられる。すなわち、プレイヤーが強いられたゲーム(ルール)を受け容れつつ格闘していく、他の参加者と競争しながら同時に協力していく、そしてこの社会のルールを変更し修正しながら、社会性の厚みを積み上げていく――。たとえば漫画版『バトル・ロワイヤル』『東のエデン』『カイジ』『最強伝説黒沢』『スカイ・クロラ』『新劇場版エヴァ破』等である。


 強いられたゲームのルールを改変し書き換えていくプロセス自体が、他者との関係性の発見と創出にもなっていく。そうやって新しい「社会性」が再構築されていく。たとえ国家・資本・家族から社会的に排除されたとしても、人々は具体的な社会的関係性の再構築を求め、試行錯誤を続けられる。こうした「社会」とは、ナショナリズム市場原理主義の中に回収されない領域である。もちろん「社会」はマクロな行政・法・制度などとも複雑な形で関係する。


 ここではそれらのサブカルチャー作品にみられる想像力を「シャカイ系的な想像力」と名付けよう(ちなみに「シャカイ系」という言葉はすでにネット上では様々な人が使っている。定義は人それぞれだが)。もちろん、一つの作品を「セカイ系/サバイヴ系/シャカイ系」という枠組みで分類することそれ自体には、あまり意味がないのかもしれない(たとえば『ガンダム』や『エヴァ』は、セカイ系/サバイヴ系/シャカイ系のいずれの要素もふくんでいるだろう)。しかし重要なのは、こうしたシャカイ系の想像力がすでに広く人々の中に根付いていることだろう。こうしたシャカイ系の想像力は、ゼロ年代の想像力とロスジェネ的想像力の交点にもなるのかもしれない。


 もう一度「シャカイ系の想像力」の特性を整理してみよう。
 (1)そこでは「資本主義を転覆し革命やユートピアを目指そう」等の大きな物語は、すでに信じられていない。(2)そうした社会環境の中で、個々人は、過酷なサバイバル=ゲームを強いられている。(3)しかしそこには、個人と世界の間を媒介=緩衝する中間領域(シャカイ)が欠落している(ように感じられている)。サバイブするか諦めるか、という決断を強いられている。(4)しかしそうした過酷なサバイバルの中でも、「下」から、何らかの社会的関係性(絆)を結び直していく、という可能性が試行錯誤される。(5)それはシステム/ルールの――革命ではなくても――改変・改良・改革と結びついている。(6)この場合、福祉的な「社会」の不在の中で「シャカイ」の再構築を模索する、という「ねじれ」がポイントである。


 「セカイを根本的に変革する」ことはできなくても、個々の制度やルールに対して「シャカイを変える」ことくらいならできるのかもしれない。それは旧い意味での革命を目指すことではないし、工学的な設計主義に頼り切ることでもない。その見かけは小さいが具体的な変革の道こそが、最も困難な道なのだろう。【一部加筆修正】