Living, Loving, Thinking

2007-05-15

「まなざしの地獄」から自分の話へ

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070510/1178820570で、

http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20070510/1178787876について形式的にいうと、個人的な主観性(主体性)を脱中心化したはいいけれど、それと引き替えに社会的な主観性(主体性)を中心化或いは実体化してしまっているという(悪しき意味での)社会学主義に陥っている。さらに、それを経由して、〈眼差す者〉の個人的な主観性(主体性)を再び中心化或いは実体化してしまっているということになる。

と書いた。http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20070510/1178787876の続き*1があるので、それをとっかかりにして、少し前述べたことを敷衍してみたいと思う。そこでは、「他者の視線を完全にコントロールすることは、誰にもできない」とある。これは正しい。しかし、私にいわせれば、このことこそが救いなのだ。それは(原理的には)自らの「視線」を特権的に行使することができるものはいないということである。しかし、それにも拘わらず、自分であれ他人であれ、〈眼差す者〉の「視線」の力のみを特権化してしまっている。さらに、私を眼差す他者というのは決して単一の他者ではない。つまり、私は複数の他者の様々な同じではない「視線」によって貫かれており、私が他者を「視線」で貫くときも、複数の様々な「視線」のひとつとしてのみ行っている。この他者の「視線」の複数性というのは、最初に言った「他者の視線を完全にコントロールすることは、誰にもできない」ということとともに、私にとっては救いの契機を構成している*2。たしかに、「視線」は「暴力」的である。しかし、(原理的には)〈他の視線〉の到来を期待することができるのである*3。因みに、「視線の暴力」によって「娑婆世界は地獄だぜ」というのはその昔サルトル先生が説いていたところであり、永山則夫をネタにそれを社会学化した見田宗介先生の「まなざしの地獄」という古典的名作があったことを思い出した。

現代社会の社会意識 (1979年)

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それで「「らしさ」の虜囚」というテクスト*4というテクストに飛ぶ。これもやはり「視線の暴力」問題を扱っている。私たちは社会的に押しつけられる「らしさ」に雁字搦めに囚われてしまっているという。曰く、

「らしさ」とは何か、と考えてみれば、それは「振る舞い」なわけです。

 どのように振る舞い、他者からどのように見られ、どのように規定されるか。そうしたものを集めてこねくりまわしてごっちゃにしたものこそが、「わたし」というものなわけです。

 メイクだってファッションだって読書だって、もちろん「振る舞い」に回収されます。

これを読んで、また唐突だが、ジャン=リュック・ゴダールマルグリット・デュラスの話を思い出す。ゴダールに『カルメンという名の女』という何故かビゼーではなくてベートーヴェン弦楽四重奏が大々的にフィーチャーされた映画がある。

カルメンという名の女-ヘア解禁版- [DVD]

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仏蘭西語の原題はPrenom Carmenで、英語ではThe First Name Carmen。英語は直訳といってもいいのだろうが、仏蘭西語のprenomは字義的にいえば、名前(nom)以前(pre)。たしか四方田犬彦氏だったと思うのだが、ゴダールは名前すなわち言語以前に遡りたいという欲望に取憑かれているのだが、デュラスからすれば、それは幼稚な思い込みに過ぎず、彼女は寧ろ名前、或いは例えば「18歳」*5という立場を積極的に選び・引き受けることを主張するというような評論があった。

話を戻して、引用する;

「幽霊はいる。しかし私にしか見えない」という時、果たして「幽霊はいる」と言えるのか? いたとして、それに「幽霊はいる、とその人は語った」ということ以上に意味はあるのか?

 

 同じように、「私は女らしい」という時、そこにどんな意味があるのでしょう?(もちろんこれはひっくり返して「私は女らしくない」というのも同じです)

「私は賢い」、「私は美人」、「私は非モテ童貞」、「私は中卒」。

 それが肯定的なラベルであれ否定的なラベルであれ、「そのことが語られた」ということ以上に、あるいはそのことが記号として、幻想(物語)として機能する以上に、意味があるのでしょうか?

 出張から帰ってきたら、界隈で「女らしさ」、「自分らしさ」が話題になっているようですね。興味深いことです。

 まるでどこかに「本当の女」、「本当の自分」があるような言説が目について、微笑ましいなあ、というかモダン的というか。「本当の」って何?

 

「社会人らしさ」、「学生らしさ」、「男らしさ」、「女らしさ」、「日本人らしさ」、「外国人らしさ」、「大卒らしさ」、「中卒らしさ」、「ブロガーらしさ」etc....。そして最後に「貴方(自分)らしさ」。

 

 まるで「本当の自分を探しに行く」と言って旅に出ちゃうOLのようです。

 ヒデかオマイは。

上の方で、他者は複数だと書いたが、ここで気づくのは同様に「自分」も複数だということだ*6。色々な「らしさ」を構成する属性*7が挙げられている。これらの中には排他的なものもある*8。私を自他が定義する属性(これらは全て「らしさ」を構成しうる)は多分無限にあるのだろう。ということは、「自分」は複数、それも無限にいるということである。だからどうなんだよということもあるけど、これについてはまた後で。

