ピアニスト佐藤幸子さんによるラフマニノフ「楽興の時」より第4番 Presto

昨夜、ピアニスト佐藤幸子さんに 白金ピアノスタジオにお越しいただき実施したスタジオライブYouTube生配信より、最後に披露していただいた、ラフマニノフ「楽興の時」より第4番 Prestoです。


佐藤幸子 - ラフマニノフ「楽興の時」より第4番 Presto / Sachiko Sato - Rachmaninoff Moment Musicaux Op.16 No.4 in E Minor

ロシアの作曲家でピアニストとしても素晴らしい才能を持っていたラフマニノフラフマニノフは大抵、自分が作曲した曲を自ら初演したのですが、この「楽興の時」なぜかそうしなかったと伝えられています。その理由はいまだにわかっていません。

ロシア・モスクワ音楽院で学ばれた佐藤幸子さんによる超絶技巧と表現力、そして、ロシアの広大な大地が浮かぶような音楽の魅力、どうぞお楽しみください。

3分もありませんので、クラシックをあまりお聞きにならない方も再生してみてくださいね。

火入れ

長い間使用していなかった自動車やバイクのエンジンを指導させることを「火入れ」と言います。

このブログは2011年にて「はてなブログ」のサービスがスタートした時に、ものは試しにと作ってみたブログです。以前より「はてなダイアリー」を使用していた私は、「はてなブログ」に結構期待をしていました。

結局あまり活用しないままに放置となってしまいましたが、『この広告は、90日以上更新していないブログに表示しています。』の広告表示を消すために、久しぶりに更新してみました。

今年の春、はてなダイアリーが完全にサービス終了となり、はてなダイアリーの記事をこのブログにインポートしました。

今後、はてなブログを使用するのか自分でもよくわかりませんが、久しぶりにアクセスをした証として。

 

ジェイ・コウガミさんに会う

聞くところによると、昨夜、神田あたりの餃子店で業界のキーマン達が集い、熱いトークを繰り広げていたらしいけど、実は渋谷の餃子店でも男が二人、音楽業界の未来について語り明かしていたのである。いや、「明かした」はウソ。

渋谷の方の餃子店にいた男二人は、ジェイ・コウガミ(jay kogami)さんと、私。コウガミさんは、「jay kogami's posterous」というブログで、海外の音楽サービスや最新の業界動向について情報発信されている方で、最近では音楽ビジネスセミナーに登壇されたり、Musicman-NETで連載を持たれたりと大変なご活躍。

そんなコウガミさんとざっくばらんにたくさん話しが出来て、昨夜はとても楽しかった。特にお互い共感できたのが、「音楽を聞いてもらうとか、楽しんでもらうみたいな、もっと入り口的なところを頑張らないとダメだろう」という話。餃子片手に、サービスの話、ビジネスの話、ライフスタイルの話、音楽業界の行く末の話など、話題は多岐にわたったけど、どれも結局そこに帰着する感じで、僕も微力ながらもそこを頑張りたいと、そう思った。

こんな日だから、マイ・ファースト・マックを語ろう(LC 475編)

こんな日だから、マイ・ファースト・マックを語ろう。はじめに断っておくと、ちょっと勘違い、自意識過剰、記憶違い、事実誤認な発言もあるかもしれないけど、呑み屋での戯言(たわごと)と思って、聞き流して欲しい。


写真)1993年後半に発売された薄型ピザボックス最強機種LC 475。最大メモリ36MB(72pin SIMM x 1)、最大発色数は256色だがVRAM増設時32000色を表示可能、CPUはMotorola 68LC040 25MHz、前面にFDドライブ、背面にはSCSIポート等各種ポート、OSは漢字Talk 7.1を搭載していた。キーボード別売り(マウスは付属)。価格は23万8000円だった。


さて、僕のファースト・マックは“Macintosh LC 475”だ。はっきり言って、この経歴はかなりイケてると自分では思っている。時期もいいし、何よりチョイスがいい。ピザボックス史上、最強にして孤高の銘記。内面の素晴らしさ、外見の美しさ、両方を兼ね備えたMacintoshはそうありはしない。 使ってよし、いじってよし、眺めてよし。はっきり言って、「ファースト・マック=LC 475」の右に出る経歴はそうそうないだろう。

僕は、ファースト・マックが“Macintosh IIci”だ、“Macintosh SE/30”だとかいう誇り高き先駆者の方々には、敬意をもって頭を下げるけど、それ以外の人に対しては、申し訳ないけど上から目線で話させてもらう。

