「以前読んだ本」

 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060119/1137676496で、内田樹氏の「「以前読んだ本」て何なの?」と疑問を呈したが、その後、


  「配架の愉しみと語彙について」
  http://blog.tatsuru.com/archives/001458.php


というテクストを読んだら、「以前読んだ本」の正体が明らかになった。『ことばから見える現代の子ども』という本である。『作文と教育』55巻7号とあるので、その雑誌の特集ということだろうか。「え」段の話は、渡辺恵美という人が言っているらしいが、「私は京大の集中講義の途中で、この「え段」の逸話を思い出して、「え段」が教室でドミナントな音韻になったら、それは学級崩壊のシグナルである・・・というようなことを申し上げたが、これは少し先走りしすぎた発言であって、渡辺先生はそこまでは言っていなかったのである」ということも明らかになった。孫引きをしてみる;


私の学校は去年から児童会で、『え段を使わないようにしよう』という『やさしいことばキャンペーン』をやっています。『てめえ』『しね』など、最後がえ段になっていることばを使わないということです。家庭が殺伐として、親も含めて、そういうことばの世界だと思います。『食え』とか日常言っています。だからといって、すごい親かというと、そうでもない。しかし、そのことばは限られた小さな世界のなかで通用することであって、一歩外に出た時にその言語を使って、人間関係がつくられていくのかということも、教師のなかで心配していることです。
内田氏が引用した部分を読む限りでは、内田氏が例示したような「「うるせー」、「うぜー」、「だせー」、「ちげー」、「くせー」」といった言葉は出てこない。この渡辺という方が自らの教育実践を〈え段追放運動〉と認識していることについては不可解なのだが、私なりの読みを示してみたい。
例が少ないので、的外れになるかも知れないが、ここで挙げられている3例のうち、「てめえ」はともかくとして、「しね」「食え」というのは、命令形が剥き出しのまま使われているということである。考えてみれば、私たちは日常的に命令形を剥き出しのまま使うということはしない。勿論、丁寧に〈食べて下さい〉とか〈食べなさい〉と言うということはあるのだけれど*1、そうでなくても〈食えよ〉とかいう。つまり、終助詞をクッションとすることによって、剥き出しの命令文を避けているわけだ。命令文を剥き出しで使う状況というのが殺伐としたものであって、かつ命令文を剥き出しにすると発話状況が殺伐としたものになるから、剥き出し命令文は避けましょうというのなら、わかる。それは「え」段に限ったことではない。「い」段(来い)でもありうるし、「お」段(起きろ)でもありうる。そんなものは、五段か下一か上一かカ変かとかいった動詞の種類で決まってくるのだ。
〈剥き出しの命令文追放〉ではなくて〈え段追放運動〉だとどういうことになるか。〈助けて!〉という命令文もパージの対象となるだろう。変質者に遭遇した子どもが悠長に〈助けて下さい〉とか〈やめていただけますか〉とか言っていたら、殺されてしまうぞ。また、善意の第三者にも、その切羽詰まった、絶体絶命の感じは伝わらない。
あと、内田氏が引用している渡辺さんの主張として、

ここ数年気にかかることは『自分のことばを引き取らない』ということです。『たぶん』、『かもね』などのことばを最後につけて、あとから追及がこないようにしています。断定で『そうです』ということばも使わないですしね。

今の学校の子どもたちも共通しているのですが、低学年の語彙の少なさを感じます。『むかつく』と言えば、それで済んでしまう。この年ではこの程度は知っていなければならないと思うことばが、なかなか子どもたち全体のものになっていない。
ということがある。
 前者についてコメントすれば、2つのケースが考えられる。これは私たちにとって世界が直観可能な部分と直観不能な部分(想像や推論でしか到達できない部分)から成っているのに対応している。後者について、のほほんと何の限定もなしで「断定」しちゃうというのは、素朴すぎるというか、〈バカ!〉といって、(小説の題名ではないが)背中に蹴りの1つや2つはプレゼントしたくなる。前者なら深刻といえるだろう。(自分の考えたことではなくて)自分が見たこと感じたことが信じられない、その真偽を引き受けられないということだからだ。ハンナおばさんによれば、自らの感覚がそのままでは信じられなくなったときに近代が始まるわけだから、これは端的にモダニティの症候ということになる。いくら、現象学科学的実在論に抗して〈素朴実在論〉を哲学的に応援したとしても、遺憾ながら蟷螂の斧にすぎない。子どもたちは、幼少時からモダニティに適応し始めているということか。
 後者を引き受けて、内田さんはテクストの最後まで突っ走っているわけだが、これは「即戦力といわれても」*2における視点とも重なるようだ。ただし、「即戦力といわれても」は、惜しむべきかな、理路が破綻しているため、本田由紀さんの正当な突っ込み*3を招く結果に陥っている。
 それはともかくとして、このテクストの最後の部分の

