祖父と両親

私の父は、完全なスパルタ教育の父親だった。
今も健在だが、私が生まれたのは父が21歳の時だ。母は20歳だった。
父は北海道白老の生まれで、大工の家に育った。
当時の北海道白老は基本的に漁師の街だったらしいが、貧乏な家庭に育ち、兄弟は5人。次男坊として地元で有名なやんちゃ坊主だったらしい。(後に地元の人達から聞いた)昔で言えば、札付きのワルという所だろうが、弱い者いじめや、犯罪を犯すタイプのワルではなかったらしい。
本当の悪いやつらから友達や仲間を守る、いわば「正義の味方」のような存在だったとのこと。
しかし高校時代はリーゼントにドカンと言われる太すぎるズボンに、下駄を履いて学校や街を、家来を連れて闊歩する、誰が見ても一見してわかる、「不良」の姿だった。

でもタバコは吸わない人。(爆)


父は小学校時代、北海道の豪雪の中、藁で作った長靴で毎日毎日、新聞配達をして家計を支えた。
毎日新聞配達に走る生活でマラソンが強くなり、北海道選手権で優勝したこともある選手だった。

夜間定時制高校を卒業後、当時の地元では大手企業だった大昭和製紙に就職し、転勤で富士市に勤務。
集団デートの機会で母と出会い、母の両親(私の祖父祖母)に猛反対され駆け落ち。
母を連れて北海道に連れ戻ったが、私の祖父である母の父親が北海道に来て、説得され、富士に戻った。
祖父は地元で商売をしており、そこそこの会社経営をしていたが、そこに父を就職させ、母と結婚した。きっと祖父はそこまでしてでも、かわいい娘を手元に置いておきたかったのだろう。


そして私が産まれた。


産まれてすぐ私は、今で言うインフルエンザのようなひどい風邪のような、当時では原因不明な高熱を発し、肺炎にかかり、地元の医者では手の施しようがないと諦められて、祖父と父と母が、3人で私を毛布にくるみ、新幹線で東大病院へ行った。祖父が、どうせ死んでしまうというのなら、日本で一番の医者にかかってからだ!と言って、あらゆる伝を辿り、地元の政治家に頼み込んで、東大病院の先生を掴まえたのだった。

東大病院に着くと、大混雑する待合室を尻目に、そのまま緊急入院。集中治療室に入り、当時では認可が下りていなかった抗生物質を投与。危険な量を注射し続ける承諾を書面で両親と交わし、朝も昼も夜も抗生物質を注射で投与した。当時の医者の話では、賭けに等しいと言われた。その抗生物質のおかげで、私は歯が弱い。色も黄色がかっている。

後に祖父から聞いた話だが、父は東大病院で、
「俺の内臓も心臓も、どこでも使ってでもいいから、だから何とかしてこの子を助けて下さい!自分の命と引き換えに、この子を助けてください!」
と、医者に土下座して顔を診察室の床にひたすらこすり付けて直訴したらしい。
当時のことを父は、
「0歳のお前が42度の熱を出し、どこに行ってももう助けられないと言われたが、お前の目を見ると、どうしてもこの子が死ぬはずがないという気持ちになったんだよ。お前はそういう目をしていたんだよ」
と言った。

小さい頃から幾度となく両親に聞かされた、私の産まれた直後の出来事だが、子供の頃はその親の気持ちの重さがわからなかった。だから、母と大喧嘩した時、「もう俺は死んだものと思ってくれ!俺にかまわないでくれ!」と言った事もあるし、父には、「あの時に死んでいればよかったんだ俺なんか!」と言った事もある。

命の大切さを知るのは、もっとずっと後だった。恩師の米さんが、見る見る痩せていき、どう考えても、もう長生きは出来ないのか・・・と、やるせない気持ちに打ちひしがれた時。その後、米さんが帰らぬ人になった時。そして、自分に子どもができた時。さかっぺが直腸癌になり、大手術をした時・・・・。

今、5人の子供たちの親になって、やっとあの時の両親の気持ちがわかるようになった。

また、母をなんとか地元に連れ戻したかった祖父の気持ちもわかる。
祖父はその後、自分の会社を、長男と長男の嫁に、(私の叔父、叔母)ほぼ乗っ取りに近い形で奪われ、裸同然になって、母の元に暮らすようになった。結果的に祖父は、自分の実の息子に捨てられ、娘を連れて北海道に駆け落ちした、私の父の世話になる道を選んだのだ。
自分しかいない!自分が生きていくためには、自分の勇気しかないと、何かを後ろ盾にできなかった者同士だから、父と祖父は、実の親子ではなくとも、実の親子より信頼関係が深かった。

祖父が何より楽しみにしていたのは私の水泳大会だった。孫である私の水泳のレースを、当時ではまだ珍しかった、8ミリビデオに撮り、声を枯らして応援してくれた。
最初は地区の小さな大会で、入賞すら出来なかったが、それでも、水泳大会の会場に行くと、お菓子を買ってくれたり、売店で水着を買ってくれたり、ジャージやパーカーなどを買ってくれた。
チームの仲間は、私をとてもうらやましがった。
試合の帰りには、必ずと言っていいほど焼肉に連れて行ってくれた。当時は焼肉屋など、大変な高級料理だった。
外食する事事態が珍しく、祖父は時々、チームの子ども達も一緒に連れて、焼肉に行った。
そのうち、私が地区大会で優勝したりするようになると、祖父の試合観戦はさらにその頻度を増した。東海大会や全国大会に、北海道から九州まで、どこへでも観戦に行った。

父や母が来ていない遠方の大会でも、祖父だけは必ず観戦に訪れた。日本だけに留まらなかった。
なんと、ハワイ遠征にも付いて来た。
なぜか英語を話すことが出来た祖父は、私のホームステイ先の両親にも話をし、私の通訳をしてくれた。
当時一緒にハワイ遠征にコーチとして同行していた米さんの通訳もやった。私の学校のクラスの生徒、全員分のお土産まで、全部買ってくれた。


歩けなくなり、車椅子になっても、奈良国体に私の両親に連れられて現れた。
高校時代の私は、国体でも優勝していたから、祖父は本当に喜んだ。
私の両親も、全国レベルの試合には必ず観戦に現れた。
日本中学新記録を出した時は、母が「すごいじゃん!けんちゃん!日本一だで〜〜!!」と言って、地元に帰ってからも、近所中に自慢しまくっていたらしい。

先日の土曜日、長男の初のレースを観戦している時、私は、私の両親と祖父の気持ちがわかった。43歳にして、初めて実感として理解が出来た気がする。

こんな子どもだった私。

親であれば、こんな小さな子ども、死なせられないだろうなあ。

小さな頃から兄弟で水泳選手だった俺達兄弟。

祖父が買ってくれた弟の誕生日ケーキ。切る前にさわっていいのは、誕生日の本人だけ・・という我が家のルール。うらやましそうに見つめる私。
この頃から祖父は私の水泳大会を観戦してくれていたのだ。
祖父が亡くなって、そろそろ20年近く経つ。先日は祖母も逝った。今我が家では、「じいじ」は父の事を指す。「ばあば」は母を指す。こうして時代は変っていく。