Authentic/real/Janis Joplin

Mark Paytress “Pain in My Heart” Mojo May 2010, pp.52-61


遺作となってしまったPearlのレコーディング中だった1970年10月4日朝にジャニス・ジョプリンが純度の高すぎるヘロインのために亡くなってから今年で40年になるが、このテクストは彼女の人生最後の年を当時の関係者の証言で再構成したもの。
その最後の部分を抜き書き。(早すぎる)晩年の彼女の広報係を務め、後に彼女の伝記『生きながら葬られて(Buried Alive)』を書いたMyra Friedmanとジャニス・ジョプリンが宝石店に行く話で、authenticとrealの対比が面白かった;


Janis and I were on our way to Bloomingdale’s one day,” remembers Myra Friedman. “And we passed a jewellery shop with a sign outside that said “Authentic Garnet Rings.” She went in, walked up to this cigar-smoking guy and said, ‘Mister, that garnet you have in the window. Is it real?’ ‘It says it’s authentic!,” he barked back.
“’I know it says authentic,’ Janis replied, ‘I wanna know if it’s real!’’’
Being real always bothered Janis Joplin. It would, no doubt, have given Pearl rather less pause for thought. (p.61)

『宇宙戦艦ヤマト』の方が問題だと思った

承前*1


osaan 2010/04/14 15:25
クリステヴァ『サムライたち』もお忘れなく。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100413/1271162081#c1271226329 
どうも。クリステヴァのこの本は以前Jung Hwa-Yol先生の論文*2を翻訳したときに、参考のために図書館でぱらぱらと捲ったことがあるだけです。ただ、ジャン=ピエール・メルヴィルの映画がなければこの小説もなかったでしょう。ジャン=ピエール・メルヴィルから派生した「サムライ」で挙げるのを忘れていたものとして、(こちらは英語なので、SamouraiではなくSamuraiですが)『葉隠』を愛読する黒人の殺し屋が主人公であるジム・ジャームッシュGhost Dog: The Way of the Samuraiがありますね。
サムライたち

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taraxacum_off 2010/04/15 23:13
1980年代に、日本のことが、世界のあいだで
関心を持たれるようになって、「日本と言えばサムライ」という
認識ができたのではないかと思います。

よって、「サムライ」が日本ナショナリズムや、
右翼的イメージと結びついたのは、1990年代以降じゃないかな?
(外国人が作ったイメージに、日本のナショナリストたちが、
乗っかったんだろうと思います。)

よって、沢田研二が歌っていた、1970年代後半は、
「サムライ」に右翼的なイメージは、
たぶんなかったんじゃないかなと思います。

(↑は、わたしの想像がいっぱい入ってます。
いかんせん、たんぽぽは、「カウチポテト」を
知らない世代なので、まちがっていたら、
どなたでも、教えていただけたらと思います。)


あとそれから、『サムライ』という歌も聴いてみたけど、
花束とかピストルとか出て来て、むしろ西洋的じゃん。
フランスの映画にインスパイアされて
作った歌と言われれば、納得できるんだけど、
日本ナショナリズムは、ぜんぜん感じないですよ。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100413/1271162081#c1271340803

私は、1970年代の沢田研二に関しては「サムライ」よりも『宇宙戦艦ヤマト』(劇場版)の主題歌を歌ってしまったことの方が問題だろうと思っています。『宇宙戦艦ヤマト』(TV版)はオタク文化の原点とも言われていますが、私たちの世代が10代の頃に『宇宙戦艦ヤマト』にはまってしまったことがその後の日本の右傾化にかなり影響しているのではないかと世代的な責任を感じている次第です。何しろ、TV版の佐々木功が歌う「さらば地球よ 旅立つ船は」という歌は既に軍歌に代わる右翼のテーマ・ソングともなっているわけです*3沢田研二の歌はバラードなので、街宣車で流すのには向いていませんが。また、沢田研二長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』に主演することで、その罪を償って、名誉を恢復したと考えていますが。
太陽を盗んだ男 [DVD]

