人権を巡って

承前*1


私は、彼は正しいことをしていると思う。

人権は命より大事なものだ。絶対に守るべきもので、もし奪われたらどのような手段を取ってもそれを訴えるべきだ。訴えが聞かれなかったら、聞かれるまで訴え続けて、それをやり尽くしてそれでもダメだと思うなら、人権侵害を止める唯一の手段が自殺だと思うなら、死んだほうがいい。

ここまで物事がきちんとわかっている人に、「君にはわからないけど他にも君の人権を守る手段はある」とは私には言えない。彼が最終的に絶望したのなら、それは本当に可能なことを全てやり尽くしたのだと思う。

人権を失ったまま生き続けても、そんな命に意味はない。
http://d.hatena.ne.jp/essa/20061108/p1


まず、一つ確認しておこう。

人権というのは、絵空事であることを。


人権を莫迦にしているからではない。

人権を大切にしたいから、人権が絵空事であることから目を背けるべきではないのだ。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50681955.html

また、それに対して、

なんだかリアルとか絵空事とか言ってる人がいますが。

人権ってのは血を流して勝ち取ったものでしょ。あるいは血みどろの抗争を経てたどり着いた、共倒れを避けるための「手打ち」。

流した血はリアルでしょ。それを絵空事とか言う奴は血を流して死ねばいい。だけど、血のリアリティが忘れ去られた頃にはグダクダになってくる。所詮は決め事といえばその通りだ。そんな時はもう一度血を流さなくてはいけないのかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/rna/20061108/p1

人権と日本語で言うと如何にも抽象的に聞こえる。しかし、英語ではHuman Rightsと複数形で表記される。英語或いは仏蘭西語その他で考える限り、人権とはともかく複数の具体的な権利の集まりだということは直ぐにわかる。これは人権という観念がそもそも舶来のブランド品であったということとも関係があるかも知れないが、直接には英語(というか印欧語)において単数/複数が文法の準位に属する事柄なのに対して、日本語では(それから中国語でも)語彙の準位に属する事柄であることの効果にすぎないだろう。勿論、rightは権利であるとともに法であるので、普遍性を要求し、且つ自ら普遍を称する。当然、その起源にある「血」は表面には見えないが、具体的な個々の権利という準位では、それでも微かであるかも知れないが、「血」の匂いくらいは残っている筈だ。普遍性とはいっても、それは様々な場面で(時には再び「血」を呼び起こしながら)反復され続けた(続けている)ことの効果にほかならない。換言すれば、(こういう言い回しが妥当かどうかは知らないが)ダーウィン的な自然選択をサヴァイヴしてきたことの効果であるともいえる。だからこそ、人権が「絵空事」か「リアル」かということよりも、或る種の保守主義の立場に立てば、それがまさに生き残ってきたということをシリアスに考えなければいけない。

逃げろや、逃げろ

承前*1

また別の手紙が届いたらしい;


またいじめ訴える手紙 高2女子、文科相あてに
2006年11月09日22時20分

 文部科学省は9日、伊吹文科相あてに、高校2年生の女子生徒を名乗る人物から、いじめを受けており自殺すると訴える手紙が同日午前に届いたと発表した。

 手紙はA4判のリポート用紙2枚。8日付の「渋谷」の消印がある茶封筒に入っていた。また、11日にいじめた人を殺して自分も死ぬという趣旨の記述があった。

 同省が7日に発表した別の差出人不明の「いじめ自殺予告文」では、11日に自殺の決行を予告している。今回の手紙の「11日」はそれを指したものだ。同省は、1都3県の教育委員会などに手紙をFAXで流し、調査を呼びかけた。

 今後こうした手紙が届いた際の対応について、木岡保雅・児童生徒課長は「ケース・バイ・ケースで対応する」と話した。
http://www.asahi.com/national/update/1109/TKY200611090257.html

一般的な疑問だけ述べれば、何故逃げないの?ということだ。或いはどこかに避難するとか。「いじめた人を殺」すなんて、何時でもできる。どこかに逃げるとか避難するという選択肢が(主観的にも)ないということが問題なのか。勿論、本人を責めるべき問題ではなく、問題なのは直接的には周囲であろうし、社会なのだろうとは思う。

いじめられっこに共通する心理なんですが、「親には知られたくない」ってのがあるんですよ。いじめられっこの心理的に「いじめられる=自分の恥」みたいに感じるところはあると思います。俺、小学校のときいじめに遭ってたからわかるんだよね。

 その場合、親がやるべきことは、学校に喧嘩売ることじゃなくて、息子の意向を聞き、それに添うことだと思います。実際、息子は不登校というサイン出してるわけなんで、退学→転校、再入学っていう選択肢もあると思うんだが。多分、中学浪人とか珍しくないと思うんですよ、長野って。山形みたいなもんじゃん。田舎度は。山形だって中学浪人多いっす。