もしあなたのファースト・マックが“LC 575”と聞いた日には、『同期と思うなよ!駒犬みたいな不細工な筐体のくせに』、“LC 630”と聞けば、『あんな分厚い筐体、お前だけはピザボックスとは絶対に認めねぇ』、ましてや“Performa 588”なんて聞いた暁には『あんな歪んだ樽型の画面よく使えたもんだ』と悪態を吐かせてもらう。

ちょっと先輩の“LC II”“LC III”ユーザーにだって、『悪かないけど、Macintosh Color Display 13インチを重ねたときのシルエットの完成度は、LC 475にはてんで及ばない』と容赦無く言ってやる。

“Perfomaの5000番代”なんて聞いた日にゃ、『Macを知るのが随分遅かったんですね』と嫌味を言い、“Power Macintosh”以降の人は、もう現在までとひと括りにして話させてもらう。 ただし、“Quadraシリーズ”ユーザーとはちょっと仲良くしてやってもいいぞ。

異論ないよな?NIFTY-Serve、FMACUSフォーラムのみんな。








ごめんなさい。放言が過ぎました。

羽沢ガーデン解体工事着手前日の写真たくさん(解説コメント入り)

2011年10月3日、東京都渋谷区広尾の「羽沢ガーデン」の解体(準備)工事が、開発業者によって予定通り着手されました。

解体(準備)工事が着手される前日の2011年10月2日早朝に、羽沢ガーデンの地を訪れ、写真に納めてきました。flickrでスライドショーを公開したところ、大変反響をいただきましたので、いつくかの写真にコメントを入れて、改めて紹介したいと思います。なお記述の中には、報道資料および2011年3月11日に公表された、「羽沢ガーデンの学術的鑑定書」からの引用があります。

2005年12月より閉鎖されたままの門扉

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The Hanezawa Gardenの営業終了後、閉ざされたままの門扉。優雅で風格ある造りの腕木門。両開きで車が通れるようになっている。門をくぐると、そこは別世界で、ひんやりとした森がそこにある。ゆるく左にカーブしたアプローチを登ると、玄関が見えてくる。

昨年11月に行われた裁判所による現場検証(後述)の際にも、正門扉は開けられることがなかった。次にここの門を通る車両は解体工事車両となってしまうのだろうか。門扉左手の石垣にかつて、ゴールド色の「The Hanezawa Garden」の看板がかかっていた。

ビアガーデン・テラスの出入り口

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羽澤ガーデンには、本館(屋敷)とテラスの2ヶ所の結婚式会場があったが、そのテラス会場の出入り口になっていた場所。ビアガーデンに訪れた方もいるのでは。扉にはトタンが貼られ、中の様子をうかがい知ることはできない。24時間警備中の文字が、日本語、中国語、韓国語で書かれている

ほんの少しだけ中が…

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背を伸ばすと、トタンの上から、少しだけテラスの様子が見えた。屋根があるところの下が、新郎新婦が座る上座となる。灯籠などが配された和風庭園。右手に進むと立派なマツが植わっている。ちなみにこのガーデンから上の庭の建物を見上げることも出来、上下の庭をつなぐ道は森の中の小さな小道のようになっている。結婚式会場の下見の際などに、実際に歩くことができた。

敷地南面の道路より

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緑が生い茂っていることがわかる敷地の南側。西に向かって上り坂となっている。坂の中腹にはツタのはった建物の背面が見て取れる。厨房か事務局だろうか。ミラーの下に掲示してある白いものが「解体工事のお知らせ」である。これについては後述。

解体工事のお知らせ、および経緯

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敷地の東西南北4箇所に掲示されている「解体工事のお知らせ」。発注者等の欄に「三菱地所レジデンス株式会社」、解体工事の工期は「平成23年10月3日〜平成24年5月31日」、標識設置年月日は「平成23年9月2日」とある。これは、今年の8月5日付けで三菱地所レジデンスが渋谷区に解体届を提出し、渋谷区が受理したことを受け設置されたもの。

この地の開発計画をめぐっては、文化人や地域住民らの間で反対運動が活発化し、平成19年には地域住民約30人が、開発許可の差し止めを渋谷区などに求める住民訴訟東京地裁に起こしている。平成22年11月には地裁による現場検証が行われ、検証に基づきまとめられた建築や歴史の専門家の鑑定書では「(羽沢ガーデンは)重要文化財特別名勝」とされた。

