ビフテキそして外郎


ビフテキって言葉を久しぶりに聴いた。しかも『サザエさん』から脚本家はどういう時代設定なのかな。
と或る方が呟いていた。
俺の勝手な定義によれば、「ビフテキ」っていうのは町の洋食屋さんに結びつく。それに対して、ビーフ・ステーキというのはステーキ・ハウスだとかレストランだとかに結びつく。去年よしもとばなながバッシングされていた時期*1だと思うけれど、1970年代にファミレスというものができるまで、庶民にはレストランというものは縁遠いものだったとか書いていた奴がいたのだが、それを読んで、何馬鹿なこと言ってるんだい、田吾作めと思った。暇がなかったので、URLを掲げてblogには書かなかったけれど。東京の下町あたりでは、レストランなんてしゃれた名前のものはなかったけれど、町内に1軒くらいは洋食屋さんがあって、みんな、ビフテキだのハンバーグだのオムライスだのを食べていたのではないか。もし、「ビフテキ」という言葉に「時代」のズレを感じるとしたら、それは町内から洋食屋さんがなくなっているということなのか。
食べ物の話ということで。「重陽餅なる菓子を食べる」と書いたら*2、「わたしも食べたいです」というコメント*3。えーと、これは和菓子でいうところの外郎と殆ど同じです。外郎だが、薬としての外郎と菓子としての外郎があって、ややこしい。さらに、小田原の「外郎家」(「株式会社ういろう」)*4はそもそも薬としての外郎を製造・販売していたのだが、今では菓子としての外郎も製造・販売しており、さらにややこしくなっている。因みに俺は関東人でありながら、外郎というと小田原よりも名古屋を連想する。

Time Out

スターズ・アンド・トップソイル~コクトー・ツインズ・コレクション 1982-1990~

スターズ・アンド・トップソイル~コクトー・ツインズ・コレクション 1982-1990~

1日に2回はコクトー・ツインズのベスト・アルバムを聴かなければ気が済まないというアディクション状態が続いていたのだが*1、最近やっとそれを脱したのだが、今度はデイヴ・ブルーベックがそれに取って代わりそう。The Dave Brubeck Quartet Time Out*2開封してプレイヤーにかけてみたら、1曲目の”Blue Rondo a la Turk”でやられてしまった。最初いきなり9/8の切迫したポール・デズモンドのサックス・ソロ。直ぐにそれをブルーベックのピアノが追い掛ける。やがて突然オーソドックスな4ビートに移ってしまう。最後、4ビートに割り込み・それと鬩ぎ合うように9/8の主題が戻ってきてエンディング。1959年にオリジナルのLPが出たときのライナーノーツで、Steve Raceは


(…) New Orleans pioneers soon broke free of the tyranny imposed by the easy brass key of B-flat. Men like Coleman Hawkins brought a new chromaticism to jazz. Bird, Diz and Monk broadened the harmonic horizon. Duke Ellington gave it structure, and a wide palette of colors. Yet rhythmically, jazz has not progressed. Born within earshot of the street parade, echoing through the South, jazz music was bounded by the left-right, left-right of marching feet.

Dave Brubeck, pioneer already in so many other fields, is really the first to explore the uncharted seas of compound time. True, some musicians before him experimented with jazz in waltz time, notably Benny Carter and Max Roach. But Dave has gone further, finding still more exotic time signatures, and even laying one rhythm in counterpoint over another.

と書いている。また、”Blue Rondo a la Turk”について、ブルーベックがCD化に際して寄稿した”Time Out is Still In”という文章では、

For a number of years, the Quartet frequently used a polyrhythmic approach within improvised solos. In 1958 we shared the experience of traveling in the Middle East and India and playing with musicians from those countries, where folk music was not limited to 4/4. Morello astonished Indian drummers by his ability to answer to their tabla rhythm patterns precisely within the raga; I felt immediately intrigued with the 9/8 pattern I heard on the streets of Istanbul. Combining the Turkish 9/8 pattern with the classical rondo form and the blues resulted in ”Blue Rondo a la Turk,” the flip side of “Take Five,” which was the “hit” single that finally emerged from Time Out.
と記されている。Time Outというと、ブルーベックも書いているように、ポール・デズモンド作曲の”Take Five”ということになるのだろうけど、これはそもそもジョー・モレロのドラム・ソロを目立たさせるために書かれたもので、”Take Five”というタイトルも5/4というリズムに由来するものだろう。ドラムとピアノの微妙なずれが面白い。また、ブルーベックが自らの娘に捧げたという”Kathy’s Waltz”も不思議な魅力をもった曲で、4ビートが何時の間にかワルツに変容している。
Time Out

