「町場の哲学」と「ブックキーピング」

伊藤邦武、西垣通野家啓一茂木健一郎「哲学はいま――「岩波講座哲学」刊行によせて」『図書』710、2008、pp.6-18


この座談会を読んで、「町場の哲学」という言葉を知る。西垣通氏曰く、


いま哲学・思想の状況は、かなり危機的だと認識しています。その文化的・社会的なあり様が二極分化している。一方では、「町場の哲学」談義といったものがはやっている。他方では、専門的な洗練された研究がなされているけれども、その内容は一般の人たちには見えにくくなっている。この二極分化は寂しいことだし、健康な状態ではない。(p.6)
また、茂木健一郎氏曰く;

ツァラトゥストラのメタファーでいうと、自ら山を降りていくか、それともみんなに登ってきてもらうかの差が大きいと思うんです。大思想家が生きていて、岩波の哲学講座がよく売れていた頃は、みんなが山を登ろうとしていたんです。人びとの方が。いまはアウトリーチの時代なんですよ。「町場の哲学」書の読者は、知性派であるにしても、いわば何も苦労しないでポカーッと口を開けて待っている。哲学者がそっちへ降りていって、わかりやすく辻説法をする。いま売れている哲学書は、広い意味のエンターテインメントです。厳しい修行の場とは、また違った倫理と様式になってしまっている。ぼくも辻説法じみたこともやっていますが、もういいよという気が正直してきているんです。修行の場は修行の場なのだから、そこにおいては小乗仏教じゃありませんが、自分自身の哲学的・思想的関心を満足させるような営為をする。そのことで、コミュニティをつくる。そこでの思想的な強度が、あるクリティカル・マス(臨界点)を超えると、現代人はどうも脚力が衰えているようですが、また山に登ってきてくれないかな、という気がします。(p.17)
また、茂木氏は「ブックキーピング」という言葉を使って、

ぼくは、ライトノベルにしろ、ケータイ小説にしろ、現代の作家は、ブックキーピングができない人たちだと思うんです。ブックキーピングとはどういう意味かといえば、最低限のこの世についての常識を押さえる、言い換えれば数学、物理、言語学といった諸学を背景に、すべてを首尾一貫したものとしての世界像に結合しているものを何かしらつかむということで、それがまったくできていない。ところが、そういう人たちも、直感的に何かを生み出してしまうということがある。自分の内側で、感じ取っているものによって。ただそれは、そのままでは哲学たりえない。やはり、ロゴスあるいはロジックというものが最後に、ミネルヴァの梟じゃないけれども、ブックキーピングしなければならない。「思想の重み」、別の言い方をしますと、統合性が、すべてを引き受けた上で何かしらある種の世界像を結ぶということが、依然として必要なのだとぼくは思います。哲学者とは、やはりブックキーピングをする人という印象をぼくはもっている。(p.14)
と述べているのだが、「ブックキーピング」がどういうことなのか、やはりあまりよくわからない。私の語彙ではbookkeepingとは簿記という意味しかないのだ。
あと、西垣氏は、

一方、論理実証主義とかかわってきた流れの中に、情報・認知・脳といった先端科学の問題圏が拡がっている。これと、生きる意味にかかわる問い、実存主義的な問題圏のあいだには、実は時代をになう回路があるのではないか。(略)そして、実存主義論理実証主義とをむすぶ鍵は、サルトルではなくメルロ=ポンティであったと思っているんです。サルトルの政治論よりは、メルロ=ポンティの知覚論・身体論の方が、少なくとも現代的です。(p.10)
と語っている。