先ず齋藤純一『自由』*1からのメモ。
齋藤氏はアレントの「互いに語り合うという自由(Freiheit des Miteinander-Redens)」という言葉について、結局は未刊に終わった『政治とは何か』から、
という一節を引き、それに対して、
(前略)これ[「互いに語りあうという自由」]はそもそも他人との交流を通じてのみ可能である。その意味はいつも多様で多義的であり、ここには、すでに古代から始まって我々にとっても今なおつきまとっている疑問の多いあいまいさがある。けれども、当時でも今日でも変わらずに決定的な点は、誰でも自分の好きなことを何でも言うことができるとか、自分のあるがままに自分の意見を言えるという権利をどんな人も生まれつきもっているということでもない。むしろ、ここで肝心なのは、誰一人として客観的なもののすべてを、自分の側から、自らと同等の仲間がなければ、現実全体として捉えることはできないということである。なぜなら、人にはその人の世界のなかでの立場に応じて、一つの視点においてだけ、ものが示され現れるからである。その人が世界を「現実にあるように」見たり経験しようとすれば、それが可能になるのは、その人が多くのものに共通なもの、それらのなかにあるものを何ものかとして認め、それを分離結合し、一人一人別様に現し、それによって多くの人がそのことについて互いに話しあい、自分の意見、自分の見方をお互いに交流させることがなければならない。互いに語りあうという自由によって初めて、そもそも世界が論じられるもの、あらゆる点で可視的な客観性として立ち現れるのである。〈現実を生きること〉というのは、〈世界について他の人と語りあう〉というのと根底において同じことである。(後略)(佐藤和夫訳、p.41)
と、コメントを付す。
「互いに語り合うという自由」(Freiheit des Miteinander-Redens)は、このように「世界に生きる」あるいは「人びとの間にある」ということと同義であり、この自由は、それぞれ他に還元不可能なパースペクティヴの複数性が失われるならば享受されえなくなる。ある人の意見にのみ他を圧倒する重みが与えられる場合には、パースペクティヴの複数性は損なわれざるをえない。アーレントが、政治的領域における人びとの対等性(イソノミア)を求めるのは、そのためである。同様に、ある人の意見が実質的に締めだされる場合にも、パースペクティヴの複数性は損なわれる。ある人の意見がこの世界から失われるということは、それだけ、この世界を理解するための条件が乏しくなるということを意味する。自らの意見を語るという政治的自由が一人や少数者の所有に帰したり、それがある人びとから剥奪させることがないようにすること。アーレントのいう「世界の自由」(freedom of the world)への関心とは、このような意見の複数性を維持することへの関心を意味している。(pp.50-51)
ここから窺えることは、アレントが現象学者であるということである。アレントは、世界内の事物は射映という仕方で私に与えられるという現象学的な原則に徹底的に忠実である。
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