今回の解体工事着手を受け、反対側は「係争中であるにも関わらず、解体することは証拠隠滅に他ならない」と批判、一方事業者側は「会社の遊休資産の活用は当然」と主張、解体届を受理した渋谷区は「私有地である以上、区条例に従い届出書を受理するのは当然のこと」との立場を取っている。

なお報道によると、解体初日の10月3日には、作業員が足場などの資材を搬入したり、重機を入れるスペース作りに着手、電線にかかっていた樹木を剪定(せんてい)するなどの安全対策工事を実施したとのこと。本体の解体は11日以降の予定。

今なら、真ん前の土地が1億6580万円で買えるよ!

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かつて駐車場として使用されていた羽沢ガーデン正門前の土地は、羽澤ガーデン所有会社の経営者が個人で所有していたもので、平成19年、羽澤ガーデンの開発計画が発表された時点では将来的に提供公園になる予定地だった。しかし、今年の8月に分譲販売された。正門の真ん前にあたる角地は分譲後、即成約したようだ。先着2名、まだ買えますよ!

東側から敷地を望む

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これを森と言わずして何と呼ぼうか。空港写真を見ていただければわかるが、敷地の北部・東部は広大な緑に覆われている。たくさんの木々が鬱蒼と生い茂り、あたかも「となりのトトロ」の裏の森のよう。かなり大きな樹木が多数点在し、この日も鳥のさえずりが盛んに聞こえた。公表されたマンション開発計画では、この部分を含め、敷地一杯に建物が建造される。

敷地北側・西側

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こちら側は、敷地の裏手に当たるので、羽沢ガーデンを訪れるお客にとってはゆかりの無い方角だが、ご覧のとおり溢れんばかりの緑である。北側には竹林がある。渋谷区とは思えない静寂がここにある。

裏口より

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裏手の最も奥まったところに、裏口がある。こちらからも車両の出し入れが出来るようだ。格子の向こう奥に、屋敷の端が少しだけ見えた。ちょうど彼岸花が咲いていた。

訪問を終えて

当然ながら敷地の中へ入ることは出きませんので、肝心の屋敷の様子をうかがい知ることは出来ませんでしたが、昨年11月に裁判官が現場を訪れて実施された現場検証において、数年間放置されていた割には、大変良い保存状態であったことが確認されたそうです。

私は、在りし日の羽沢ガーデンを訪れ、至福のときを過ごさせてもらった一人です。それほど多くの回数ではありませんが、邸宅に、ガーデンに、そしてお庭に足を踏み入れたあの経験は、思い出と言うよりは、今となっては宝物のようです。お客として出来る恩返しは、何度も足を運ぶ事しかないと思っていたのですが、2005年の閉鎖以降、それすらもできなくなってしまい、大変寂しい思いをしています。

景観の美しさを周辺住民らが享受する「景観権」をめぐる議論はまだ未熟で、近年、住民訴訟で原告住民側が勝訴する裁判例が出つつありますが、こと羽澤ガーデンに関しては、迫り来る開発の前に地域住民の望みは、皮の一枚どころか蜘蛛の糸で繋がっている状態です。「叶うのであれば、もう一度羽澤ガーデンのレストランで妻とディナーを食べたい。」という一筋の望みを持ち続け、裁判の行方を注視していますが、予定通り解体がなされてしまった末には、その前提がなくなり、望みは完全に絶たれることになります。

下世話なことを言いますと、3千坪で80億円だそうです。先日、秋葉原の駅前のビルを90億円で一棟買いした個人の方が居られましたが、誰か救世主いませんかね?テレビ局を買収するよりはお安いかと…

  • 別の写真も含めたスライドショーはこちらです。

和歌山の集中豪雨で日高川の氾濫の被害にあった、お兄さんの家にお見舞いに行ってきました。(追記アリ)

私の母の生まれ故郷であり、私を含む兄弟、従兄弟たちにとっては「田舎」であり思い出の地である和歌山県日高川町が、台風12号の直撃により、大変大きな被害を受けました。今から一週間前の9月8に、私の父が日高川町を訪れ、私にメールしてくれた内容を、人名などを伏せた上で掲載したいと思います。

