しょういち

2月4日は恩師、「米川英則先生」(米さん)の誕生日だ。
正直言うと、朝の時点ではまったく忘れていた。
粂川正一さん(しょういち)からメールが来ていて、はっと思い出したのだ。生きていたら64歳だったと思う。もう13年経つ。
だんだん私も米さんがあっちに出かけた歳に近づいている。
あの頃の米さんは、物凄い大人だった。というより昔から偉大すぎて、異次元の存在にすら感じる。今、その歳に近づいても、米さんのそれに近づけている気がまったくしない。
リーダーとして、指導者として、コーチとして・・・・・。
そしてすでに心の父でもあった私の「師」。
様々な誤解が解け、あの頃共に日本一、いや、世界を目指して血と涙と汗を流した仲間との再開を、きっと米さんは何でもなさそうにしながら、心の中できっと、涙を流して喜んでくれていると思う。



粂川正一。
彼もそんな米さんに取り付かれ、自身の半世紀をすべて、その後の人生をすべて・・・、米さんの影響と共に生きることになった変り種のひとりだ。
私の彼との出会いはさかのぼる事21年前。私が23歳の頃である。
彼は学校を卒業後、地元のスイミングクラブに就職した。一度職に選んだ水泳の道。勉強してより優れたコーチになりたいと、ある紹介者を介し米さんの元を訪ねた。
来る者はまったく拒まない米さん。家でゴロゴロしている夜遅く、毎日のように米さんを訪ねる。
米さんは一冊の競泳に関する分厚い本(スイマーズファースター)を手渡し、それを題材に、毎日ひとつづつ課題を出す。
それを律儀に毎日毎日勉強し、彼なりの答えを以ってまた米さんを訪ねる。米さん曰く、
「おまえらもずいぶん変ったやつだけど、粂川ってのが最近俺のところによく来てなあ・・、あれもまた変ったやつだわなあ〜・・・」
と、私によく話してくれた。
また、とにかく非常に勉強熱心で、渡した本を何度も繰り返して読み、知識的にすでにそのへんのコーチを凌いでいるだろうと言う。

そんな彼に人生の転機が訪れた。



米さんは愛知県の豊橋市に、あるスイミングクラブを買った。
決して会社の資金力など、順風な状態ではなかったが、一世一代のチャンスと捉えた米さんは、そこで勝負をかけた。
そして、彼に声をかけたのだ。

米さんには「人間の魅力」がある。この魅力が通常では計り知れない深さと広さなのだ。私が大学4年当時、水泳部のヘッドコーチから敷かれたレールがあって、一定の約束された未来があったにも関わらず、すべてを捨ててヒョロッと米さんの立ち上げた会社に、第一号として就職してしまったのが私。
しょういちも、「どや?おまえ豊橋くるか?」
と、米さんに聞かれ、くるか?の「る」の辺りで、「はいっ!」と答えたらしい。あくまでも本人談であるが。
豊橋のスイミングの経営は決して楽な状態ではなかったし、経営は常に厳しい状態であった。
当時、一緒に豊橋について行った、米さんの仲間だったS氏などは、ちょっと給料が遅延しただけで辞めてしまったという状態の中、しょういちは、給料が遅れようと、時々半分になってしまおうと、時々ゼロになっても、一切文句も言わず、一緒に仕事が出来るだけでいいのだと、そういって米さんのそばを離れなかった。
はっきり言って、金銭的には、完全にメリットのないのが米さんなのだ。お金が好きな人は、米さんとはいられない。米さんはあまり金儲けが上手くなかった。
しょういちも私も、そんな米さんが大好きだったし、金より価値のあるものを常に示す活き方をする米さんに、完全に心酔していた。



しょういちはそこで、後に合流する私と共に、10年近く米さんに仕え、共に過ごした。
しかしどんどん歳を重ねるのは米さんだけでなく、いつまでも「若者」ではいられない年齢になっていくしょういちと私。金儲けが下手な米さんと、会社という利益を残さなければ存在価値の問われる媒体での関係は、一定の矛盾と共に限界が近づいていたのかもしれない。



私が先に、断腸の思いで米さんの元を離れた。
そして数ヵ月後、しょういちも離れることになった。
しょういちは米さんと、仕事上で離れても、豊橋を離れず、近くに住んだ。時々会う生活は変らない。むしろ自分の給料の負担を、これ以上、米さんに負わせたくなかったのだ。
そう。それは私が米さんの元を離れた理由と同じ理由。
しょういちと私は、自分たち2人分の給料が、そっくりそのままなくなれば、ずいぶん米さんを苦しませずに済む・・・・・。最後の1年間は、毎日そう話し合っていたから。



米さんは、しょういちに、よく昔の思い出話を話して聞かせた。
私やひさし、ボブ、多くのトップスイマーを育てた経験を、実に楽しく、そして暖かく話して聞かせた。だからしょういちは、いつも私たち水泳の教え子を、うらやましいと思っていた。自分自身はもともとサッカー少年で、競泳選手ではなかったし、米さんの教え子でもない。それをとてもさびしく思っていたから、時々私は彼に、こう言って聞かせた。
「米さんの教え子は、何も競泳選手だけに限られた話じゃない。おまえだって、コーチとしての教え子じゃないか。」
そういうと、照れくさそうに、もぞもぞしながら、
「そっすよね!そっすよね〜〜!」
と言って笑った。あいつが一番嬉しそうにする瞬間だった。




米さんがあっちへ逝き、しょういちは心の拠り所を失った。
ただあいつは、誰かに拠り所を求めるような男じゃないが、それでも米さんを失った事による心の「穴」は、とてつもなく大きかったはずだ。私だってそうだった。
そして、しょういちと私は、実はいまだにその、心の穴が埋められていない。開いたままだと思う。きっと死ぬまで埋まらない気がする。



米さんを心の父とするならば、しょういちにとって私は、心の「兄」であろうと思う。あれからずいぶん経つが、米さんほどにはなれなくとも、私は時にしょういちに対して米さんの代わりを務めている。
いや、時々だ。それは、米さんにあっちに逝く前に頼まれたからでもある。頼まれたって、しょういちがそれを望まなければ、私の役目などない。しかし、私にとってもしょういちは「心の弟」である。私には実の弟と、心の弟がいるのだ。歳も同じ。素晴らしい幸せである。
しょういちは、いつまでもあの頃の気持ちを大切にし、活かしている。あの頃の「火」を消さずに、私と共にその火を燈し続けて行きたいと、そう思っているのだ。
だから、現在の私の勤める会社に、数年前に入社した。私が入れた。
私にはやりたい開拓があった。それを彼と共に進めたかったからだ。
当時しょういちは、スポーツクラブへの再就職のいい話があったのだが、それを捨てて、それ以下の条件だった私の職場に入ってくれた。

そして仕事は成功した。

しょういちは、私に恥をかかせるわけにはいかないと、ブルドーザーみたいに仕事をした。その心の裏には、何より米さんの教え子ふたりが、成果を出し、仕事を成功させられないと言う事など、絶対にあってはならないと言うプライドがあったのだ。それがしょういちを支えている。きっと今でもそれは、彼の心の支えになっているはずだ。
そういう男だから。



ややこしい男達である。