John Edwin Smithから米国哲学のお勉強を少々

プラグマティズムの伝統を引く哲学者のJohn Edwin Smith氏が亡くなったという記事を読む;


December 19, 2009
John Edwin Smith, Philosopher and Author, Dies at 88
By MARGALIT FOX

John Edwin Smith, a prominent philosopher and author whose work tackled large questions about the nature of truth from a pragmatic, pluralistic and specifically American perspective, died on Dec. 7 in Arlington, Va. He was 88 and lived in New Haven.

The cause was a stroke, his daughter Diana Smith said.

At his death, Mr. Smith was the Clark professor of philosophy emeritus at Yale, where he had taught from 1952 until his retirement in 1991.

Throughout his career, Professor Smith was known for championing, and often resuscitating, unfashionable branches of his field. Chief among them was the philosophy of religion, a subject that had fallen out of favor in the Rationalist climate of the mid-to-late 20th century.

During those years, when American philosophy was dominated by an aloof, ivory-tower approach, Professor Smith argued for a more democratic stance: the search for truth, he argued, was an inherently social, communitarian enterprise.

Where midcentury American philosophy embraced the cool concern with logic then popular in Europe, Professor Smith helped revive interest in seminal American thinkers of the past, among them the pragmatists William James, Charles Sanders Peirce and John Dewey, and the idealist Josiah Royce.

Professor Smith’s books include “Royce’s Social Infinite: The Community of Interpretation” (Liberal Arts Press, 1950); “Reason and God: Encounters of Philosophy With Religion” (Yale University, 1961); “The Analogy of Experience: An Approach to Understanding Religious Truth” (Harper & Row, 1973); and “Purpose and Thought: The Meaning of Pragmatism” (Yale University, 1978).

He was the editor of the multivolume series “The Works of Jonathan Edwards” (Yale University), which collects the writings of that distinguished 18th-century American theologian.

John Edwin Smith was born in Brooklyn on May 27, 1921. He earned a bachelor’s degree in philosophy from Columbia in 1942, followed by a master’s of divinity from Union Theological Seminary and a Ph.D. from Columbia. Before joining the Yale faculty, he taught at Vassar and Barnard Colleges.

Professor Smith’s wife of 55 years, Marilyn Schulhof Smith, who taught philosophy at the University of Hartford, died in 2006. Besides his daughter Diana, he is survived by another daughter, Robin Smith Swanberg of Wellesley, Mass., and a grandchild.

Among his other books are “The Spirit of American Philosophy” (Oxford University, 1963); “Religion and Empiricism” (Marquette University, 1967); “Experience and God” (Oxford University, 1968); “Jonathan Edwards: Puritan, Preacher, Philosopher” (University of Notre Dame, 1992); and “Quasi-Religions: Humanism, Marxism, and Nationalism” (St. Martin’s, 1994).
http://www.nytimes.com/2009/12/19/books/19smith.html

ここで名前が挙がっている過去の米国の思想家のうち、Josiah Royceについては、


Sam Addison “Josiah Royce
http://www.giffordlectures.org/Author.asp?AuthorID=147
Kelly A. Parker “Josiah Royce
http://plato.stanford.edu/entries/royce/
彼の立場は「絶対観念論(absolute idealism)」。ウィリアム・ジェームズとの長期に亙る論争と相互的な影響関係で知られる。その著作の範囲は形而上学、認識論、論理学から宗教哲学、さらにはコミュニティ論や人種問題に至るまで広範である。私の19世紀米国思想についての知識は昔鶴見俊輔の『アメリカ哲学』を読んだ頃から殆ど進歩していないのだが、その本ではたしか彼は「ヘーゲル主義者」と呼ばれていたのではなかったか。

アメリカ哲学 (講談社学術文庫)

アメリカ哲学 (講談社学術文庫)

18世紀のピューリタン神学者Jonathan Edwardsについては、


William Wainwright “Jonathan Edwards”
http://plato.stanford.edu/entries/edwards/

『2008102020091112..8:35…』


金曜日は東画廊*1にて劉任『2008102020091112..8:35…』のオープニング。
1983年上海生まれの劉任は2007年に上海大学を卒業したばかりの新鋭。『2008102020091112..8:35…』を2つの言葉で言い表せば、英単語と卵の殻。先ず、びっしりと隙間なく英単語が書き込まれた英語のノートの断片が展示される。さらに、卵の殻に書き込まれた英単語。展示されるのは、英単語と卵の殻をモティーフにしたインスタレーションとドローイング。最初は英語を習うということに対するコメンタリー、現代教育に対する批判に関心があったようだが、英単語の言語記号とヴィジュアルな模様としての二重の性格といったメタ記号論的考察に関心がシフトしているようだ。さて、卵の殻。卵と言えば、村上春樹イェルサレム演説*2を思い出す。この場合、卵とは自己、劉任で、そこに書き込まれた英単語は自己が被った(英語)教育という暴力の痕跡ということができるだろう。しかし、他方、言語論的にいえば、世界のそもそも脆弱(fragile)である存在者たちを意味世界に繋ぎ止め、堅牢さを与えているのは(英単語も含む)言語記号であるともいえる。そういえば、森常治『日本人=<殻なし卵>の自我像』という本もあったな。

