生の哲学者としてのフーコー

暫く前に檜垣立哉『生と権力の哲学』(ちくま新書)を読了した。[rakuten:book:11825583:image:small]
取り敢えず章立てを書き写しておく;


はじめに
第一章 不可視の権力――生政治学とは何か
第二章 「真理」の系譜学――フーコーの課題
第三章 「人間」のつくられ方――『狂気の歴史』から『監獄の誕生』へ
第四章 セクシュアリティと生権力――『性の歴史 第一巻』
第五章 「外」の力と「法」の逆説――ドゥルーズアガンベン
第六章 帝国とマルチチュード――ネグリの挑戦
おわりに

参照文献・読書案内

あとがき

檜垣氏が

一方で、超越−抑圧型の権力は、言語的な段階で「主体化」された構成員を念頭に置く。それは「意識的」なコミュニケーションによって構築される共同体のモデルである。他方、〈生政治学〉的な権力は、言語的「主体」の段階に先立つような、身体・生命レヴェルでの生けるものの働きに焦点を定める。それは、明示的なコミュニケーションや合意以前にすでに果たされてしまっている、無意識の力の伝播を対象とする(pp.40-41)。

一面においては、意識化され、コミュニケーションをとり、支配によって作動する「人間」の「主体」である権力の働きは、おそらくどの時代においても、無意識に共鳴的で横断的な「生命」の「主体」の位相を、自身の基盤としてもっていたはずである。言語を語る身体、言語によって超越を招く身体は、内在的な働きをなす「生命」としての身体なくしては、実際には成立しえないからである(p.44)。
と述べているように、本書で呈示されるのは、〈生の哲学者〉としてのフーコーであり、それを承けたドゥルーズアガンベンネグリらによる現代の〈生の哲学〉の展開ということになるだろう。
私が個人的に(かなりの異論を喚起されながら)面白かったのは、「ゾーエー」と「ビオス」を巡るフーコーアガンベンアレントベンヤミンデリダの絡み合いについてのくだり(第5章)。これについては改めて言及するつもりだ。
「おわりに」で、フーコーのいう「〈自己〉のテクノロジー」を巡って、

フーコーの述べる〈自己〉(soi)とは「人間」のことではない。それは西洋近代が基本的な範型として提示していた、「人間」である個人の位相ではない。そうした個人は、言説的な操作によって(否定を媒介として)つくられる幻影と描かれ、逆説的に根拠化される危険がある(ラカン主義が、それを行っている現代的ヴァージョンであるだろう)。フーコーの考える〈自己〉は、生権力に固有の各種テクノロジーによって、生命の位相を中心に産出されるものである。それは言説の生としての〈私〉が、異質なものである生命を、それ自身の対象として肯定するというクロスの作業によってとりだされる。そうしたクロスのさせ方こそ、テクノロジー=技術が語られることの意義がある。テクノロジーを語ることは、自己の位相を脱根源化させるとともに、自己自身を肯定的な生産の回路として見いださせ、そこに生命への抵抗としての倫理を語る拠点を編みだすものといえるからだ(pp.236-237)。
と檜垣氏が語り、そのありうべき「倫理」的な展望として、ネグリを喚起させながら、

言説的に構成される虚構としての自我ではなく、世界そのものを生き、世界のシステム性に他者とともに捉えられ、同時にそうしたシステム性を書き換えていく拠点としての〈自己〉を展望すること。そしてそうした〈自己〉を生きる倫理そのものを示すこと(p.237)。
と述べていることを書き記しておく。