Yes, yes(メモ)

Others

Others

J. Hillis Miller Others*1の第2章”George Eliot: The Roar on the Other Side of Silence”から。
この章で、Millerはジョージ・エリオットの後期の小説Middlemarchを論じているのだが、生憎彼女の小説は『サイラス・マーナー』しか読んだことがない*2

サイラス・マーナー (岩波文庫)

サイラス・マーナー (岩波文庫)

Werner Hamacher “Affiemative, Strike”(Carodozo Law Review 13-4[December 1991], pp.1133-1157)を参照しつつ、


For Geroge Eliot the coherence of the self and the coherence of sign it proffers for other selves’ misreading is the effect of an anonymous inaugurating power all persons share. This force is properly performative, or rather what Werner Hamacher calls “affirmative,” a preperformative, a deposing positing. This force works by putting forth words or other signs in the baseless fiat of a speech act. It builds airy, orderly structures of signs over a chaos that cannot be counted on to hold up anything. (p.77)
という。
何故かMillerはここでデリダの名前を挙げていないのだが、これはデリダ1984年に東京のホテル・オークラで思いついたという二重の肯定(Oui, oui)(cf. 高橋哲哉デリダ』、p.168ff., pp.313-314)、特に最初のoui、「もはや「ノン」に対立する副詞」でもなく、「言語以前に到来し、パロールであれエクリチュールであれ、語であれ文であれ、およそ何らかの発言がなされるときはつねにすでにそれに伴い、それを可能にしている「根源的」な肯定」としてのoui(p.169)を想起させる。また、デリダ自身の言葉としては例えば、

When I say “yes” to the other, in the form of a promise or an agreement or an oath, the “yes” must be absolutely inaugural. Inauguration is a “yes.” I say “yes” as a starting point. Nothing precedes the “yes.” The “yes” is the moment of institution, of the origin; it is absolutely originary. But when you say “yes,” you imply that in the next moment you will have to confirm the “yes” by a second “yes.” When I say “yes,” I immediately say “yes, yes.” I commit myself to confirm my commitment in the next second, and then tomorrow, and then the day after tomorrow. That means that a “yes” immediately duplicates itself, doubles itself. You cannot say “yes” without saying “yes, yes.” That implies memory in that promise. (…) the “yes” keeps in advance the memory of its own beginning, and that is the way traditions work. (…) “yes” has to be repeated and repeated immediately. That is what I call iterability. It implies repetition of itself, which is also threatening, because the second “yes” may be simply a parody, a record, or a mechanical repetition. You may say “yes, yes” like a parrot. The technical reproduction of the originary “yes” is from the beginning a threat to the living origin of the “yes.” So the “yes” is haunted by its own ghost, its own mechanical ghost, from the beginning. The second “yes” will have to reinaugurate, to reinvent, the first one. If tomorrow you do not reinvent today’s inauguration, you will be dead. So the inauguration has to be reinvented everyday. (“The Villanova Roundtable: A Conversation with Jacques Derrida” in John D. Caputo (ed.) Deconstruction in a Nutshell: A Conversation with Jacques Derrida, pp.27-28) *3
デリダ―脱構築 (現代思想の冒険者たち)

デリダ―脱構築 (現代思想の冒険者たち)

Deconstruction in a Nutshell: A Conversation with Jacques Derrida (Perspectives in Continental Philosophy)

Deconstruction in a Nutshell: A Conversation with Jacques Derrida (Perspectives in Continental Philosophy)

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071206/1196915428 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080718/1216359742 or http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091120/1258688054 
また、Millerに戻る。Middlemarchのヒロイン、DorotheaがWill Ladislawとの結婚を承諾したことを巡って;


Dorothea’s saying yes to Will Ladislaw is, in Nietzsche’s phrase, “ungeheure unbegrentzte ja,” her prodigious yes. This yes, however, is not based, any more than her initial commitment of herself to Casaubon, on verifiable knowledge of the other. It is an ungrounded speech act, not a cognitive insight. As Dorothea gently tells her sister when the latter asks her to explain how it came about that she is to marry Ladislaw: “No, dear, you would have to feel with me, else you would never know”(880). Feeling that leads to performative commitment takes precedence here over knowing. The novel has abundantly demonstrated the severe limitations of this “feeling with.” The commitment of Dorothea and Will to one another does not give either of them insight into the inner self of the other. That remains an irreducible alterity, a “ruin,” “chaos,” or inarticulate “roar” hidden even from the consciousness of the person himself or herself. What that reciprocal commitment does is to create out of signs the shared fabric of their life together, with its beneficent but incalculable effects(…) (p.78)

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091126/1259201785 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091206/1260075029

*2:George Eliotについては取り敢えずhttp://www.victorianweb.org/authors/eliot/index.htmlを。また、バイオグラフィとしては、例えばPetri Liukkonen “George Eliot (1819-1880)” http://www.kirjasto.sci.fi/gelliot.htmとか。

*3:See also John D. Caputo “A Commentary: Deconstruction in a Nutshell”, pp.41-42, p.181ff.

そんなにひどい?

