取引費用とか

http://d.hatena.ne.jp/taron/20090322/p2


http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090319/1237434321にを参照いただいているのだが。
さて、曰く、「むしろ「市場」は共同体の下支えがあってこそ安定して駆動するのではなかろうか」。これについては、例えば最近の『日経ビジネス』に載った江頭進氏へのインタヴューを参照することをお奨めします。


江頭教授 日本人は、競争というと本当に典型的な競争をやってしまいます。例えば、英国のような2大政党制にしようという主張が日本でもされました。しかし英国で痛感したのは、英国は極端なコネ社会だということです。労働党と保守党で分かれて対立しているようでいて、実はケンブリッジ大学とオックスフォード大学のカレッジに所属して同じ釜の飯を食ったり、同じボートを漕いでいたりしていた。表面的には論争していても、根底で持っている文化は結構共有している部分が多い。会員制クラブのような社交の世界があって、その部分で繋がっていて裏で話していることがものすごくたくさんある。これは米国でも同じです。

 マーケットでも同じで、表面では競争するけども、裏で何らかの関係ができるというのが必要なのです。しかし実は、このことは今の経済学ではうまく描けない。今の経済学では、単純に言ってしまえば裏で談合しているゲームでも、個々のプレーヤーの利益を最大化することですから。

 例えば、経済学には「コモンズの悲劇」というゲーム理論の典型的な話があります。広い放牧地で皆が牛を放牧していると、牛が草を食べ過ぎて、しまいにはやせてしまう。しかし実際のコモンズでは、そんなことはあり得ない。本当の共同体や共有地には、実は厳しいルールがきっちりあって、そのルールは皆が試行錯誤しながら作るからです。皆が牛を放牧しすぎたり、1人で大きな牛を飼ったりはできなくても、それなりに大きな牛を維持できるという現象がある。日本の入会地や漁業協同組合なども、そういう構造です。

 しかしこうした議論がなかなか経済学でメジャーにならないのは、今の経済学に向いていないからです。それは時間の考え方の取り扱い方が今の経済学にはなくて、極端な話、経済学は時間のある現実世界をどうやって無時間的に扱うかというための努力を100年くらいずっとやってきました。時間のある社会をそのまま書くということをやっていない。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090312/188904/?P=4

こうした「市場」を支える「市場」外部の共同性は一般に取引費用(transaction cost)の問題として議論されているんじゃないかと、いい加減なことを言ってみる。以前読んだ原洋之介『アジア型経済システム』にもそのような話が出ていたような気がする。また、幾度か言及した山岸俊男『安心社会から信頼社会へ』*1でも、「安心」と「信頼」は取引費用との関係で語られていなかったか。というか、スティグリッツによる「非対称情報」の議論(といっても、藪下史郎氏による解説本しか読んでいないが)。ところで、共同性による下支えなくして取引費用を低減するために、例えば「ディスクロージャー制度」の強化とかが行われるわけだが、そのパラドクスについて江頭氏は述べている;

市場社会を並列分散処理として捉えるということを認めたうえで、実際の世の中がハイエクの考えているように動いているのか考えてみましょう。確かに現在はネットを通じて、普通の人々でもかつて考えられなかったほどの情報に接することができます。企業のディスクロージャー制度も進み、国際会計基準なども細目主義と呼ばれる立場から、より細かく複雑な情報を公表する方向に進んでいます。これは人々が得られる情報が多くなれば、より的確に判断を下せるという、新古典派と呼ばれる経済学者の市場観に基づいていると言うことができます。

 しかし現在、インターネット証券を利用して投資する個人投資家や人々のどれだけの方々が、企業情報を詳細に分析したり、ネット上を流れる多くの情報の真偽を解釈したりする能力を持っていると言えるのでしょうか。

 ハイエクの議論では、情報と知識は厳密に区別されます。新古典派経済学ではこの両者の境目は曖昧です。ハイエクの主張に従えば、情報を解釈するためにはそれ相応の知識が必要となるわけですが、実際には「知識の成長」が「情報の膨張」について行けない状態です。ここまでは、ハイエクの議論は正しかったと言うことができます。

 ですが実際の市場でいちいち自分で判断することをやめた個人投資家たち、あるいは当初から考えないままに市場に参入した人々が頼るのは「投資のプロ」です。格付け会社の発表や、証券アナリストが重視されたり、投資信託が売れたりするのは、複雑化した市場で人々が深く考えることを放棄して、他人に依存した結果であると言うこともできます。

 これは皮肉なことに本来、並列分散処理システムであるはずの市場社会に、集権的な情報処理システムが成立したことを意味します。多くの人々は、少数の投資のプロに追従したり模倣したりして、人々は自分の頭で考えているようでいて、実は情報のプロによって簡略化されたシグナルに従って一斉に行動していることに過ぎなくなります。

 こういう状況で市場は、過熱する時にはさらに過熱しやすく、落ち込むときはさらに落ち込みやすくなります。ハイエクは、市場における自由を政治的な自由を確保するための絶対条件として考えましたが、政治における中央集権的な体制以前に、実際には市場において中央集権的なシステムが成立してしまったことになります。このことをハイエクはあまり考えていませんでした。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090312/188904/?P=3

アジア型経済システム―グローバリズムに抗して (中公新書)

アジア型経済システム―グローバリズムに抗して (中公新書)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

非対称情報の経済学―スティグリッツと新しい経済学 (光文社新書)

非対称情報の経済学―スティグリッツと新しい経済学 (光文社新書)

所謂「共同体」*2に対するスタンスには、2つの極があるように思われる。一方では、所謂近代主義者は「共同体」から自立しない限り日本人は一人前の近代人になれない、「共同体」が天皇制を下支えしてあの戦争を惹き起こしたという。また、市場主義者は「共同体」的な馴れ合い(談合体質)を打破しない限り、透明で公正な市場社会はありえないという。その一方では、大衆的な〈昔はよかった〉的なノスタルジー、さらには〈和気藹々の相互扶助の世界〉といった浪漫主義化された「共同体」像も流布している。どちらもそれなりの正しさを有していると同時に、決定的に間違っているとはいいたい(詳しくは今言えないが)。

なお、江頭氏の発言で興味深かったのは、「規制緩和」も「規制」(介入)の一形態であるという視点;


江頭教授 規制緩和というのは、政府の介入を調整して景気を刺激しようというれっきとした経済干渉政策です。小泉政権規制緩和が進められた理由は、長年の不景気で赤字国債が累積して、大型減税も公共事業による景気対策も取りにくかった。これは小泉政権の政策を支えた島田晴雄氏の本などでも明確に述べられていることです。決して、人々の自由を取り戻すなどという理由で行ったものではありません。

 ハイエクは景気刺激策としての公共投資金利の操作などを否定しました。これは実際に効果があるか否かというよりも、それらが政府による経済への干渉だったからです。とすれば景気刺激を目的として行われる規制緩和は、政府による経済への干渉ではないのでしょうか。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20090312/188904/?P=2

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080814/1218687009 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090115/1232007402

*2:ここでは、共同体一般ではなく、人類学用語のpeasant society或いは日本的な状況に定位した〈ムラ社会〉。