その前に、少し私の方で補足をしますと、「日高川町」という地名は、2005年の市町村合併によって生まれて地名であり、かつてそこは「中津村(なかつむら)」と呼ばれていた場所です。和歌山県御坊市の東方、日高川中流域に位置し、平地はほとんどなく、集落は日高川沿いに集中しています。母の両親であり私の祖父母は、この中津村の「老星」という集落で農家として、お米、みかんやはっさくの栽培、および林業を営んでいました。村のいたるところに柿の木や梅の木があり、絵に書いたような日本の田舎です。私たち従兄弟連中は、年に何度もこの地に集い、山や日高川を遊び場にして育ちました。現在は過疎化が大変進んでいる地域です。

高校野球をお好きな方でしたら、1997年春に、日高高校中津分校が甲子園に初出場したのを覚えてらっしゃいますでしょうか。また90年代にテレビ番組で、城南電機の宮路社長という方がいたのを覚えている方いますでしょうか?アタッシェケースに数千万円の現金を入れてバラエティ番組などによく出演していたあの名物社長を。宮地社長の生まれ故郷が和歌山県日高郡中津村です。

それでは、以下父からのメールを掲載します。

昨日、和歌山の集中豪雨で日高川の氾濫の被害にあった、お兄さんの家にお見舞いに行ってきました。

新聞やテレビのニュースでは、日高川のことはほとんど報道されていませんので、何もなかったかのように思われましたが、一昨日、●●ちゃんから電話があって、日高川筋もひどい被害を受けているということがわかりました。それで、昨日朝一番に家を出て、老星へ向かいました。

まず、有田川の川の濁りを見て、もう水は引いていましたが、川上では結構土砂崩れがあったことがうかがわれます。御坊へ入って、日高川を遡っていったのですが、日高川の濁り方は、有田川とは比べものにならないほどに、泥色に濁っています。玄子あたりでは、道路が冠水したことがわかります。重機が入って、片付けはしたようです。船津の方に近づくと、道路脇の家では、みんな畳を出して干しています。家の中を覗くと、床上浸水したあとと、たくさんの泥や流木などが入り込んできたあとがみえます。小さなダムのある発電所あたりも道路まで冠水したようです。村役場のあるあたりは少し高台になっているので水は来なかったようですが、川の近くの水田はみんな浸かったようです。

レンガ造りの発電所の側はよかったのですが、あやめ橋を渡ったところの村民グラウンドは完全に流れに沈んでしまったのか、グラウンドという様子は全くなくなって、石や岩がゴロゴロしているだけです。ここまでは道路は通行できましたが、これから先は通行止めです。中津村の温泉のあった所とか、キャンプ場、貸しロッジなどがあったところがやられたようです。温泉の取水口も完全にやられてしまって、跡形もなくなってしまったようです。

751中津グラウンド跡

写真1)中津町民グランド跡。とてもグランドがあった場所とは思えない荒れよう。

そこで、発電所を越したところから、犬が丈(いぬがんじょう山)の方へ入って、新しくできたトンネルを抜けて、小釜本の方へ抜けました。そこは老星よりもっと川上にあるところです。そこから川下へ戻ることになります。覚えているかなあ、牛を4,500頭近く飼っている所があったのを。そこが完全に破壊されていました。道路も、ところによっては半分ぐらいえぐられています。その牛舎のあったっところにもう一つコンクリート会社があって、そこも完全に破壊されていて、コンクリートミキサー車がゴロゴロとひっくり返っています。それはそれは恐ろしい光景でした。以前から少々やばいところだなあとは思っていたところです。

734牛舎は全滅

写真2)牛舎は全滅、牛は煙樹が浜まで。

746ひしゃげた車

写真3)コンクリート会社 車がぺしゃんこ。大きな流木が。

735ミキサー車

写真4)こんなミキサー車が流されました。

そこを抜けて、川中第1小学校とか、郵便局のあるところあたりまで戻ってくるのですが、ここも覚えていますか、橋のたもとに、別荘地が分譲されていたのを。何度か見に行ったこともあります。ここは水が出たら絶対水没すると話していたところです。結構売れて、たくさん別荘が建っていました。そこが今回通ると、きれいサッパリみんな、家ごと流されて、更地になってしまっていました。2軒だけ、形だけ残っていましたが中身はみんな流れて行ってしまったようです。