Time Out

そういえば、デイヴ・ブルーベックの息子でチェリストMatt Brubeckのライヴを2008年に上海で観たことを思い出した*3

「民族」か「国民」か(メモ)

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20101023/p1


これに対しては、ブクマ・コメントに


tari-G 『民族社会主義と訳すのが正しい』賛成できない。NationStateを基本的には民族国家と訳さないように、実体的な民族性が強調されると近代における特別の幻想的共同体概念としてのNationの意味を失念させる恐れが高まる 2010/10/23
http://b.hatena.ne.jp/tari-G/20101023#bookmark-25896805

wackunnpapa 歴史, 政治 「民族」というならNationalではなく,やはり頻繁にNSDAPが使っていたVolkという言葉/概念もあったわけで,この場合“民族社会主義”という訳を当てることは,「国民化」という問題をそぎ落とすことにならないか。 2010/10/23
http://b.hatena.ne.jp/wackunnpapa/20101023#bookmark-25896805
という意見があったが、これらに全面的に賛成。一方では、面倒臭いなら、(パナソニックから文句が来るかも知れないけど)ナショナル社会主義って訳してしまえばいいんだと思いもするのだけど、とにかく「民族」という訳語は、俺としては、ethnicityとかethnic groupの方に取っておきたいと思うのだ。ということで、nation-stateを「民族国家」と訳せと宣う関曠野(『民族とは何か』)にも絶対反対なのだ。
民族とは何か (講談社現代新書)

民族とは何か (講談社現代新書)

アドルフ・ヒトラー 権力編―わが闘争の深き傷痕』という本から

ナチズムは、正確にはドイツ語でNationalsozialismusという。「国家社会主義」「国民社会主義」「民族社会主義」などと訳されている。問題はNationalをどう訳すかであるが、語学的にはいずれも可能である。しかし、これは「民族社会主義」と訳すのが正しい。それは、ナチズムがドイツ民族−ドイツ国家でもドイツ国民でもなく−の社会主義を標榜するイデオロギーだからである。

いうまでもないことであるが、ドイツ国民は、基本的にドイツ国籍の保有者であるが、ドイツ民族は、ドイツ国民とは限らない。オーストリアをはじめとして中・東欧に広範に居住しており、さまざまな国民でありうる。「民族社会主義」は、これらのドイツ民族をも視野に入れたイデオロギーである。

他方、ドイツ国籍を持ったユダヤ人はドイツ国民であるが、ドイツ民族ではない。「民族社全主義」はドイツ民族の社会主義であり、ドイツ民族でないユダヤ人は排斥される。

という箇所が引用されている。まあ、これはあちこち散在している独逸人が1つの大きな国家を建設して、その国民になろうぜということであって、「国民」と訳していけないわけはない。これはハンナ・アレント(『全体主義の起源』第2部「帝国主義」)が「種族的ナショナリズム(tribal nationalism)」と名付けたもので(p.227ff.)、それは彼女が「大陸的帝国主義(continental imperialism)」と関連付けた19世紀以来のPan-movements(p.223ff.)に端を発したものだ。これによってナショナリズムが限りなくレイシズムに接近していくとはいえる。勿論、この傾向は独逸(ゲルマン)に限ったことではなく、分散しているスラヴ系の人間が1つの大きな国家を作ろうという汎スラヴ運動というのもあったし、反ユダヤ主義を伴ったPan-movementsへの反応として生まれたといえるシオニズム*2もtribal nationalismの典型的な例と言える。また、戦後そのシオニズムと鋭く対立することになるアラブ・ナショナリズムも、例えばイスラームという宗教的な絆によってではなく、また埃及とかパレスティナとかシリアとかイラクとしてではなく〈アラブ民族〉としての団結を唱えた点で、Pan-movementとしての性質を持っていると言えるだろう(アラブ・ナショナリズム反ユダヤ主義的な性格については、例えばポール・オースターのインタヴューに答えたエドモン・ジャベスの回想[『空腹の技法』、pp.196-197]*3を参照されたい)。
The Origins of Totalitarianism (Harvest Book, Hb244)

