「悪い人」


わたしが子どものころに見た映画には、とてもわかりやすく「悪い人」がでてきて、堂々たる悪人ぶりを発揮していたものであった。彼らは、人類を破滅させようとしたり、世界を支配しようとしたり、社会を不安に陥れようと画策したりしていた。ひどいものである。「なんて悪いやつらだ。どこからどうみても、悪いやつらにしかみえない」と、子どものわたしは感じていた。しかし、今、そのように単純な悪役がでてくる映画はない。映画から、あの「悪い人」がいなくなってしまったのである。あの人たちは、どこへいったのだろう。あやしいけむりがたちこめる、地下の秘密基地で、どす黒い計画を練っては、「がっはっは」と高笑いしていた、あの、わかりやすい悪人たちは。きっと、わたしたちは、どこかのタイミングで気がついたのだ。

「そんなにわかりやすい悪人はいない」 
http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20060809#p1

ドラマで伊武雅刀の顔が出てくると、途端にスキャンダルの臭いがぷんぷんしてくるというのはともかくとして。学園物のドラマでは、教頭先生=悪という図式は数十年間変わっていないような気がする。この図式の起源はいったいどこにあるんだ? 
そういうせこい「悪い人」の話ではなかった。今引用した後に「冷戦構造の終焉」という言葉が出てくるのだが、この「冷戦構造」というのは蘇聯のアフガニスタン侵略を契機に80年代に復活したもので、80年代に作られたシルヴェスター・スタローン主演の映画はその復活した「冷戦構造」に対応するものなのだが、少なくとも60年代・70年代の映画では別の説話論的構成があったように思える。007のイアン・フレミングによる小説版と映画版を比べてみると、前者は1950年代的というか蘇聯=絶対悪という図式で一貫しているのに対して、後者では悪の組織「スペクター」が米蘇対立を煽って漁夫の利的に世界征服を狙うという構図になっていた。〈悪〉はメタ・レヴェルに立っていたわけだ。また、70年代にはもう1つの〈悪〉が登場する。この場合、〈悪〉は米国国内に設定される。権力者(eg. ホワイト・ハウス、CIA etc.)は重要な事実を捏造したり・隠蔽したりして、米国民を欺き、思うが儘に操作するという図式である。この手の〈悪〉の図式の魁として記憶に残っているのはPeter Hyams監督のCapricorn One
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という映画*1なのだが、この図式は〈ケネディ暗殺〉物とかUFO関連とかを通じて、今日まで命脈を保っているのではないかと思う。
映画のメインストリームにおいて現在「単純化された悪のイメージ」が通用しなくなっているとすれば、それは悪や善を為す主体*2、或いは主体が体現する意志(will)というものの信憑性(plausibility)が衰えてきたことと関係があるのではないか。とはいっても、以前にも書いたかもしれないが*3、未だに流行の衰えを見せない〈陰謀理論〉というのは、一方では陰謀する全能なる主体を設定し、他方では世人は騙されているけれど自分はそれに気付いているという仕方で自らの主体性を救出しようとするものである。また、これは見えている現象の背後に真理ありと主張する限りにおいて形而上学的であり、その隠された「真理」が見えている現象を規定し尽くしていると主張する限りにおいて本質主義的である。

ところで、私が気になっているのは仮に〈ドラキュラ型〉と名付けておきたい〈悪〉の図式である。被害者がその被害によって加害者(悪)になってしまうという図式。勿論〈ドラキュラ型〉なので、その淵源は19世紀のゴシック・ロマンにあるのだろうけど、より一般的なかたちで映画の世界に入り込んできたのは、「冷戦」の初期、マッカーシズムの時代ではなかったかと思ったのだが、その具体的な映画名を度忘れしてしまった。

*1:http://movies.yahoo.com/shop?d=hv&cf=info&id=1800044014

*2:ここでいう「主体」とは個人或いは集団に限らない。〈利己的な遺伝子〉のような場合もあれば、〈資本主義〉といった体制或いはもっと抽象的な〈本質〉が「主体」として定立されることもある。

*3:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050904