山鹿素行と熊沢蕃山の議論から(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100103/1262544972に対して、コメントをいただく。


brahms 2010/01/04 11:24
とくに江戸期では、「幕府」が実権をもち、「天皇」は権威をもっていたというのは後期水戸学の影響でしかなく、上で引用されているブログの文章を読む限りでは、幕府ー朝廷関係の理解としては、根本的な誤認があるようにも思います。この辺りについては、例えば渡辺浩『東アジアの王権と思想』(東京大学出版会、1997年)の論考が、将軍や天皇という名称が歴史叙述の用語としてどこまで適切なものなのかなども考える上で、興味深いかと。。。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100103/1262544972#c1262571869
どうも、コメントと文献のご教示ありがとうございます。
私が引用したhttp://d.hatena.ne.jp/pr3/20091229/1262099101のエントリーについて、「大枠としては間違っていないと思う」と述べたのは、江戸時代の儒者天皇論、特に山鹿素行と熊沢蕃山の議論を念頭に置いていたためです。この2人の議論を見れば、現代の社会学政治学の用語に翻訳すれば権力と権威に関する議論をしていると理解しても大過ないのではないでしょうか。
安丸良夫『近代天皇像の形成』から少し引用します;

(前略)彼ら[儒者たち]は朝廷・天皇を否定する立場をとったのではなかった。それでは、朝廷・天皇はどのような役割をもつものとして存続を許され、意味づけられたのであろうか。
この問題についての素行の答えは、「上下の差別」を明らかにするという秩序原理を天皇の存在が表象しているということである。素行によれば、天皇天照大神の「御苗裔」としてずっと継承されてきた尊い存在で、武家は天下を掌握しても朝廷との間ではずっと「君臣の大礼」をとってきた。その理由は、「君臣の礼不行ときは上下の差別不明、上下の差別不明ば、天地所をかえ万物其の本を失ひて、政道の綱紀遂に不可明」からである。朝廷の勢威はすっかり衰えてしまったのだけれども、それでも武将が京都を守護し、朝廷を尊び官位を重んじて、朝廷との間に君臣の礼をとるところに、「君臣上下の儀則」があり、「本朝の風俗人物異域にまさる要道」がある、と素行はいう(『武家事紀』)。
この問題について、もっともまとまった議論を展開したのは熊沢蕃山(一九一九−九一)だと思われるので、つぎに蕃山の見解についてのべてみよう。
蕃山は、他国では天下を取ると王となるのに、わが国では天下を取る人も臣と称して将軍となって天下を支配するのはなぜか、という問いに答えて、朝廷が存在しているから日本は礼楽の道が存在しているのだ、朝廷なしに武家の天下が交替してゆくならば、二、三百年のうちには「あらゑびす」の国になってしまうだろう、という。天下が治まると、将軍が参内し諸大名も京都へ集って、「束帯衣冠の礼儀を見て、初て人の則のある事を知、御遊の体管弦のゆたか成を聞て、初て太平の思ひ」をし、秩序と礼節というものを知るのである。だから、天下を支配するほどの人は、みずからは野人の出身であっても、「必古礼をあふぎ古楽をしたひ、禁中をあがめて君臣の儀を天下に教」える。すると天下の人はこれを見て、「威も力もなき人を日本の主筋とし、かくのごとくあがめ奉り主君となしてかしこまり給へるは誠に道ある君なり、我等いかで国・郡を給はりながら忠を存ぜざらむやと、むかし賊心ありし者も、たちまちひるがへして普代の思ひをなせり」、ということになる(『集議和書』)。
それでは、天下の人が皆朝廷を尊崇することで秩序を知るというこの制度のもとでは、天下が朝廷にかえることもあるのだろうか。この点について、蕃山は、ある期間支配者の地位にあった者は、奢侈・柔弱・尊大などの気風にそまっていて、野人から出てくる武勇の達者な者に天下を奪われる、という辛辣な歴史観をもっていた。この立場からすれば、

(政治権力は朝廷へ)中々かへるまじく候。此方よりあたへたまふ共末つゞき申まじく候。昔は武家よりも御気遣も有べき事なるが、今は何の御用心もなき御事也。是を以いよいよ*1位を位に立て尊敬し給ふが日本の為にて、又将軍家御冥加のため也(同右書)。
と、朝廷の政治的無能力をあからさまにのべて、朝廷は儀礼的秩序たることにこそ存在価値があるとした。(pp.51-53)
近代天皇像の形成 (岩波現代文庫)

近代天皇像の形成 (岩波現代文庫)

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081110/1226297175

*1:原文は繰り返し記号。