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気になる事件と考えごと

朴の木の祟り[山梨県]

中央本線甲斐大和駅(旧初鹿野駅)付近にある諏訪神社の御神木・朴の木にまつわる話。





神社前に初鹿野(はじかの)という地名の由来が書かれた看板がある。

祭神は建御名方命、起源は詳かではないが、古書に曰く「建御名方命諏訪よりこの地に巡狩せられし折、供奉の臣足痛をなして困苦甚だし。里人蘆茅を以って日向に一宇を結び治療を奨めしに、日を経て茅屋の傍に温泉湧出せり。よって供奉の臣浴し見たるに足痛たちどころに癒え、附近の野にて狩をし初めて鹿を射たれば「初鹿野」の名を賜えりと。里人此処に一宇を建てて祀れり」と。

鹿狩りに訪れた建御名方命(※)の従者が足痛で困り果てていたところ、村人が庵を設けて看病してくれた。すると庵のそばで温泉が湧き、おかげでたちどころに痛みも癒え、近くで初めて鹿を射て、この地を「初鹿野」と名付けた。村人たちはここに建御名方命を祀る堂を建てて祀った。





本殿は、県指定文化財とされ、江戸〜明治期に“甲州流”として全国的に名を馳せた下山大工の手により重厚にして妖麗な彫刻が施されている。しかし現在は“保護”というにはあまりにも無粋な、屈強すぎる鉄骨で幾重にも囲われてしまっている。





また案内板には以下のような文言がある。

本殿の裏にある神木の朴の木は、二千数百年を経たといわれており、幹は幾度か枯れては根本から発芽し、現在に至っている。
 この朴の木は、日本武尊がこの地に憩った折り、杖にしたものが発芽したものと伝承されている。古来からこの神木を疎(おろそ)かにすると、不祥の事件が起きると信じられているので、神意に逆らわないようにしている。
  平成元年三月 大和村教育委員会



この文言と、朴の木との接触を避けるために国鉄が設けた堅固な柵によって、現在も“朴の木の祟り”は生き続けている。


[]


1903(明治36)年、2月、国鉄中央本線大月〜初鹿野間開通。6月、初鹿野〜甲府間開通。

1905(明治38)年、付近にあった川久保集落の住民が、端午の節句の際に、神木から落ちた朴の葉を集めて、餅を包んで食べた(その地域では、柏が育たなかったため昔から代用として朴の葉は用いられていた)。すると集落で次々と人が亡くなり、12戸あったうち10戸がなくなった。コレラ赤痢などの流行り病に罹った可能性はあるが定かではない。

1907(明治40)年、8月、甲府盆地辺域に大水害が発生。日川の氾濫によって一帯は流出し、川久保集落の残る2戸も離散、集落そのものが消滅。





明治期、山梨県下では治水の遅れ、蒸気機関の燃料として山間部で行われた大規模伐採の影響などからか、大水害が頻発している。時を同じくして鉄道開通とそれに伴う開発、山間部に押し寄せた劇的な近代化の波。村人たちの目には、畏れ多いこと、行き過ぎたことによる天罰、に映ったとしても不思議はない。





1918(大正7)年、初鹿野駅拡張
1929(昭和4)年、電化に伴って、線路際にあった朴の木は度々伐採計画が持ち上がるものの、請負いはすべて断られ、計画は頓挫している。



境内には御神木として祀られる朴の木とは別に、立派な杉の切り株がお堂に囲われて残されている。

初鹿野の大杉跡
諏訪神社境内−

 ここにあった大杉は笹子峠の矢立杉(北都留郡大月市笹子町)甲斐奈神社橋立の大杉(東八代郡一宮町)と共に甲州街道の三本杉といわれた巨木である。


 明治36年に鉄道が開通し その震動と蒸気機関車によるばい煙のためか 樹勢が衰え枯れかけたので 名水をして永く大杉の存続を願い鉄道省よりの老樹慰謝金二百円で培養保護に努めたが 神社の境内に枝葉繁茂して雄大な景観を誇っていた大杉は樹勢が衰えついに枯死し二千四百円で払い下げて伐られたのである。
樹齢の周囲目通し 二丈八尺(8.48m)
樹幹の根周囲 三丈八尺(11.5m)
樹高 約十七間半(31.8m)
樹幹 三百七十一年
昭和57年12月 大和村教育委員会

鉄道省は1920(大正9)年〜1943(昭和18)年まで設置された国立機関。「鉄道省よりの老樹慰謝金200円」という記載からも、鉄道開通以後も住民たちは国鉄に対してよしとはせず、少なからずなにがしかの反発があったと見るのが妥当である。国鉄のやり方に異を唱える住民たちは、“御神木”の存在を象徴的に利用していた側面もあるのではないか。







1953(昭和28)年、架線に触れる部分だけでもと、慰霊祭を催したうえで朴の木の枝払い作業を行った。
しかしその後5年ほどの間に、関係者6名のうち5名に急死や不可解な事故死が続き、残る国鉄職員1名も国鉄構内で事故に遭い、大怪我を負った。