「地平」を巡るメモ

承前*1

「地平(Horizont/horizon)」は私たちの知覚のあり方に関わった概念。写真にピントが合わせられた中心的主題と同時にボケた周辺的事物も写っているように、私たちが何かを見るとき、見る対象と同時にその他の周辺的事物も非主題的に知覚している。この同時に非主題的に知覚されるものが地平であるといえる(cf. Kevin Mulligan “Perception” in Barry Smith & David Woodruff Smith (eds.) The Cambridge Companion to Husserl, pp.203-204)。地平はウィリアム・ジェームズのいうfringe(cf. eg. 『心理学』)に近い概念である。

The Cambridge Companion to Husserl (Cambridge Companions to Philosophy)

The Cambridge Companion to Husserl (Cambridge Companions to Philosophy)

心理学〈上〉 (岩波文庫)

心理学〈上〉 (岩波文庫)

心理学〈下〉 (岩波文庫)

心理学〈下〉 (岩波文庫)

新田義弘『現象学』から少しメモ;

知覚は絶えず直観的所与を越えて、随伴的に思念されている非直観的なものへと向って超え出てゆく運動である。このことをフッサールは「外的知覚は、その固有の本質にしたがえば、果たしえないことを果たそうとする不断の僭越行為(Pratention)である」(H. XI. 3)という言いかたで表現している。直観的なものに随伴する知(Mitwissen)は、直観的なものに指示された先行的な知(Vorwissen)である。知のこの先行性を表わすためにフッサールは「先行的枠取り――あらかじめ輪郭を画くこと(Vorzeichnung)」という概念を使用している。現出物にはそれを取り囲む、まだ充実されていない空虚な地平が随伴するが、この空虚地平は決して任意に満たされるものではなく、つねに「規定可能な無規定性」という形式で「意味の枠(Sinnerahmen)」(H. XI.10)がそこに定められている。言いかえると、対象の規定作用とともにつねに規定の可能性を導く先行的な枠組が設定され、新しい現出への移行に規則を与えているのである。(p.97)

知覚は対象に対する一定の関心をもつ規定連関であるが、関心方向によって知覚作用は段階的に区別される。対象を端的に把握する最も単純な知覚は把握作用(Erfassen)であり、同一対象をその固有性質や部分契機によって規定してゆく知覚は表明作用(Explizieren)である。さらに或る対象を随伴的に与えられる他の諸対象に関係づけて規定してゆく知覚は関係づけ作用(Beziehen)である。表明的知覚が対象をその色や形態によって規定することは、対象の内部地平(Innenhorizont)へ自我関心をさし向けることであり、関係的知覚の関心は随伴対象の所属する外部地平(Außenhorizont)へと向けられる。内部地平と外部地平は互いに独立した地平というよりも、対象のもつ二重の地平として、互いに基づけあいながら錯綜しあっている。対象に関する新しい規定を獲得することは地平の解明であるが、いかなる規定も究極的な規定ではなく、地平はつねに開放されている。個々の対象に関する地平は開放的有限性の地平であるが、内部地平と外部地平の相互の錯綜のなかで、地平自身が自らの地平として全体的地平をもつ。これが世界地平である。世界地平は「随伴客体の開放的無限」として外部地平の極限現象であるが、そのつど個々の経験対象とともに「いつもすでに(immer schon)」現象している。しかし世界地平は決して主題化されることなく、つねに匿名的にとどまっている。(pp.101-102)
「地平」と「パースペクティヴ性」の関係を巡って;