 まだ高校1年だったらそういう選択肢もあったのでは。つーか、DQNの坩堝みたいな学校抜けてマトモなところ入るだけでもかなり違うと思うし、いじめの対症療法としては正直言って、「今いる世界と別の世界を作る」か「今いる世界を別の世界に交換する」しかないと思います。俺は家庭の事情による転校+俺自身の不良化でいじめがなくなりましたけど。
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20051211


「逃げる」というとすごくネガティブなイメージを持つと思うんだけど、「逃げる」ってアリっすよ。

 そのまま戦って戦い疲れて死を選ぶんだったら、とりあえず逃げて英気養ったらまた戦えるわけだし、それに、わざわざ相手のフィールドに立って戦う理由なんざねえ。

 「自分に合う場所」が無かったら「自分に合う場所を探すために今の場所から出る」のは戦略だしね。

 魚釣りに例えるのもなんだけど、魚がいつまでも釣れなきゃ釣り場所を変えるだろ?それを逃げというやつはいない。

 それを逃げとたとえるのは世間知らずのキチガイだけだ。相手にする必要はねえ。

 ただ、ここんところのいじめ自殺見てると、その逃げ場所がないってのが問題かと。

 義務教育だと転校という選択肢しかないからなあ。転校にしても滝川市とか新庄マットなんかは地理的にかなりしんどいしなあ。
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20061102/1162482691

具体的にはこういうことになるのだろうが*2、実は逃げようと思えば地球上どこだって逃げられる。また、逃げる場所がなくても実は逃げる場所は残っているのだ。早い話、自室に引き籠もってしまえばいいのだし、脳内には「「いじめた人」だって入り込めないわけだから、脳内亡命ということだってある。
ただ、脳内亡命するにはやはりそれなりの文化資本、或いはそれと密接に関連した教養が絶対必要というわけではないにしても、それらがあった方が亡命しやすいし、亡命先の選択肢も拡がるだろう。古文や漢文が読めれば、直ぐに(戦時中の夷斎石川淳先生みたいに)江戸時代に脳内留学することができる。何故英語をやるのかという問題*3とも関係あるかも知れない。英語(或いはほかの言語)がわかれば、何か嫌なことがあっても、直ぐに脳内留学(現実逃避)することができる。語学に限らず、(実社会においても、また受験においてさえ役に立たないと思われている)教養的なものを学校でやるのかということを何とかして正当化(justification)しなければいけないとしても、取り敢えず現実逃避のためということで充分だと思う。ただ、英語について言えば、日本国内ではどうか知らないが、地理的な逃亡にも役立つ。現代世界において、その是非はともかくとして、世界の何処でも英語ができた方ができないよりも、実入りのいい身過ぎ世過ぎがゲットできる可能性が高い。
勿論、官のすべきことは「いじめ」の中でも傷害とか恐喝といった犯罪を構成するものに関しては、それに対応した処置をきちんと執るころだろう。しかし、それよりも必要なことがある。ヒッキーを矯正する施設なんか要らない。寧ろ必要なのはリラックスして引き籠もれる場所なのだ。

エアセックス?

http://www.zakzak.co.jp/top/2006_11/t2006110910.html


「国際エアセックス連盟の総帥」である杉作J太郎氏のコメントで、「童貞とおぼしきファイターはいい。彼らは『やっと女とヤレる』ぐらいの意気込みで攻めますから」というのがあった。
インターネット以前の「童貞」にとって、セックスというのは存在はしているものの、具体的に表象不可能なものであった。いってしまえば、間接的にしか提示されえない表象不可能なものを妄想していたわけだ。だから、「童貞」が「エアセックス」できるというのは、ネットを通していくらでも(自ら想像力を使うまでもなく)表象を(しかも動画で)ダウンロードできるということを前提としている。

Filipino maids

ZHANG Liuhao “Filipino maids sought for English” Shanghai Daily 7 November 2006


広州では子どもの英語力を強化するためにフィリピン人メイドを雇う親が増えているという。フィリピン人にしても、同じ給料ならば香港よりも物価の安い中国大陸の方が金が貯まる。それ故、特に大卒のメイドが求められているという。但し、低学歴の人でも英語力に問題はない。広州で中国人のメイドを雇うと、平均で月800元かかるが、フィリピン人の場合だと2000元以上。既に100人以上のフィリピン人がメイドとして働いているというが、その多くは不法就労である。
日本では、子どもの英語力のために外国人のメイドを雇えばいいという話は殆ど聞かない。というよりも、日本ではメイドといえば、メイド喫茶であり、家事をさせるために雇うという発想がそもそもないか。

重要な他者、そして『嵐が丘』

承前*1

なんばさん(再び)曰く、


元記事*2では「存在そのものが否定される」って書いたけど、逆に「存在そのものが肯定される」というのは彼女にとって自分が生きていることに意味があり、たとえるなら彼女の人生が閉じるとき、エンディングで流れるスタッフロールに名前が出てくる、みたいな。。。そんなイメージ。

