2つの「合理化」(メモ)

承前*1

木前利秋「行為とコミュニケーション(1)」『未来』516、2009、pp.30-37


ハーバーマスイデオロギーとしての技術と科学」(p.95)からの引用;


科学技術の支配という背景のもとに、なによりもまずうかびあがってくるものは、合理化の二つの概念を識別しなければならないということである。目的合理的行為のサブシステムのレベルでは、科学技術の進歩が社会的な制度や部分領域の再組織化を強制し、さらにより大きな規模でそれを要求している。この生産力の発展の過程が解放の潜勢力となるのは、それがもうひとつ別のレベルでの合理化に取ってかわらない場合であり、しかもその場合だけにかぎられる。制度的枠組の水準での合理化は、言語に媒介された相互行為という媒体のなかでしか実現されない。つまりコミュニケーションの制限を除去することでしか実現されない。行為を方向づける原理や規範が適切で望ましいかどうかにかんする公共的討論、制限のない支配から自由な公共的討論がおこなわれるさいに、目的合理的行為のサブシステムの発達が社会文化的にどのような反作用をおよぼすのかに照らしておこなわれること――政治的な……*2意思形成のプロセスのあらゆるレベルでこの種のコミュニケーションがおこなわれることこそが、〈合理化〉というものを可能にする唯一の媒体である。
イデオロギーとしての技術と科学

イデオロギーとしての技術と科学

この引用を踏まえ、木前氏曰く、

ハーバーマスはここで社会の分析のレベルとして「目的合理的行為のサブシステム」と「制度的枠組」という二つを分けている。目的合理的行為のサブシステムが道具的行為と戦略的行為のパターンからなるのにたいし、社会の制度的枠組は「言語に媒介された相互行為を支配する規範」からなる。制度的枠組が「社会文化的な生活世界」と呼ばれていることからもわかるが、この二つの分析レベルは、のちにルーマンのシステム論と応戦するなかで、「システムと生活世界」という社会の分析レベルに洗練されていく概念である。したがって、社会を目的合理的行為のサブシステムと制度的枠組に分けながら両者の関係の傾向と可能性を論じることは、労働と相互行為の関係をぜんたいしゃかいのレベルで語ることでもある。ただし全体的なレベルを語るさいに、「合理化の二つの概念」という言葉が示唆するように、彼は両行為の関連をスタティックな構造としてよりも堂的なプロセスとして描いている。
もっとも目的合理的行為のサブシステムと精度的枠組という社会理論の水準で描かれた動的な傾向を、労働と相互行為という行為理論的な水準に即して言いかえることは不可能ではない。労働と相互行為が現実に関係する場面で目にする動的なプロセスは、社会的労働の組織化が社会的な規範と相互作用するなかで成立する支配・従属関係であり、さらにまた支配からの解放を求めて繰り広げられる対立と闘争の関係である。科学技術の発達と結びついた労働における目的合理性の論理が相互行為のコンテクストを支配するかたちで、労働と相互行為の関係が組織されるようになると、外的自然にたいする支配が進む一方、内的自然(自然的な欲求)は規制・抑圧され、コミュニケーションに制度的な固定や体系的な歪曲が生じる。目的合理的行為のサブシステムの水準での合理化において予測された結果がこれである。
これにたいし労働の技術的規則と相互行為の社会的規範について支配から自由な公共の討論で吟味がおこなわれ、コミュニケーションの制度的な固定や体系的な歪曲が克服されるかたちで労働と相互行為の関係が調整されると、「反省の一般化」という意味での別の合理化が可能になる。これが「制度的枠組の水準での合理化」と呼ばれたものである。目的合理的行為行為のサブシステムの水準と制度的枠組の水準での合理化は、のちに「生活世界の植民地化」と「生活世界の合理化」の名で新たに定式化されることになる。ただしこの時点でのハーバーマスは、マルクスの階級対立と階級闘争の論理を、まず若きヘーゲルの「承認をめぐる闘争」で解釈するなかで、そこに労働と相互行為の関係とその調整に読み取れる動的なプロセスを、フロイト精神分析的な対話モデルにもとづきながら、支配関係によって歪曲されたコミュニケーションと内的自然の抑圧が、対話的な啓蒙と反省化によって克服されるプロセスとして描いていた。(pp.36-37)