ファッションと共同体その他

Leiermannさん*1からコメントをいただいたので、早速http://d.hatena.ne.jp/Leiermann/20060112/p1についてコメンタリーをさせていただくことにしたいのだが、その前に回答になっているかどうかはわからないが、Leiermannさんのコメント*2にリプライを試みることにしたい。
まず、「何の前提もなく「母親がださい服を与えているなら、いやでも反抗せずにはいられない」と書かれていますが、誰にとっても「だささ」という感覚は存在するとお考えになられている理由は何でしょう?」ということですけれど、これは先ずjournalism-1さんの論を私なりに承けてのことだということをお含み下さい。私が思うに「だささ」の源は〈外部の視線〉です。この意味では、誰もが「目の見えない人」と同じ位置に立っていることになる。ことの良し悪しは別として、〈親の影響〉が相対化されるのは、〈外部の視線〉を浴びて以外にはないと思います。ある年頃になると、自然に心の中に反抗心が芽ばえるというわけではない。journalism-1さんのおっしゃることに戻せば、GAPのような精緻なマーケティングに基づいて商品化された服はそういう〈外部の視線〉との摩擦を免れやすく、それ故に〈親の影響〉を脱して自らのtasteを形づくる機会を逸するということで理解可能かと思います。
「「非モテ」を指して「自分のtasteの基本的な部分が母親の支配を脱していない」とおっしゃいますが、例えば文学や音楽の好みははっきりしているのに服飾に関心がない人(私も含む)も存在することはいかがお考えでしょうか。このような決めつけは正直余り愉快なものとは申せません」。これは飽くまでも、「決めつけ」のつもりで書いたのではなく、こういう解釈もできるよねということでしたので、気分を害されたのでしたら、お詫びします。また、この妥当性は経験的にしか検証できないものなので、私の言っていることは少なくとも普遍的な妥当性は持たないということになります。で、コメントの後段ですが、
「服装」についてのtaste、「音楽」についてのtaste、「文学」についてのtaste、さらには美術についてのtaste、それから味覚等々は、経験的には相互に関係していることは考えられるものの、原理的なレヴェルではそれぞれ独立に考えてみることが可能だし、そうすべきでしょう。taste一般は存在しえないのではないか。
「以前「俺は服に興味がない」と知人の前で発言したところ、「君は何かを無意識に抑圧しているのだ」と反証不可能な断定を下されて憤慨したことがありますが」これについては後ほど。
http://d.hatena.ne.jp/Leiermann/20060112/p1
先ず、「ファッション」というのは単数名詞なのかどうかということ。ファッションが「社会的な強迫の構造」、もう少しニュートラルにいうと、社会的事実であるということは事実です。しかし、その「社会的な強迫の構造」は決して単数ではありません。諸「ファッション」が存在するということです。それでないと、例えばファッション雑誌が男性向け・女性向けを含めて、これほど細分化されていることは理解できません。ほかの喩えを使えば、トラッド系が好きな人とストリート・ファッションが好きな人とアヴァンギャルドなデザイナーのものが好きな人では、音楽でいえばクラシック・ファンとヒップホップ・ファンとプログレッシヴ・ロックのファンくらい差があり、後者を同じ音楽ファンで括るのが難しいように、前者を同じファッション好きで括るのは難しいでしょう。で、そもそもセンスの良し悪しとかは、その細分化されたファンの共同体の中でしか通用しないものだと思います。共同体を選ぶセンスというのはあると思いますが、それは試行錯誤を重ねる中でしか獲得できないとは思います。ほかの共同体内部のことは、そもそも理解不能である可能性がある。勿論、共同体に重複してコミットすることは可能だし、居心地が悪ければほかのところに移ればいい。そうやって試行錯誤しながら、居心地のいい場所を探すことになるんじゃないでしょうかね。或いは、場合によっては、新しい共同体を自ら立ち上げるということもありうる。また、日本語のではなく英語のfashionについて、その「様式」とか「流儀」という意味を参照しつつ、「他者に向けた自己の様式化」、「他者に向けて自分をある様式を持った者として呈示すること」と仮に定義したことに従えば、服なんか興味ないぞというのも、fashionに対するスタンスなのであり、そういう人はそのような共同体にコミットしているということになるでしょう。で、「以前「俺は服に興味がない」と知人の前で発言したところ、「君は何かを無意識に抑圧しているのだ」と反証不可能な断定を下されて憤慨したことがありますが」というのは、偶々その「知人」がファッションに関して別の共同体にコミットしていたということであり、それ以上でもそれ以下でもないでしょう。
それで、Leiermannさんの考え方で問題なのは、ファッション=金というふうに短絡していることではないでしょうか。例えば、


私自身、正直なところ学生としては経済的に恵まれている方だと思うが、「脱オタ」の選択肢は経済的に存在しないと言ってよい。私より一桁、いや二桁多い金を衣服や装飾品につぎ込んでいる人を周囲に見かけるが、どこから金が出ているのか不思議でならないのである。

このような強迫に曝され、服装によって対人関係が致命的に変化する状況とあっては、馬鹿にされたくない若い人は否応なしにファッションに金を際限なく注ぎ込むことになる。
そりゃ、モノを買う以上、ロハというわけにはいかないでしょうけど、金を出せばいいというのは、諸「ファッション」の中の一部に過ぎない。〈成金趣味〉というのはありますけれど、そういうのって、お笑いのネタにもなっているわけですね*3。Leiermannさんが援用されているhttp://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2005/12/post_5e34.htmlだって、かなりアイロニカルな物言いで、要するに〈センスのない奴は金を出せ〉っていっているわけでしょ。それから、UNIQLOを貶しているのではないということは、http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2005/12/pcpc_1459.htmlを読めばわかります。UNIQLOを着こなすのにはセンスが要り、それは「PC初心者の相談に対し、上級者がいきなり自作PCの作り方を教えている」ようなものだといっているわけですから。
で、問題は自分は服には興味がないということで、泰然としていればいいのに、「過剰に金を「モテざる者」から吸い上げようと」しているとか、余計な心配をしてしまうことでしょうかね。他の共同体のことはあくまでも〈異文化〉として平然と眺めていればいいんじゃないですかね。その方が、http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2005/12/pcpc_1459.htmlで書かれているような〈センスを金で買う〉という態度よりはよほど「おしゃれ」ではありますが。
実はファッションの恐ろしさというか面白さというのは全く別のところにあると思うのですが、それは今度ということで。
それから、partygirl さんの「ほとんどの子が服のために体売ったりはしないよ。安くて流行りの服はいくらでもあるし、古着もある。一部のバカの話」というコメントに対して、

まず、「安くて流行りの服」や「古着」をうまく見つけるにはそれなりの心得が要ると思うのです。パソコンなどでも、安くて高機能なものや中古品を手に入れて扱いこなすにはそれなりの知識と経験が必要なのと同様です。そういう知識は、寝ていても手に入るものではありませんし、受験勉強よろしくそういう知識を押しつけられれば、金銭的搾取は避けられても精神的に搾取されることになると思います。
というリプライはないと思う。「一部のバカの話」というのは問題ありにしても、服買う金欲しさに危ないことをしようとする子どもに対しては、「そういう知識」を試行錯誤の中から身に着けるよう教えるというのは極めて現実的な選択だと思う。