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さて、1970年代後半に、ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』、ライシャワー『ザ・ジャパニーズ』などの米国人による所謂〈日本礼賛本〉が出され、近代化や経済成長に対する日本文化の役割を再評価する論調が英語圏で出て来ます。それと関連して、宮本武蔵の『五輪書』などが英語圏でビジネス書として読まれるようになります。「1980年代に、日本のことが、世界のあいだで/関心を持たれるようになって、「日本と言えばサムライ」という/認識ができたのではないかと思います」というのはそういうことだと思います。勿論、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は翻訳されることによって、日本人の自画自賛に変わるわけで、1980年代に中曽根康弘政権の下で梅原猛らを中心に推進された文化的ナショナリズムはこの延長線上にあると言えます。ただ、1990年代以降の不況下のナショナリズムと違って、基本はお国自慢だったので、排外主義的な要素は相対的に少なく、故に相対的に害は少なかったとはいえます。また、1980年代は韓国、台湾、香港、シンガポールの(日本に続く)経済成長も注目され、日本を含めた亜細亜の近代化における文化、亜細亜的価値観(儒教)の役割の再評価ということも行われていました。
ジャパン・アズ・ナンバーワン―アメリカへの教訓

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ザ・ジャパニーズ―日本人

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沢田研二の「サムライ」に戻ると、基督教的な意味を全く考えずに十字架のペンダントをつける人とかいますけど、あの「ハーケンクロイツ」もそういう類だったと思いますよ。やはり「ハーケンクロイツ」のリアリティというのは日本においてはヨーロッパと比べれば稀薄だったので、左翼知識人の建前的な批判はあったものの、真剣に怒ったのは仏蘭西人であるフランソワーズ・モレシャンだったわけです。言いたいのは、親ファシズムにせよ反ファシズムにせよ、「ハーケンクロイツ」の挑発力というかショックは小さかったということ。もし沢田研二日本陸軍の軍服を着て・日本刀を振り回しながら歌っていれば、もっと喧々諤々の論争になっていたと思いますよ。沢田研二の歌手生命も危なかったかも知れない。当時は三島由紀夫事件の記憶もまだ生々しかったわけですから。

経済が政治を

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20100412/1271074489


広坂さん曰く、


ところで、新自由主義新保守主義の相性がいいのは、新自由主義というものがその名前通りのリベラリズムではなく、優生主義に近いものだからなのではないかという気がしている。新自由主義を名前通りに、政治思想・経済思想の自由主義のニューバージョンとすると全体主義化する理由がわからなくなるが、優生主義の一種だとすれば社会有機体説を採るのだろうから、筋の通らないことではなくなる。新自由主義的政策に賛同する自称国家主義者に露悪的なまでの差別的言動や排外主義がまま見られるのも、原因はそんなところにあるのではないかなどと思う。
卓見だと思う。
ただ、さらに根深い問題として、現代社会において〈政治〉が〈経済〉に乗っ取られてしまっているのではないかということを指摘しておきたい。よく言われる新自由主義社会民主主義福祉国家)かという論点、これはよく考えてみると、政治体制ではなく経済体制に関する争いである。そのどちらに左袒するにせよ、そこでは〈政治〉は〈経済〉の手段、〈経済〉の露払い或いは尻拭いと考えられている。政治理論的な問題としては、アレントが言う「社会的なるものの勃興(rise of the social)」(『人間の条件』第6節を参照)と関係があるのだろう。この「社会的なるものの勃興(rise of the social)」において、全体社会はひとつの大きな家として見做されるようになる*1。家、オイコス、家政(economy)、すなわち経済である。経済学はpolitical economy、つまりポリス(国家)の経済となることによって、近代的な学として存立したのだが、同時に当のポリスの方がオイコスになってしまったということになる。「国家の主婦」としての財務省主計局の意を承けた「事業仕分け」なるものが注目されるというのも当然ではある*2。ここでは、自由や権利といった、真に政治的な問題がそれ自体として議論されにくくなるということはある。しかし勿論、政治の家計化(economization?)を直ちに・全面的に拒絶することは不可能ではある。また、別の系譜的な事情として、「インタレスト(利益感情)」(利害、利益)という概念があるだろう。山崎正和氏がアルバート・ハーシュマンを参照しつつ言うところによれば、ルネサンス期の知識人たちにとって、暴君たちの野蛮な情念を如何に緩和するのかということが重要な課題だった(『社交する人間』、p.198ff.)。それに対しては宗教的・道徳的なお説教は効果がない。そこで見出されたのが「損得勘定」によって「感情一般を抑制する独特の感情」としての「インタレスト(利益感情)」であった。
The Human Condition

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社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫)