子どもの語彙の貧困は、その子どもの生活圏でゆきかう言語の貧困をそのまま映し出している。
それは子ども自身の責任ではない。
日本語が痩せているということがすべての問題の底流にある。
それはメディアに執筆しているときに痛感することである。
私の原稿はしばしば「むずかしい漢字が使ってある」とか「なじみのない外来語が使ってある」という理由で書き直しを命じられる。
私は原則として修正に応じない。
「読者に読めない漢字があってはメディアとしては困るんです」と言うけれど、そのロジックを受け容れてしまうと、メディアはその読者のうち「最低のリテラシー」をもつものの水準に合わせて使用言語を絶えず下方修正しなければならなくなるからである。
現にそうやって戦後日本のメディア言語は痩せ細ってきた。
例えば、「語彙」ということばを使わせてくれないメディアがある。
これは「語い」と書かなければならない。
私は「語い」とか「範ちゅう」という表記を見ると、肌に粟を生じる。
そういう文字を見ても「平気」というような言語感覚の人間が使用文字について公的な決定権を持っている。
以前に「はなもひっかけない」と表記した原稿を「身体部位の欠陥かかわる表記はやめてください」と差し戻されたことがあった。
「はなもひっかけない」というのを「鼻が低いので、ものがひっかからない」という意味だと解釈したせいらしい。
「はな」は「鼻」ではなくて「洟」である。
「はなみずもひっかけてもらえないくらいに、てんで相手にされない」という意味である。
その程度の語彙さえ持たない人間が言語表記について適否の判定を行っている。
「片手落ち」という表記も「身体障害者差別になるから」と拒否されたことがあった。
私がよく使う「短見」というのも「視覚障害者差別になるから」という理由でいずれ拒否されるだろう。
「狂人」や「白痴」や「気違い」などの語はそもそもATOKに登録されていない。
政治的に正しいことばづかい」をメディアや文科省は久しく唱道してきた。
そのこと自体に文句はない。
けれども、それはただ「使える言葉をひたすら減らす」というかたちでしか行われてこなかった。
「美しいことば」「響きの良いことば」「意味の深みをたたえたことば」を増やすという方向には、戦後日本のメディアも教育もほとんど何のアイディアも持たなかった。
日本語の痩弱に歯止めがかからないのは、「ことばなんかいくら使用制限しても日常生活に少しも不便はない」という(渡辺先生のいう)「生活言語」の全能への信仰が現代社会に瀰漫しているからである。
「瀰漫」と私はよく書く(カンキチくんは「びまん」という読み方が最初はわかりませんでしたと正直に告白していた。今は読めるということは、ちゃんと広辞苑をひいたということである。よいことである。次に奨学金が入ったら、白川静先生の『字通』を買いましょう)。
これもおそらくメディアに投稿したら「び漫」と直されてしまうのであろう。
けれども、「瀰漫」は「蔓延」や「波及」や「一般化」とはニュアンスが違う。
どのような他の語をもってしても「瀰漫」の語のはなつ「瘴気」に類したものは表すことができない。
この「瘴気」だってそうだ。
「毒気」では言い換えることができない。
これを「しょう気」と書き直されたとき、誰がその原義にたどりつけるであろうか。
でも、そのようにして、メディアは日本語の語彙を減らすことに全力を尽くしている。
それは「最もリテラシーの低い読者」の読解力に合わせて無制限に下方修正を繰り返すということを意味している。
その結果が、現在の索漠たる言語状況である。
勘違いしているひとが多いが、「現代人は情感が乏しいので、情感を表す語彙が貧困になった」のではない。
「情感を表す語彙が乏しくなったので、情感が乏しくなった」のである。
ことの順逆が違うのだ。
言語の現実変成能力がどれほど強力なものか、それをほとんどの日本人は理解していない。
とりわけ理解の遅れた人びとが現代日本の「国語」を宰領している。
という言語観には共感してしまう。ただ、「「美しいことば」「響きの良いことば」「意味の深みをたたえたことば」を増やすという方向には、戦後日本のメディアも教育もほとんど何のアイディアも持たなかった」というが、勿論これは誤っていない。しかし、言語というのは、美醜清濁両面あってはじめてその豊饒さを維持できるともいえるのでは?
 四方田犬彦氏がまだ東洋大学の英語教師だった頃、今時の学生はfuckっていう単語も知らないんだから!と学生の無教養ぶりを詰っていたということを又聞きしたことがある。fuckくらい自分で覚えろよとは思うが、自分で覚えられないんだったら、学校教育の英語の時間に教えるしかないでしょう。

*1:仮令丁寧な〈死んで下さい〉とか〈死んでいただけますでしょうか〉であっても、そういう発話がなされる状況というのは尋常のものとは考えられない。

*2:http://blog.tatsuru.com/archives/001500.php

*3:http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060118#p4