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/jiangmin-alt/20091213/1260650326



マックと直接競合する市場で、日本ウェンディーズの販売は苦戦。ゼンショーは、平成14年2月にダイエーからウェンディーズの事業を買収したが、売上高は20年度が61億円と、13年度より2割超も縮小した。
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/091211/biz0912111941031-n1.htm
に対して、

これは単に、ゼンショーダイエーより経営が下手だったということを意味している? マクドナルドはどこにでもあるけどハンバーガー屋の中で一番まずい、それも極端にまずい、ウェンディーズはあまり見かけないが最もうまい中の一つ、と全然競合してないんだけど。そういえば、最近は、同じゼンショーが経営している「すき家」は牛丼屋チェーンの中で一番店内が不潔で臭い。
すき家ってそんなひどいのか。日本ではすき家の牛丼を食べたことがなく、上海で初めて食べたので、わからない。因みに、上海のすき家で初めて食べたとき、「味は吉野屋よりも良し」と記している*2

Immaculate Machine@育音堂


土曜の夜、育音堂でカナダのバンドImmaculate Machine*1のライヴ*2を観る。Immaculate Machineを観にいこうと思ったのは、そのフライヤーが非常森ガール*3orボーイな感じがしたので。
先ず前座(暖場)の地元4ピース・バンドが登場。ギターの音には透明性があって、ドラムもいいビートを刻んでいて、演奏力はあるのだが、ヴォーカルの声量が不足していて、何よりも、(曲と曲の間も含めて)ステージ構成に難あり。
10時半過ぎに、Immaculate Machineが登場。途中の息抜き的(なんちゃって)中国歌謡も含めて、ぶっ通しで1時間強演奏し続ける。曲はカントリーをベースにしたハード・ロックなのだが、そのリズムはパンク以降というか、タイトな縦ノリなので、頗る心地よい。
帰りに、High on Jackson Hillを買う。

High on Jackson Hill (Dig)

High on Jackson Hill (Dig)

グールドがしかとされて?

http://blog.tatsuru.com/2009/12/08_1204.php


「辺境」*1ネタの一環として、内田樹氏曰く、


私はほんとうに受け売りだけでご飯を食べているようなものである。
しかし、この「受け売り屋」というありようを私は日本の知識人の本態的なかたちではないかと思っているのである。
「外来の知見」に「ほほ〜」と仰天し、それを換骨奪胎加工調味して「ぱちもん」を作り、廉価で読者のみなさまに頒布する。
本業にお忙しくて、なかなかむずかしい本にまで手が回らない人々のために、『千早ぶる』の大家さんのようなリーダブルな解釈を加える人たちがそこここにいるという社会は珍しい。
私などは『千早ぶる』の解釈を専業にした「大家さん」のようなものである(「大家」さんはちゃんと店賃の取り立てとか、店子の夫婦げんかの仲裁とかしているけれど、私はそれもしていない)。
こういう業態はヨーロッパのような知的階層が堅牢に構築されている社会では存立しない。
知識人たちは知識人たちだけで「内輪のパーティ」をやっており、そこで語られることはワーキングクラスにはまったく無縁である。
知識人たちには伝える気がないし、ワーキングクラスには聞く気がない。
ミシェル・フーコーは『言葉と物』の「あとがき」に、この本は2000人程度の専門的読者を対象に書いたものだと正直に書いている。
ほんとうにそうなのだと思う。
それが「たまたま」世界的な人文系学問の必読文献になったのであって、フーコー自身には「ぜひ世界中の読者にお読みいただきたい」というような気持ちはなかった。
ヨーロッパの学問というのは「そういうもの」である。
そういうところでは「受け売り屋」や「ぱちもん」の出番はない。
私のしているような「架橋商売」が「知識人の仕事」として社会的に認知されうるのはたぶん世界で日本だけである。
この「受け売り屋」という業態はきわだって「日本的」なものであり、それゆえ「心底日本人」であるところの私のような人間がこれを天職とするのはある意味当然のことなのである。
2つの論点がごっちゃになっている感あり。ひとつはオリジナルか「受け売り」かという問題。もうひとつは「知識人」と「大衆」との断絶という問題。
前者について言えば、先進−後進関係の問題なのでは? 日本だけじゃなくて、中国にも「受け売り屋」は多いわけだし、こういう事情は(多分)韓国でもタイ*2でも変わらないのでは? というか、数十年前まで米国もそうだった。実は、スーザン・ソンタグの『反解釈』を初めて読んだとき、自分にある米国に対するコンプレックスみたいなものが落ちてしまったということがある。有名な「キャンプについてのノート」を含むこの本は基本的にはヨーロッパ大陸仏蘭西や独逸)の最先端の思想や文学を英語ユーザー向けに紹介するというものだが、米国人も俺たちと同じ田吾作じゃねえかと思ったのだった。ソンタグもそうだが、米国の知識人の世界でユダヤ人が幅を利かせたというのは、けっして〈陰謀〉などではなく、彼/彼女たちの語学力(仏蘭西語、独逸語)の力が大きかったと思う。まあ、米国もfrontier(辺境)の国か。
反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

