クールな「キモイ」

http://anotherorphan.com/2006/05/post_272.htmlで言及されている「キモイ」という言葉。その言葉の意味がちょっとずれているなと思った。同じ筆者のhttp://anotherorphan.com/2006/05/post_270.htmlを読むと、それははっきりする。この方は高校の先生で、件の「キモイ」は教えている高校生が使っているのに準拠しているようだ。曰く、


一方、今年の生徒は、「ウザイ」も「シネ」もほとんど最初から一度も言わない。変わりに、彼らの口から二言目には衝いて出てくるのは「キモイ」という単語だった。この単語は、彼らの自意識のありようが、個人的なる者に対する執着よりも、むしろ狭い共同体の価値観に対する執着にあることを示している。「ウザイ」とか「シネ」という言葉が依拠していたのが個人的な拒否感であったとするならば、「キモイ」という言葉が依拠しているのは、彼らの足元を形成している文化圏に対するある種の忠誠である。「キモイ」という言葉は、絶対的な反発というよりは、ある比較の元に生まれる相対的な位置づけの行為であり、もっというならば、「キモイ」というレッテルを貼ることにおいて、彼らは自分を相対的に「イケテル」存在であることを、確認したがっているかのようだった。しかも、自分ひとりでそれを確認するのではない。「キモイ」と口に出す生徒たちは、横の生徒と、前の生徒と、一団の生徒と、徒党を組んでその「キモさ」を確認したがるのだった。
うーん。「狭い共同体の価値観に対する執着」とか「彼らの足元を形成している文化圏に対するある種の忠誠」ということをひとまず横に置いておくと、そのニュアンスは(私からすれば)「ウザイ」に近い。何故かと言えば、ここでいう「キモイ」には、私が「キモイ」によって喚起される、あの肌に染み着くような、ねっとり感がない。「キモイ」が喚起するねっとり感、それは一方では吐き気のような生理的反応を呼び起こし、自分の存在自体が汚染されてしまうような感じにさせる。他方、それにも拘わらず、或いはそうであるが故に、〈怖いもの見たさ〉というか、不思議にこちらの注意を向けさせてしまう力を持っている。つまり、「キモイ」ものは(ある意味で)〈魅力的〉なのである。それに対して、「ウザイ」は軽い。そこにはとくに何の感情も湧かない。憎悪さえも。対応にしたって、「キモイ」ものに対しては、「キモ」さが乗り移ってしまうのか、どうしてもねっとりした対応になる。それに対して、「ウザイ」ものに対する対応というのは、クールというか事務的である。
どちらが危険で残酷かと言えば、クールな「キモイ」の方だろう。「ウザイ」ものを排除するときに、何の感情も湧かない。心に波風は立たないのである。ということは、「キモイ」ものを排除するという自分の暴力に対しての嫌悪感だとか罪悪感とかが生ずる余地はない。また、そこには例えば〈キモカワ〉というような両義性も生じることはないのだろう。
ところで、ここでは「キモイ」を発する心性をニーチェのいう「奴隷道徳」に喩えている。しかし、「奴隷道徳」の場合には、プラトニズムがそうであるように、超越的な実体の捏造がある。この場合、捏造される超越的実体とは何なのだろうか。