(前略)地平をより詳しく規定してゆく経験の過程は、究極目標としての真理の概念との関連において、言いかえると「理性の現象学」の視角から始めて理解することができる問題である。真理の概念は、「真なる自己」「思念されたものの自己所与性」「完全に充たされた意味」という表現に語られているもの、すなわち意味と存在の統一された所与性であり、対象志向とその充実との完全な合致を意味する。
しかるにこの対象の十全的な自己所与性は、現実の経験の過程にあっては、決して実現されえないものである。十全的な自己所与性は、「連続的な現出作用の無際限の過程に絶対的に規定された体系」(H. III. 351)として、現実の経過の過程のなかでは決して追いつくことのできないものであり、フッサールはこの「絶対的に規定された体系」を「カント的な意味での理念」(H. III. 350)であると言っている。その理由は、「絶対的に規定された体系」が、同一の物に関係づけられた現出の、完結したと考えられる系列であり、それ自身現出することはなく、むしろ現実の現出にとって規則として作用するものであるという点にある。しかし、カントの場合とは異なって、フッサールでは、無際限の系列の完結した統一は、それ自体として思惟することはできないものである。もはやいかなる予科をも含まない空間物の意識といったものは到底考えられないのである。経験はあくまで原理的に無際限性を免れることはできない。それゆえこの「完全なものと考えられる系列」としての物の絶対的自己所与性は、経験の過程のなかでこの過程に対して極限として働く理念ではあるが、決して現出の過程の背後に想定される物自体のような性格を有さない。(略)絶対的明晰性である十全的な自己能与は、経験の過程のなかでは理念的極限という目標の意味でのみ理解されねばならない。
目標としての理念は経験の過程に対する規則的原理であり、地平を不断に露呈してゆくことによって一つの規則体系として発見されるべき原理である。したがって経験の過程は、この極限理念に向う近似化(Approximation)の過程として性格づけられている。フッサールは、近似化に理念への高まりという量的性格を与えているが、理念と近似化の関係についての彼の記述は必ずしも明晰であるとは言えない。(略)だが、フッサールによって経験の過程が極限理念への近似化過程として把握されたという事情のなかには、科学の成立にとってきわめて積極的意義をもつ問題が隠されている。第一に挙げられるのは、遠近法化(Perspekutivierung)と脱遠近法化(Entperspektivierung)との緊張した力動的な相互関係である。経験の進行が極限理念への近似化であることには、一方では経験の過程が未完結であり、無際限であることが、他方ではすでに経験のなかに脱遠近法化の傾向が働くことが意味されている。経験は遠近法性を決して脱却できないが、しかし同時にそれを克服する傾向を内に蔵している。第二に挙げられるのは、学問的真理としてのロゴスと、遠近法的な相対的な性格をもつ生との相互依属性のなかにみられる循環関係である。真理自体自体という目標理念は、遠近法的過程の運動根拠となり、逆にこの運動過程が理性的理念の発生根拠となり、両者は循環関係を形成している。この循環性格は、科学の成立に避けがたくつきまとう一種の解釈学的循環関係と目的論的側面を表わしている。(pp.113-116)
「規則的原理」に関しては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090219/1235057079で引用したドゥルーズ『カントの批判哲学』への國分功一郎氏の「統制的原理」についての訳註を参照されたい。また、ここで言われる「一種の解釈学的循環関係」については、張江洋直「シュッツと解釈学的視座」(in 西原和久編『現象学的社会学の展開』、pp.41-71)も参照のこと。
現象学 (1978年) (岩波全書〈302〉)

現象学 (1978年) (岩波全書〈302〉)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)

現象学的社会学の展開―A・シュッツ継承へ向けて

現象学的社会学の展開―A・シュッツ継承へ向けて

ホロスコープなど

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091204/1259925249で、植草一秀


企業勤務のころ、生命保険社長との宴席に同席した。血液型や占星学が話題になった。上司も社長も強い関心を示した。翌日、上司は社内の全役員の生年月日と血液型を秘書に調べさせ、要点をまとめて欲しいと言った。A4, 30ページほどの資料をまとめた。資料は長い間活用されたようだ。
という言説に、

「全役員の生年月日と血液型」では不十分だろう。占星術においては、生まれた時刻における星座や惑星の位置関係がわからなければ、十全な分析はできないからだ。
というコメントを加えた。
デリダの『雄羊』を捲っていたら、訳者の林好雄氏が訳註で、ポール・クーデール『占星術』という本から、

占星術の仮定によると、あらゆる人間の運命、その性格、その一生がことごとく天の布置に結びついているのである。とりわけ誕生時に天空が見せた姿が、その人の将来に本質的な役目を演じることになる。この場合の天空の姿がいわゆる出生ホロスコープである。(pp.29-30)
という一節を引いていた(p.140)。さらに、林氏の訳註によれば、「占星術〔horoscopie〕という語の語源となっているギリシア語のhoroscoposは、もともと「誕生の時刻を見る」という意味である」(ibid.)。
雄羊 (ちくま学芸文庫)

雄羊 (ちくま学芸文庫)

占星術 (文庫クセジュ 535)

占星術 (文庫クセジュ 535)

以前に読んだ占星術関係の本で興味深かったのは、印度人と占星術の関わりについて報告した矢野道雄『占星術師たちのインド』。
占星術師たちのインド―暦と占いの文化 (中公新書 (1084))

占星術師たちのインド―暦と占いの文化 (中公新書 (1084))

デリダの『雄羊』の読書ノート*1は中断したままだが、ぼちぼち再開したいなとは思ってはいる。