「よろしかったでしょうか」はやはりよろしくない

http://anond.hatelabo.jp/20091010002215
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20091011/8255893550


やはり「よろしかったでしょうか」と言われるとむかつく。
日本語の「た」の問題については、数年前にフランス・ドルヌ+小林康夫夫妻の『日本語の森を歩いて』を援用しながら、採り上げたことがある*1。ドルヌ+小林夫妻によれば、「た」は他のありようがありえないような確定性、排他的な断定性を表す。「退いた、退いた」という命令について、


一般には命令は、命令を発する人がいて、それを受ける人がいる。受ける人は、ある意味では命令する人に従属しているわけですが、しかしそれでもまだ「否」と言う可能性を持っています。命令には従わないこともできます。命令される人は、自分の主体性を確保しています。

 ところが「退いた、退いた」の場合は、形から言えば、「た」の働きのせいで「退かない」という可能性ははじめから完全に排除されています。「退く」ということしか考えられないのです。背くことのできない命令ですから、相手は、主体としてすら認められていないということになります。(p.168)

と述べられている箇所を再録しておく。とすれば、何故「よろしかったでしょうか」がむかつくのかは略自明であろう。
日本語の森を歩いて (講談社現代新書)

日本語の森を歩いて (講談社現代新書)

ところで、「よろしかったでしょうか」の「た」は「婉曲表現」であると国語学者の井上史雄氏は述べているらしい。そうなの? ただ、「よろしかったでしょうか」の〈外資系起源〉説があったと思う。英語では、will you…?よりもwould you…?の方が丁寧な表現であるように、時制を過去にすると丁寧になるということがある。「よろしかったでしょうか」は外資系企業の英語の接客マニュアルを和訳するときに〈丁寧としての過去〉を素直に直訳してしまったのが起源なのだと。と書きつつ、その出典は忘れてしまった。秋月高太郎『ありえない日本語』*2で言及されているかと思ったのだが、そうではなかった。因みに、「よろしかったでしょうか」の語用論的な考察は同書の5章「「よろしかったでしょうか」はなぜ「丁寧」か」も参照のこと。
ありえない日本語 (ちくま新書)

ありえない日本語 (ちくま新書)

さて、秋月氏は『ありえない日本語』の中で、

この「よろしかったでしょうか」という表現は、老舗の店舗や、昔ながらの大衆食堂などでは、耳にすることはない。また、いわゆる高級デパートの店員が用いることもない。(p.121)
と書いているが、4年以上経った2009年においてはどうなっているのか。
ところで、

「まだ俺は判断を示していないのに、過去形になるのはおかしい」という人が多いようだけれど、店員は相手が判断を示す前に「空気」を読んで、先回りで解釈していると考えれば、「よろしかった」の過去形のほうがむしろ自然だと思う。(そういう意味で、私の語感では、ここでの「〜かった」はどこかの言語学者が言う「婉曲表現」というより、やはり、過去を志向しているように聞こえるのである)
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20091011/8255893550
「過去」云々については、上で引用したドルヌ+小林夫妻を参照されたし。また、terracaoの解釈は秋月氏の解釈に近い。