1968(昭和43)年、5月、韮崎バイパス修学旅行バス・トラック衝突事故
5月15日午前3時30分頃、国道20号線韮崎バイパスで大和中学校の修学旅行生ら36人を乗せていたバス(山梨交通)に大型貨物トラックが正面衝突。バスの車体右側は大きくえぐられ、3年生担任の女性教師(51)、男性の教頭(45)、男子生徒3人(14)、バスの交代運転手(33)の6名が死亡、21人が重軽傷を負った大事故である。

トラックには引っ越しの荷物を積まれており、正規運転手と荷下ろしの助手(ともに当時19歳)が乗っていた。しかし事故の際、運転していたのは無免許の荷下ろし助手の方だった。運転手は1時間ほど走ったのち、何を思ったのか高速道路の手前で助手と運転を交代したのだという。運転手は2週間の休暇を終えたばかりで、疲れが溜まっていたとは考えづらく、まさしく気の迷いがあったとしかいえない。

大和中学校が諏訪神社から線路をまたいですぐの立地であること、トラック運転手の奇怪な交代劇に絡めて、地元では「事故の3日前に国鉄職員が朴の木の根元をいじっているのを見た」といった祟りの噂が立った。




諏訪の地に生息し、全国各地の神社を巡っている“八ヶ岳原人”氏のブログに興味深い発見があった。

「1868年に県下の神社・寺院から提出された由緒書を翻刻したもの」とある山梨県立図書館編『甲斐国社記・寺記』から転載しました。「因」が抜けているので意味不明になっていますが、全文を読むと「従者が足を痛めたので、この地にとどまった」ことがわかります。

社伝 信濃国諏訪社国体にして健御名方命を祭り、命此地に巡狩ありけるに里人芦茅(あし・かや)を以て日向に一宇を結び奉りけるに、空しく宮居に日を経させくるに忽然として温泉湧出して供奉のもの足痛を治し狩し給う、
 初鹿狩野(はじかの)の郷名を賜り永く邦家(ほうか※国家)を護らんとて樸(朴)の枝を逆に地に指入置賜うに枝葉栄えて今に存す、拾抱(10抱え)計(ばかり)にして繁茂す、神木と号し杉の木八抱計りにして同所日向宮と称す

 ここでは「朴の木は建御名方命が植えた・神木は杉」となっていますから、大和村教委に異を唱えることになります。ここまで、公式案内板「日本武尊が杖にした朴が育った」に沿った話を進めてきましたから、…慌てました。(八ヶ岳原人ブログ『初鹿野 諏訪神社』

社伝の前半部分は本文冒頭で挙げた現在の公式文と合致する内容だが、問題はその後半、朴の木を植えたのは建御名方命であり、神木は杉であるという記載である。氏はブログ中で、国鉄と祟りとの因果関係を認めるのであれば、鉄道敷設と同時期に枯死してしまった“初鹿野の大杉”こそ祟りの原因とする方が合理的、との見方を提示している。

無論、切り株として残る“初鹿野の大杉”は神社の成立年代に存在していたわけではない。だがかつて御神木は代々“杉”であったとしてもなんらおかしくはない。突飛な発想かもしれないが、むしろ“御神木”として古から受け継がれてきた“杉”をどうにか守るために「老樹慰謝金二百円で培養保護に努め」たとも考えられる。





杉を御神木と仮定すると同時に、疑念が膨らむ。
件の“朴の木”はいつから御神木として祀られているのか、と。





古くは朴も杉も御神木だったのか。
甲斐国社記・寺記』編纂に誤りがあったのか。
鉄道開設や“初鹿野の大杉”が枯死する過程で“朴を神木とした”のではないか。





それは、鉄道開発のやり方に反対する運動の中で生まれた着想で、“朴の木”は“祟りのある御神木”に祀り上げられたのではないか。





反対運動の過程で生じたいくつもの“軋轢”が、ときとして「事件」や「事故」になり、隠蔽されて形を変え、そのいくつかは“祟り”として封じ込められて現代にまで語られているのではないか。








建御名方命(たけみなかたのかみ)は大国主命御子神。天照によって中国平定を命じられた武神・建御雷命に相撲を挑むも一捻りにされ、諏訪の地に蟄居したとされる。諏訪信仰はその後、狩猟・漁業の神として全国に広まった。

※死者233名、流出家屋5757戸、埋没や流出した宅地や田地650ha、山崩れ3353箇所、堤防の決壊・破損距離約140km、道路の流出や埋没、破損距離約500km、倒壊した電柱393箇所とされる(『「米キタ」「アスヤル」ー明治四十年の大水害から百年ー』山梨県立博物館、2007年)。古来より甲州一帯は水害頻発地域だったが、山梨県の近代における最大規模の自然災害に数えられる。