ところで、「ある女性が「女らしさ」を疎ましいと思った時、それと戦う方法は2つあります」ということで、「「女らしさ」を周囲から(もちろん「自分自身」も含めて)極力排除していく方法」、「「男らしさ/女らしさ」という区分け自体を無効だとする方法」が挙げられている。もう1つあると思う。それは「視線」を引き受けた上で、それを演戯して、最後に裏切るということ。

「自分」ということに戻る。このsho_taという方は、別途に「「制服」という記号を剥がしたら、「女子高生」という記号を剥がしたら、いったい「わたし」は何者で、どういう価値がある存在なのか?」とも書いている*9。上でも述べたが、私は複数の(それも自らのうちに複数の「自分」を抱え込んだ)他者から「視線」を浴び、私を様々な「らしさ」の集積として定義される。そうすると、私とは「らしさ」になりうる属性の集合体なのか。そうだとしても、もしそうだとしたら、私は「自分」には辿り着けないだろう。様々な属性のシグマを数え尽くすことは他者でも自分でも不可能に近いと思うからだ。そうではないと思う。だからといって、

 人は「記号」には恋をしない。憧れたり「萌え」ることはあっても、自分の存在を掛けて相手を保証しようという熱意を持ったりはしない。数ある記号のその奥にある「わたし」に触れたとき初めて、そこに「自分ではない“他者”」を発見し、恋に落ちる。

というふうに、「数ある記号のその奥に」ひっそりと隠れているというわけでもないだろう。勿論、これは神秘主義的なヴィジョンとして美しいとはいえるのだが。多分、ロバート・プラントボブ・ディランなら、風に吹かれているよと答えるであろう。

ということを考えていたら、偶々「帰属意識という意識状態ってなんだろう」というテクスト*10を見つける。曰く、

たとえば「女」という言葉を誰かが言うとして、私の場合、それを「自分」のこととして言われたようには感じられず、それがたとえ男性が目の前で目を合わせてられるようにして私個人にあてたものだとしても、そう感じます。これは「帰属意識」というような言葉では言い表す事は出来ないかな、という気がします。

集団やコミュニティに存在している、と私は感じた事がなく、学校の学級でもラベルに過ぎない、ということしか感じられない。儀式の意味も理解不能であるというくらい、私は「帰属意識皆無状態」です。しかも、今まで周囲もそうなんだと考えていましたが、「帰属意識」という言葉でなんとなくわかるようにそんなことはないようで、「女」というラベルを言われたとき=「自分」と考える事ができているのかもしれない。

これは少し極端だとしても、「自分」が「帰属」させられているものに何となくリアリティを感じられないというのはよくあることだ。ここでいう「帰属」というのは、上の話に関連させてしまうと、「視線」或いは「らしさ」というのを引き受ける・引き受けないというところで問題になってくるものだろう。私としては、複数の他者の「視線」抜きには考えられないと思っている*11ミードのいうIというのを考えてみる。自らに入り込んでくる様々な刺戟に反応しまくっている有機体。その刺戟には他者の「視線」も含まれる。ある他者の「視線」に反応が起こって、そこでぽっこりと見いだされるのが所謂meだというわけだ。Iというのは誰にもわからない。ただ、刺戟と反応がぶつかってmeが見いだされる限りにおいて、Iのごく一部が顕わになるだけだ。とすると、この到達不可能なIこそが「自分」なのかということになるけれど、それでもいいと思う。ただ、また別の可能性があるのではないかとも思う。上でいったことを踏まえると、他者の視線の交点として、身体=物体である私がある。そこでその都度その都度様々なmeが見いだされるのだが、上の引用のように全くフィットしないというのを極限として、大きすぎたり小さすぎたりというアンフィット感が残ることがある*12。色々と無駄話をして、最後は凡庸なことで申し訳ないが、そのアンフィット感を生きるということにおいて、「自分」というのは垣間見えるということなのだろう。他者から見れば、「らしさ」の失敗、〈らしくない〉において。

*1http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20070515/1179158224

*2:本当に「視線」が単一化してしまったら、人数は複数であるにも拘わらず、それは一人の主観的妄想と区別が付かなくなり、その「視線」が構成した現実の真理性そのものが損なわれてしまうことになる。

*3:これは信仰という態度の端緒とも関係がありそうだが、今そこまで話を拡げる余裕はない。

*4http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20070510#1178808803

*5:デュラスにとって、「18歳」というのが特権的な年齢であることはいうまでもない。

*6:複数の他者のそれぞれも複数の「自分」を持った「自分」である。

*7:そういえば、属性について、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070414/1176566437で言及していたことを思い出した。

*8:例えば、あなたは「童貞」であると同時に非「童貞」であることはできない。しかし、セックスするときは常に童貞at heartだと言っていた知人がいる。

*9http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20060916#1158359227

*10http://d.hatena.ne.jp/double-line/20070502/1178102443

*11:その前提として、私は自分の顔も背中も自分で見ることができないということがある。

*12:ここで、remaindersという概念をマークしておこう――Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070325/1174818827

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