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さて、自由主義新自由主義などを巡って、森政稔『変貌する民主主義』から少しメモをする;

自由主義の源流は多様である。身体的・精神的従属からの自由、思考の自由、宗教的寛容、法の支配による王権の制約、私的所有権の擁護、等々。今日から見ると、自由主義は個人の自由という意味で個人主義と不可分のように思われるが、ヨーロッパ中世後期のように、各団体がそれぞれの特権を有しており、これによって王権の恣意を制約することに自由を見出す考え方も根強くあった。このような身分制議会的な発想は、普遍的な個人の自由ではなく複数の特殊的自由(諸自由)の擁護であり、伝統の破壊ではなく伝統の確認と結びついていた。(p.51)

政治的自由主義の系譜(源流)は経済的自由主義のそれに先立って存在した。モンテスキューの思想やイングランド議会制の伝統は、このようなヨーロッパ中世から近代へと継承された自由の政治的側面を代表している。一方、経済的自由主義の源流はロックにさかのぼることが可能であるとしても、その主要な部分は一八世紀以降になって形成された。(pp.51-52)

新自由主義はたしかに民主主義を否定して、別の政治原理に取り替えようとするわけではない。しかし、自由な経済活動の称揚は、政治への一般的不信と表裏一体になっており、政治を限界づけることが、民主主義を限界づけることにつながっている。それは社会主義的な再分配を拒否するだけでなく、利益政治的な民主主義にも、既得権益の擁護であるとして不信の眼を向ける。個人は合理性を持った自己決定の主体であり、その決定に自己責任を負うべきであると考えられており、政治が公的責任を負うべき領域は狭められる。政治に依存して生活しているとされる人々(たとえば公務員や補助金を受け取る地方住民など)に、新自由主義は攻撃を集中する。こうして民主主義そのものはかならずしも批判の対象ではないものの、政治の領域の縮小が民主主義の縮小という結果をもたらしていることは無視できない。(pp.67-68)
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090812/1250097530における同書からの抜き書きも参照されたい。
変貌する民主主義 (ちくま新書)

変貌する民主主義 (ちくま新書)

ところで、広坂さんはhttp://d.hatena.ne.jp/kechack/20100412/p1に言及して、「全体主義全体主義たらしめるのは、新自由主義とか新保守主義といった政策理念を掲げる側だけでなく、私のような穏健な無党派層付和雷同による」と述べている。勿論それはそうなのだが、別の側面を述べてみる。「付和雷同」というと道徳的な非難のニュアンスが含まれてしまうが、それは(社会生活を基礎づける)私たちの基本的な能力に根差している。それがほんとうか嘘か、実在か非実在かはさて措き、私たちは他者が心を持っているということを自明なことと考え、その都度その都度他者の心、或いはそれが醸し出す〈空気〉*3を読んで(或いは読んだつもりになって)、他者に対して振る舞っている。言いたいことは、私たちが自らの社会的な振る舞いを決定するに際して重要なのは、自分がどう思っている・感じているかということよりも、他者たちがどう思っている・感じているか(を自分がどう思っている・感じているか)ということだ、ということだ(これについては、大澤真幸『戦後の思想空間』における議論も参照のこと)。「付和雷同」が起こるのも、(それが正しいのかあやまっているのかは別にして)敏感に他者の心とか〈空気〉を読んでしまうからだろう。片隅の疑念に拘るよりも社会的に浮いてしまわないこと、時の波に乗り遅れないことを優先する、等々。
戦後の思想空間 (ちくま新書)

戦後の思想空間 (ちくま新書)

*1:これについては、Hanna Fenichel Pitkin The Attack of the Blobの議論も参照されたい。

The Attack of the Blob: Hannah Arendt's Concept of the Social

The Attack of the Blob: Hannah Arendt's Concept of the Social

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091120/1258746079

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100212/1265948020

簡体字版

承前*1

石剣峰「《1Q84》中文簡体字版5月出版」『東方早報』2010年4月15日


村上春樹の『1Q84』の簡体字版が5月に「新経典出版社」から出版されるという。出版社側は訳者が誰であるかを明かすことを拒絶している。また、『1Q84』は繁体字版が台湾で刊行されて既に半年以上経っており、中国大陸でもコアな村上春樹ファンの多くは既に繁体字版を入手して・読んでいるので、如何にしてコアではない読者層を開拓していくのかが問題になるとされている。