ナショナリズムから逸れて−−〈反日〉/『冬ソナ』

  鬱陶しい日々が続く。
 6月17日、スピノザの『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』(岩波文庫、1955)をやっと読了する。


 さて、

  薗田茂人
  「「ナショナリズム・ゲーム」から脱け出よ 中国・反日デモを見る視点」
  『世界』7月号

を読む。世に氾濫する「反日」ネタのテクストの中では、群を抜いてバランスの取れたテクストだと思った。また、何よりも志が高い。今回の〈騒動〉を巡る様々な社会学的・社会心理学的背景が示唆されているのだが、興味深かったのは、「中国における徳治主義という政治文化の存在」(p.82)の重要性の指摘。また、北京や広州に負けているようじゃ上海の沽券にかかわるといった都市間の対抗意識。
 薗田氏は、「「チャイナリスク」を強く感じるようになってしまった」、


 日本人のこうした意識が、中国政府の統治能力に対する懐疑と、「過激派を取り締まってくれる強い政府」への待望を生み出し、これが結果的に徐々に広がりつつあった自由な言論空間を抑圧する危険性をもつことを、急いで指摘しておかなければならない(p.84)。

 「チャイナリスク」を声高に主張し、中国政府の敵愾心を煽るよりも、未熟な形であるとはいえ、みずからデモを組織し、意見を表明しようとした今回の行動にあたたかな目を向け、「これから世界を一緒に考えよう」と提案するくらいの器量が欲しいと思うのだが、いかがだろう(ibid.)。

と述べる。さらに、

 日本政府は、「中国がやったのだから」などと、日本人による在日中国人や中日中国大使館への攻撃を容認すべきではない。日本側の過激なナショナリズムの台頭を戒め、日中共同で行うプロジェクトを積極的に推進すべきだろう(ibid.)。
と述べる一方で、

 他方で中国政府も、違法行為の再発[摘発?]に努めるとともに、レイシズム的発言をすることの道徳的誤りを宣伝すべきであろう。いみじくも反ファシズム六〇周年を戦勝国として祝おうというのであれば、自分たちの社会がファシスト的言説から自由であることを世界に照明してみせるのは当然だと思うのだが(pp.84-85)。
と述べている。
 尚、薗田氏も援用しているが、上海の〈反日デモ〉を参与観察したアメリカの社会学者James Farrer氏の"Nationalism Pits Shanghai Against its Global Ambition"は必読だろう。




  四方田犬彦
 「「ヨン様」とは何か−−『冬のソナタ』覚書」
 『新潮』7月号


 実は、四方田氏の文章を読むのは久しぶり。
 四方田氏は、『冬ソナ』について、「ここにはほとんどといってよいほど、韓国的な痕跡が存在していない」という。登場人物たちは、「キムチなど見たこともないといった表情で毎日を生きている」(p.208)。さらに、その人たちは、「あたかも韓国が悠久不変の社会であるかのように振る舞って」おり、「韓国現代史をめぐって、チュンサンのみならず全員が、記憶喪失に罹っているのだ」(p.213)。また、最近の韓国映画と『冬ソナ』とは「貨幣の裏表の関係にある」。曰く、「『冬のソナタ』の世界では禁忌とされ、排除されてきたもののすべてが、あたかも下水道を流れる水が地下で巨きな水溜りを形成するかのように、同時期のラディカルな韓国映画の世界にあって増幅され、拡大処置を施されて跳梁している」(p.214)。また、『冬ソナ』は、『美しき日々』(これって、今NHKで放映中なんですよね?)とは対照的に、「韓国人に固有の心情だとこれまで信じられてきたハン[恨]の呪縛からも、距離を置いて制作されている」(p.217)。

物語の中心をなす4人の人物は、いずれもが多かれ少なかれ家庭から解放された存在であって、故郷の春川を離れ、ソウルで気楽な単身者生活を生きている。彼らは家族からのみならず、韓国という物語からも自由であり、気が向けばパリにも東京にも足を向けることができる境遇を生きている(p.218)。
 では、「ヨン様」を受容する日本人の方はどうなのだろうか。曰く、

中高年齢層を中心とした日本人のファンの少なからぬ部分は、ほかならぬこの『冬のソナタ』のコスモポリタン的世界に韓国的なるものを見てとり、それを契機として、ドラマに縁のある場所を巡礼地のように廻る韓国旅行に出かけたり、帰国後はさらに韓国への関心を高ぶらせて、韓国語や韓国料理を学んだりしているのだ。彼女たちはいうなれば『冬のソナタ』を媒介として、旧植民地であった韓国をめぐって、差別感も気後れも感じることなしに語ることのできる言語をようやく獲得したのである。(中略)可能なかぎり韓国色を消去しようとして撮りあげたTVドラマに、旧宗主国の女性たちは自己を投影し、それを韓国的なるものの表象として受け入れたのであった(p.219)。
 ところで、中上健次の英訳者であるEve Zimmermanという方の『冬ソナ』評−−「『嵐が丘』に始まり、『ジェーン・エア』で終わる物語」(p.208)というのは、けっこう納得してしまいます。
 なお、四方田氏はこのテクストを、

 「ヨン様」ブームは、東アジアのなかで文化的なグローバリゼーションが展開してゆく過程で生じた一現象にすぎない。だが、こうした思いがけない事件を通して明らかになることは、領土問題や歴史の解釈をめぐってなされる国家間の対立とは別の地平において、境界を越えたサブカルチャーの交感がなされていることである。日本の少女漫画から村上春樹まで、多くのものが東アジアのメロドラマに新しい鋳型を提供してきた。日本はようやくそのお返しを受け取り、それを日本文化の内側に構造として取り込もうとしている途上なのである(p.221)。
と結んでいる。


 ところで、このようなネタを取り上げていることもあり、〈愛国〉とナショナリズムについてのスタンスを述べておくことにする。何時かはきちんと詳しく展開しなければならないのだろうけど。
 先ず〈愛国〉というのは「愛する」という動詞の誤用。それだけのこと。だから、〈愛国者〉に対して必要なのは、(母語であれ外語であれ)優れた〈語学の教師〉。
 ナショナリズムは〈弱者〉のイデオロギーであって、この〈弱者〉というのは絶対に擁護してはならないカテゴリーだろう。〈弱者〉にとって、主観的リアリティとしての世界は、悪意と恐怖の充満であり、そのことによって、自分のみならず他者の自由まで奪ってしまう。〈弱者〉化というのは、ナショナリズムの存立条件であるとともにその帰結でもある。