2012-02-04 Penのギャルソン特集号を読んで。

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ずっと『現代』のファッションとは?について自分は書いてるのだけど、まあ何度も言ってるが『現代』というのを端的に言えば「神殺しをすること。一番安い方法で殺すこと。そこにドラマチックさを含ませない」というルール。
そしてこれに則ったデザイナーがリアリティのある『現代』的なデザイナーであると言える。
そのデザイナーが『現代』であるかどうかはインタビューを読み、その作った服と合わせ見て検証すれば大体わかる。
ジュンヤ「リーバイスのミシンが重要なんです。あのミシンでギャルソンのテキスタイルを縫う。布がミシンに合わなくて、仮に縫い目が飛んでしまっても構わない」たしかこんなカンジ。
マルジェラ「僧侶が着るガウン、あまりに完璧だったので手を加えずそのまま同じにデザインした。だって完璧ですから」こんなカンジ。
NIGO「この写真集でRun-DMCの着てる服(たしかレザーのダウン)が欲しかったんだけど探しても見つからなかった。なのでうちのブランドでそっくり同じヤツを作ったんですよ」
三者三様で『現代』。マルジェラとNIGOは同じだが動機が違う。マルジェラはファッションが前衛である為なパクリでそこに個人的なものは入ってないが、NIGOはただの個人的趣味が動機。「果たしてそれがファッション的なコンテクストでどういう意味付けになるか?」など、どうでもいい。
NIGOはあまり自覚的に『現代』なタイプでなくアウトサイダーアート的な、批評家の意味付けで初めて『現代』という価値が生まれてくるタイプ。(ただし知性のあるデザイナー。けして天然(或いはネタ)という訳ではない。
また、このマルジェラの言葉はやや精度が低い。もう少し補足がないと、どれぐらい自覚的に『現代』なのか?掴みにくい。だがジュンヤの言葉に関してはかなり『現代』であると言える。
『素晴らしい』リーバイスのミシンと『素晴らしい』ギャルソンのテキスタイルが合わさり『素晴らしい』服が出来るのなら話は単純。でも少し違う。ジュンヤは「縫い目がキレイでなくても構わない」と言ってる。求めてるのはクオリティによる『素晴らしい』ではない。(ここで括ってる『素晴らしい』はある種の意味に限定して使ってる。
ジュンヤがここで求めてる価値は『現代』以外では拾えない。正しいでも美しいでもない、そういうところに保険を求めない、完全に『現代』でしか価値を設定できないものだけを込めてる。自覚的だ。
例えば川久保のギャルソンにおいても完璧でない、壊れた服。ほつれっ放し、アシメトリー、などあるが、それらは動機が大文字。既存のファッションへのカウンターという大義名分でやってる。ドラマチック過ぎる。
ドラマチックなストーリーはナルシズムでありエモーショナルなので『現代』ではない。(より近代に近い現代。具象と非具象の間のピカソみたいなもん。
「単なるジュンヤのフェチ的な趣味じゃないか?」という問いには半分は同意で半分は違う。マニアックさ、いわゆるレプリカブランドの偏執狂的な要素はジュンヤにもあるが、もう少し醒めてる。そんな自分を無批判に肯定してない。そういう自分の資質をモチベーションに使いつつ、そこに俯瞰した批判性を加えて『現代』にする。あくまで最初にクリエーションを転がす為の触媒。
朝日新聞のコレ(http://www.asahi.com/fashion/beauty/TKY201201180360.html)などと合わせて川久保のここ最近のインタビューを読み思ったのは、やはり川久保は『現代』にあまり自覚的ではない、ということ。80年代のカウンターで止まってる。言葉もノムリッシュだし。