無知と知の関係

 またkmizusawaさん*1経由で凄いのを知ってしまった;

http://blog.livedoor.jp/mahorobasuke/archives/50487989.html
http://blog.livedoor.jp/mahorobasuke/archives/50496546.html


いちいち内容に言及して突っ込んだりするのは、知的資源の無駄だと思うので、そういうことはしない。こういう手合いは多分合理的に説得される能力に欠けているのだと思う。俗に言うところの〈馬鹿は死ななきゃ(死んでも?)治らない〉ということでしょうか。
さて、kmizusawaさんは「あと、よく「無知は差別や偏見を生む」っていうけど、こういうのを読むと、むしろ偏見が知的好奇心のあり方(どんなものを読むか、どんなものを見るか、どんなものに耳を傾けるか)に影響を与えてる感じ。相互に影響してるんだろうねきっと)」とかいている。たしかに、


 「関東大震災時の朝鮮人大虐殺」があったのか、
 私は知りません。

 私は生まれてすらないのだから知っていなくてあたりまえ。
 当事者でないのだから、知らないものは知らない。ただそれだけ。
 私からすれば、自分が見ても聞いてもいないものを、さも体験したかのように語ることができる人のほうが不思議?なおかつ、そんな正確とは言いがたい意見を他人に押し付けることができるほうが不思議。

 知ったかぶりをするのは簡単。知ってるつもりになるもの簡単。
 自分がどっかから拾ってきた情報をさも「定説」のように振りかざすのも簡単。
 どこかの誰かさんが書いた本を鵜呑みにして「正義感」を振りかざすのも簡単。
 
 知ったかぶりをするより、私は「知らないものは知らない」と言うことを選びます。
http://blog.livedoor.jp/mahorobasuke/archives/50496546.html

と書かれている。しかし、ここで連発される「知りません」攻撃はレトリカルなものだ。つまり、これとは別の〈私が自信を持って知っている〉ことを隠蔽するためのものである。という意味では相当の〈阿婆擦れ〉なのだが、少し読めば、それが知らず覚えず〈自己言及〉になっちゃっていることはばればれ。そういうところに何かしら可愛気があるのだけれど、こういう言説って、〈目のやり場に困る〉。こういうのは目を顰めつつも黙っているのが作法なのかも知れないが、誰かが勇気を出して、敢えてパンツ、見えてるぞ!(男の場合だと、〈社会の窓、開いてるぞ!〉。)と教えてあげるべきなのだろうか。親切心を出しても、逆ギレされて面倒臭くなる可能性はすごく高そうだし、判断に迷うところだ。
無知を装って、その実〈私が自信を持って知っている〉ことを主張するテクニック。その〈私が自信を持って知っている〉こと自体がある種の〈無知〉の効果であるということは今はいわない。それよりも、〈他者に読まれている私〉を意識しない(できない?)というところが痛いのかも知れない。というよりも〈他者〉というのは、この人にとって、そもそも「私は知りません」の範疇に入っているのかも知れない。それも〈無知〉の一種ではある。ややこしいのは、そういう〈他者の不在〉も装われたものだという可能性があることだ。もうそこまで行けば、降参ですというほかあるまい。