730枠だけ残った別荘

写真5)更地になってしまった別荘地。枠だけ残った2軒の別荘

日高川関連の死者は、このコンクリート会社の人と、別荘に来ていた人のようです。小学校とか、郵便局のあたりはよかったのですが、本川に近づくと橋のあたりで川が急カーブするので、氾濫したようです。何軒かは床上浸水のようでした。本川から老星までは、また通行禁止なので、畑が瀬の方へ渡って、大又口まで戻って、お兄さんの家にやっとたどり着きました。大又口の橋は、消防倉庫側が、流されて、ボルトが飛んでしまって、段差ができていました。スクールバスもここまでで、渡れないそうです。

721大又口の橋

写真6)橋の下にいっぱいゴミが。この橋の上を水が洗ったようです。橋の向こうがずれていました。

お兄さんは会議に出かけたとかで、家には★★ちゃんだけがいたのですが、話を聞いてもらちがあかないので、■■ちゃんの奥さんのところへ行って話を聞くことにしました。話、まずひとつ、牛舎が完全に破壊されたため牛も一緒に流されたようです。老星の道路を牛が歩いていたそうです。御坊の海岸まで流れていった牛もいたようで、煙樹が浜で牛があるいていたそうです。別の人に聞いた話だと和歌浦和歌山市)まで行った牛もいたそうです。

どうして、こんなに水が出たのか。椿山ダム(つばやま−)が放水したからです。ダムの水がいっぱいになって、ゲイトの上を越して流れだしたので、水門を全開にしたようです。

話、■■ちゃんの車が水没してしまいました。買ってまだ2ヶ月だったそうです。保険をかけていたで、さら車戻ってくるそうです。しかし、役場勤めなので、家に帰れないほどフル回転で働いているようです。お兄さんたちは、自動車で、一番高い▲▲さんの家に避難させてもらって、無事でした。家までは水はこなかったのですが、すぐ下の田んぼは全滅、便所の裏の石垣すれすれまで水が来たそうです。夜中の出来事で、電気も切れて、真っ暗の中の避難だったようです。犬も一緒で、無事でした。

広域水道がやられてしまって、断水、テレビはケーブルテレビが寸断されてダメ、ネットもできない状態です。■■ちゃんとこはIP電話なので、電話もダメです。黒電話だけが通じています。携帯もausoftbankはダメ、ドコモがかろうじて通じているそうです。電気は回復しました。水道は回復までに2ヶ月はかかるだろうと言われています。お兄ちゃんとこはもとの井戸を復活させて、なんとかしのいでいます。他の家では、水洗便所になったので、困っているようです。

家から見ると対岸の道路の下がえぐり取られて危険な状態にあります。道路よリ下の畑、田んぼは全滅です。道路の上は大丈夫なようです。老星谷の杉林は無事でした。この間行ったときには、間伐のため業者が入って沢山杉を切っていましたので、この雨で崩れたのではないかと心配しましたが、大丈夫でした。森がすごく明るくなりました。
会議から帰ってきたお兄さんに挨拶をして、帰ってきました。参考に、10枚ほど写真を付けておきます。

692対岸

写真7)対岸は樹木がみんな流されて、裸になった上、道路の下までえぐられていました。

683芭蕉に近づいてみた

写真8)芭蕉に近付いて見た。芭蕉の木がみんな折れてしまいました。

693南無阿弥陀仏の石のところ

写真9)南無阿弥陀仏の岩は健在です。しかし他の岩はどうなったことか。

705老星谷の杉林

写真10)老星谷の杉林。老星谷は大丈夫。間伐が進んでいます。


この地は、58年前にも大きな水害に見舞われており(追記2)、祖父母の代の人々は、その水害で水が来たところより高台の位置に住居を構えています。しかし、その教訓も次第に薄れ、だんだん低い位置に建物が建てられるようになり、そうした低い位置の建造物が今回多くの被害を受けました。三陸津波被害と同じ問題を、山間部でも抱えているのす。

また、16日から今日にかけて和歌山県奈良県などに再び強い雨が降っているとのことで、大変心配をしています。

追記

日高川町役場が公開している被災後の写真(台風12号による災害の記録)
http://www.town.hidakagawa.lg.jp/saigaijouhou/syasin.html

追記2

紀州大水害(きしゅうだいすいがい)は、昭和28年の7月18日前後の集中豪雨に起因する水害である。和歌山県中部を中心として山崩れや崖崩れ、洪水が起こり、和歌山県史上最悪の気象災害となった。(28年水害、7.18水害、南紀豪雨などともいう。)
紀州大水害 - Wikipedia