「知識人」と「大衆」との断絶という問題については、鷲田清一先生の発言を1つの反証として挙げておく;

私は、長い間自分にエッセイを禁じていました。クリスタルのような手触りのある、硬質な隙のない文体が好きで、たとえば三宅剛一などのしっかりとした骨格のある文章が羨ましかったものです。論文という強迫観念があったせいかもしれませんが、いまのように曖昧な多義性のなかで漂っているような文章は、とても書くことができませんでした。いまでも論理を大事にしたり、オチをつけたいといった本質的な骨格は残っていると思いますが、ともあれ文体が劇的に変わってしまったといっていい。
変わった理由には、まず留学でヨーロッパに行ったことがあります。現地で実際に暮らしてみて、向こうの哲学の言葉が字面の上では難しい言葉を使っていないことにあらためて強いショックを受けたのですね。
それまでは原文、もしくは日本語独特の翻訳文を読むだけで、哲学の言葉は難しいものだという思い込みがあったものですから、デザイナーをしている高卒のオランダ人が、愛読書はレヴィナスというのを聞いて、とても驚いたりしました。
でも、フランス語でレヴィナスを読むと、そのことが納得できるのです。理屈についていく苦労は確かにありますが、「無」がrien(nothing)だったりというように、欧米の哲学は基本的に日常語を使っていて、言葉そのものは決して難しくないですから。(『教養としての「死」を考える』、pp.168-169)
教養としての「死」を考える (新書y)

教養としての「死」を考える (新書y)

また、オリヴァー・サックス*3スティーヴン・キングもといスティーヴン・ジェイ・グールドは一流の自然科学者であると同時に(大衆向けの)ベストセラー作家でもある筈。文系でいえば、NYTのコラムニストとしてのポール・クルーグマン*4。或いは、中国史家のJonathan Spence。彼の出す中国史に関する本も常にベストセラー・チャートの上位に食い込んでいる。例えば、清朝の某筆禍事件の顛末を描いた Treason by the Book*5を読んでみると、その理由はわかりやすい。中国史について全然知らない英語ユーザーは、この本を面白い政治スリラー小説のノリで読むことができる。と同時に、読者は読み終わる頃には、清朝の体制を支えた帝国のコミュニケーション・システム、或いは清朝における満族と漢族との緊張関係についてしっかりと理解しているというわけだ。ところで、内田氏はスティーヴン・ジェイ・グールドを故意に無視しているのではないか。上のエントリーの最初の方に、「メジャーリーグでは4割打者は1941年のテッド・ウィリアムスを最後に出ていない」という文がある。誰だって、これからグールドの『フルハウス――生命の全容 四割打者の絶滅と進化の逆説』を連想するじゃないか。また、ユダヤ思想の研究家としても問題で、ハンナ・アレントの主なテクストが発表されたのは、学術雑誌ではなく、New Yorkerだった。アレントは幸いにも大学のテニュアをゲットできたが、多くがユダヤ系である紐育知識人の多くは、人種差別のために大学のポストが得難く、一般読者相手の売文によって生活していた*6
Treason By The Book: Traitors, Conspirators and Guardians of an Emperor

Treason By The Book: Traitors, Conspirators and Guardians of an Emperor

フルハウス 生命の全容―四割打者の絶滅と進化の逆説 (ハヤカワ文庫NF)

フルハウス 生命の全容―四割打者の絶滅と進化の逆説 (ハヤカワ文庫NF)

「ラー」

http://d.hatena.ne.jp/Sunny_Side/20091202/1259756595


ラーメンではなく、副島隆彦*1が英語のlawを「ラー」と読んでいるという話。手許の英和辞典を見ても、lawには日本語の「ロー」に近い発音しかない。あっまずい! これ、研究社の『リーダーズ+プラス』だよ。副島ちぇんちぇーはたしか、研究社の『英和中辞典』にいちゃもんをつけてブレイクした人。研究社かよと一蹴されて、終わりかも知れない。ところで、そのいちゃもんの内容と顛末については知らないのだ。

「滝川」の祟り

古寺多見さん曰く、


それにしても、鳩山由紀夫首相が、「アメリカと吉田茂の陰謀によって公職追放の期間を長引かされた鳩山一郎のDNAを引き継ぐ反米政治家なのではないか」という仮説を出した田原総一朗星浩の邪推には呆れかえってしまった次第だ。星浩が言うには、鳩山一郎は敗戦直後の1945年の朝日新聞に、アメリカの原爆投下を「戦争犯罪」として非難し、朝日新聞GHQに2日間の発行停止を食った上、鳩山一郎アメリカに冷遇されてきたというのだが、その影響を鳩山由紀夫が強く受けているのなら、もっと毅然とした姿勢をアメリカに対してとっているはずだ。だが事実はそうではない。単に鳩山由紀夫が八方美人の優柔不断な人間であるだけの話だ。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20091213/1260683259
自由党民主党の争いも陰謀論ですか。鳩山一郎に関しては、やはり戦前の京大滝川事件じゃないですか*1。こちらの方も「噂」のレヴェルですが、まだ信憑性がある。それから、DNAという比喩の濫用*2は止めてほしい<田原総一朗