ネーションとステート

承前*1

コロキウム―現代社会学理論・新地平 (No.1(2006年6月))

コロキウム―現代社会学理論・新地平 (No.1(2006年6月))

檜山和也「グローバリゼーションと主権の概念」『コロキアム』1、2006、pp.102-119


この論文の後半では、「国家主権」がグローバルな承認においてしか存立しないことが論じられている。この論点と前回紹介したケルゼン国家論への言及との繋がりはけっこう薄い。曰く、


事実、ナショナリズムはつねに現在の分裂や無秩序を「逸脱」とみなし、そうして絶えず完成を目指す運動体であった。そうであるとすれば、その統一性は、人々の実際の意識状態や行動の不一致によらず妥当する規範的なものであると言うケルゼンの指摘は的を射たものであろう。しかし、ではそのような統一的な規範秩序の妥当性は何によって支えられているのだろうか。それに対するケルゼンの解答は、根本規範としての国際法によって、というものである*2。しかし、このように上位の水準へと解答を繰り延べるような見解は、明らかに無限後退を引き起こすように思われるし満足行くものではない。(p.107)
さらに、「ネイション・アイデンティティの持つリアリティは、単に国内的なプロセスだけでなく、国際的な承認プロセスを通じても支えられているのではないか」(ibid.)と述べられる。ここで言及されている限りで、ケルゼンの論から読み取れるのは、主観性を排した法学的形式主義*3であろう。何しろ、「国家」は「様々に変化する法を統一したものとするための、思弁的な帰属点」、「規範秩序の統一性の擬人的表現」(p.114)にほかならないのだから。取り敢えず、そこには「承認」という主観的なものが入る余地はきわめて小さいように思える。「国際的な承認プロセス」を論ずる前に、「上位の水準へと解答を繰り延べるような見解」ではなく、ケルゼンの法学的形式主義こそが批判されなければならないだろう。
さて、このテクストの問題点は、それに加えて、ネイションの準位とステートの準位が混同されているように思われることだ。ケルゼンが長々と言及されるのは、〈想像の共同体〉論に立脚する国民国家論を批判する文脈においてである。しかし、〈想像の共同体〉論はそもそもネイションを論じているのであって、ステートの準位に直接関説しているのではない。また、ケルゼンは、その本のタイトルがStaatsbegriffであるように、ステートの準位で論じているのであって、ネイションはその論の範囲にはないのではないか。さらに、「ネイション・アイデンティティの持つリアリティは、単に国内的なプロセスだけでなく、国際的な承認プロセスを通じても支えられているのではないか」(p.107)というように、再び「ネイション」が出てくる。そもそも〈想像の共同体〉論とケルゼン的な法学的形式主義は論じている準位が違うのであり、同一の準位で対立するものではないのではないか。ケルゼンの批判を受け入れた上で、ネイションに定位する国民国家論はケルゼンのいう「規範秩序」が誰の名によって発せられるのかを問うものとして位置づけられる。国民国家は国家の本体たる法が国民の名によって発せられている国家なのである。ここまで考えて、牧原憲夫『客分と国民のあいだ』を思い出したら、「ミズモグラ」さんがこの本に言及していた*4
客分と国民のあいだ―近代民衆の政治意識 (ニューヒストリー近代日本)

客分と国民のあいだ―近代民衆の政治意識 (ニューヒストリー近代日本)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090325/1238004772

*2:ケルゼンが「国際法」に言及している箇所について文献的な指示がされていない。

*3:こういう呼び方は妥当なのだろうか。

*4:http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20090313/p1