身を属性で固めても「通行人A」だったり、たとえセックスしたって、それこそ体の上を通り過ぎた人という認識で「特殊通行人A」みたいな扱いだと、とても肯定されているとは言えない。エキストラ扱い。もっとひどいと小道具扱いかも。こたつの上に置いてあるみかんみたいな。(←無理矢理タイトルにつなげてみた)
http://d.hatena.ne.jp/rna/20061101/p2

社会学をかじったことがある人だと、重要な他者(significant other)という言葉が思い浮かぶのではないだろうか。ただ、一般の社会学的或いは心理学的言説を読むと、あまりに安易に、例えば親子だったら、夫婦だったら、自動的に〈重要な他者〉になるかのような錯覚を覚えることもある。物象化に加担しやがって! 重要な他者という関係は、親子や夫婦という役割行為に還元できない。
さて、恋愛というのは、whoの露呈ということではやはり特殊というか、或る意味で特権的なケースといえるだろう。つまり、whoとしての私の存立が、さらにはそのような私にとっての世界の存立が別の1人のwhoとしての私=他者によって(のみ)支えられる(と思い込んでしまう)からだ。それだけではなく、私が私の身体的境界を越境して(勿論一時的ではあるが)他者と合一することが目指される。勿論、その時には一時的ではあれ、私の同一性は勿論のこと、世界そのものも消去されてしまうわけだが、私−世界の消失において、私−世界がたしかに実在することがありありと示されるという逆説的事態。さらに、そうした合一による私−世界の消失への期待とかつてたしかに合一したという記憶が恋愛という出来事を稼動していく。
ここで、J. Hillis Miller The Disappearance of God: Five Nineteenth-Century Writers(University of Illinois Press, 2000)
The Disappearance of God: Five 19th Century Writers

The Disappearance of God: Five 19th Century Writers

から、エミリー・ブロンテ嵐が丘』のキャサリンの言葉を引用しておこう;

If all else perished, and he remained, I should still continue to be; and if all else remained, and he were annihirated, the Universe would turn to a mighty stranger. I should not seem a part of it(cited in p.174).
前のパラグラフで言い忘れたが、恋愛という出来事を特徴付けるのは、このリアリティ?が相互的・対称的なものとして構成されるということだろう。この点において、恋愛は一神教的伝統に於ける神秘体験と区別されることになる。ミラーはいう;

Catherine’s relation to Heathcliff differs in one important respect from the relation between the created soul and God as Emily Bronte defined in the poem*3, or as it is defined traditionally in Christian theology. What Heathcliff is for Cathy, Cathy is also for Heathcliff. He speaks in exactly the same way about her as she speaks about him, and the same relation is being dramatized, whether we see their love from the point of view of Cathy or from the point of view of Heathcliff. (…) If Heathcliff is the ground of Cathy’s being, Cathy is the ground of Heathcliff’s, whereas, though God’s creatures could not exist without God, God is defined by His absolute self-sufficiency(ibid.).
さらにミラーは続ける;

Cathy and Heathcliff are as inseparably joined as trunk and root of the living tree. Their relation to one another excludes or absorbs their relation to everything else. Each is related to the rest of the universe only through the other. Through Heathcliff, Cathy possesses all of the nature. Through Cathy, Heacliff possesses it. As in Dante’s “The Sun Rising,” the whole creation has organized itself around their relation, as around its center or source, and God in his heaven is ignored or dismissed. If the mystic says: “I am because I am God,” or if Descartes says he is because he thinks, Cathy must say: “I am Heathcliff, therefore I exist.” (pp.174-175)
序でに言えば、communionとannihilationのほかに”a third dreadful possibility”としての”the violent separation of the trunk from its root”(p.175)がある。日本語の恋ふが乞ふであるように、通常恋愛といえば、この〈合一の欠如〉を耐えつつ生きることであるかも知れない。さらにいえば、たんに生きられるものでしかない合一が語られるものとして現れるのはこの分離においてである。合一の欠如を代償として言葉が語られる空間が現れるといえようか。
何れにせよ、世俗的なパースペクティヴから見れば、恋愛というのは、とんでもないもの、災難のようなものといえよう*4。小説『嵐が丘』ではまさにこの災難にコスモロジカルな、或いはハルマゲドン的な意味が与えられているわけだが。恋愛に憧れるというのは、言ってみれば、地震も颱風もない穏やかな地方に暮らす人が地震多発地帯や颱風銀座に憧れるようなものだ。天災と違うのは恋愛という災難が地理的なロケーションに関わりなく襲撃するということだろうか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061029/1162091586

*2:http://d.hatena.ne.jp/rna/20061019/p1

*3:ミラーは

Though Earth and moon were gone/And suns and universes ceased to be/And thou wert left alone/Every Existence would exist in thee…
という詩編を引用している(ibid.)。

*4:恋愛に形式(manner)を与えたり、近代社会のように恋愛を婚姻制度に取り込んだりするというのも、その災難を幾らかでも緩和しようとする手だてであるともいえよう。