私、〈私〉ではなくとも、やはり私

  内田樹
「「すみません」の現象学http://blog.tatsuru.com/archives/001527.php


 ここで言及されているレヴィナス的な意味での「絶対的他者」(すなわち「私」)云々の話、またそこを根拠とする倫理の話は取り敢えずパスして、直接「私」について言及されているパッセージを抜き書きしておく;


「私は私である」という自己同一性を担保しているのは、私の内部が光で満たされており、私が所有するすべてのものがすみずみまで熟知されているということではない。
そうではなくて、「自分が何を考えているんだかよくわかんない」にもかかわらず、平気で「私が思うにはさ・・・」と発語を起動させてしまえるというこの「いい加減さ」である。
言い換えれば、「私のうちには、私に統御されず、私に従属せず、私に理解できない〈他者〉が棲まっている」ということをとりあえず受け容れ、それでは、というのでそのような〈他者〉との共生の方途について具体的な工夫を凝らすことが人間の課題なのである。
「私である」というのは、私がすでに他者をその中に含んだ複素的な構造体であるということを意味している。
「単体の私」というものは存在しない。
私はそのつどすでに他者によって浸食され、他者によって棲まわれている。
そういうかたちでしか私というのは成立しないのである。
私の自己同一性を基礎づけるのは、「私は私が誰であるかを熟知している(あるいは、いずれ熟知するはずである)」ということではなく、「私は自分が誰だかよくわからない(これからもきっとよくわからないままであろう)」にもかかわらず、そのようなあやふやなものを「私として引き受けることができる」という原事実なのである。
私の過去と未来には宏大な「未知」が拡がっている。
私たちの未来は「一寸先は闇」ですこしも見通せないし、過去は一瞬ごとに記憶から消えてゆき、残った記憶も絶えず書き換えられてゆく。
そのただ中に「私は誰でしょう?」という自問を発する主体がいる。
にも拘わらず、現在このようにして世界を構成しているのはでしかない。換言すれば、現在このように世界が現れているのはに対してでしかありえない。それは私がどうしようもなくジコチューな奴であることを必ずしも意味しない。それは、誰のものでもない(誰のものでもありうる)世界の一角を私が居場所として与えられているにすぎない(ということを私が知っている)からである。他の人々は既に世界における位置からして(私とは)違っている。とすれば、世界の現れ方も私とは違っている筈だ。勿論、他の人だって、もし私と位置を交換すれば(ここで時間の流れは捨象されることになるのだが)私に今現れているように世界が現れる筈だという思い込みはある。「「自分が何を考えているんだかよくわかんない」にもかかわらず、平気で「私が思うにはさ・・・」と発語を起動させてしまえるというこの「いい加減さ」」。たしかに「いい加減」ではある。しかし、「私が思うにはさ」は発し続けられなければならない。いきなり他の誰かが(誰もが)そう思っているとしたり、世界のこの現れを世界そのものに帰属させて、〈これは客観的に〉云々といってしまうことは、私にとって全くの越権に過ぎないからである。