The Origins of Totalitarianism (Harvest Book, Hb244)

空腹の技法 (新潮文庫)

空腹の技法 (新潮文庫)

それから、「ホロコーストなどのナチスドイツによる非道なふるまいの背景には自民族の繁栄と生活向上のためには他民族を排斥しても構わないとする自民族中心主義があったわけです」というのは説明不足だろう。誰もが身勝手であるように、どんな「民族」も「自民族中心主義」であるとは言える。しかし、ナチスは或る一線を越えてしまった。ここで重要なのは寧ろレイシズムである。アレント、『全体主義の起源』最終章にて曰く、”The word “race” in racism does not signify any genuine curiosity about the human races as a field for scientific exploration, but is the “idea” by which the movement of history is explained as one consistent process.”(p.469)
また、「国有化」だとか経済統制ということで、ナチズムを特徴付けるということはできないだろう。経済統制という発想はそもそも第一次世界大戦の時の独逸の戦時経済に端を発するもので、レーニンヒトラーもそこから学んだわけだ。また、この時期、どの国でも、世界大恐慌、第二次大戦、戦後の復興といった危機を乗り切るために、経済統制という手段を導入した。経済統制なしに戦争を乗り切ったのは米国だけではなかったか。蘇聯型社会主義は「国有化」ではなく、寧ろ国営化。「国有化」は国家が企業の株式の50%以上を取得することにすぎないのに対して、国営化は企業が国家の行政部門として吸収されてしまうことを意味するだろう。また、国営は国有を必ずしも前提としない。日本の戦時統制経済には、企業を私有のまま国営化することが目指されたという特徴があったのではないか。
ヒトラーに関して言えば教育機会の均等を唱えた点においては、公教育の廃止を唱えるようなリバタリアンよりはましと私は思います」というのは危険な言葉だろう。ここで念頭に置かれているのは、http://d.hatena.ne.jp/slumlord/20101001/1286799129なのだろう。これを読んで、昔馬鹿な左翼が資本主義を肯定するように洗脳しているのだから公教育を粉砕せよとか言っていたのを思い出してしまった(今でもそう言いそうな奴の見当は付くけど)。勿論「自由な社会を築くためには、公教育、とりわけ公立学校が完全に廃止されなければならない」というのは極論であり、首肯することはできない。しかし、「公教育」の範囲をどこで限定するのかというのは議論に値するだろう。また、「公教育」を所謂読み書き算盤そして英語といったミニマムに止めるのではなく、そのテリトリーを「基本的な生活習慣」といった領域にまで拡大していこうという主張が、しかも〈貧困層〉の救済という美名の下に出てきているということも指摘しておかなければならない*4。さて、リバタリアン的な「公教育」「廃止」論のいちばんの欠点は、教育の効果としての学力或いは学歴がマネー的に(資本として)機能していること(例えば佐藤学『学力を問い直す』を参照のこと)を無視している点だろう。マネーとしての信用度の問題もあるし、偽札(ディプロマ・ミル!)を掴まされるというリスクもある*5。ということで、学力(学歴)の認証・認定という機能が重要になってくる。そこで、認証・認定の担い手としての国家機関が再登場することになるだろう*6
学力を問い直す―学びのカリキュラムへ (岩波ブックレット)

学力を問い直す―学びのカリキュラムへ (岩波ブックレット)

                                            

陸揚『地獄』

土曜日、颱風接近のために大粒の雨が降りまくる中、永嘉路のArt Labor*1での陸揚『地獄』のオープニングへ行く。
インヴィテーションのメイルには、14歳以下入場禁止とか、動物愛護協会会員の人は遠慮してくださいとか書いてあったので、正直言って、どきどきしていたのだった。或いは、もしかして、当局によって中止させられるとか。
実際どうだったか。陸揚の作品は、半分空想に属する〈残酷〉テクノロジー構想のパネル、その実践として生きている蛙に電流を流したインスタレーションのヴィデオ、様々な動物の解剖図からなっている。たしかに蛙に電流を流すヴィデオは、動物愛護協会の人が青筋を立てるかも知れない。勿論、テクノロジーが孕む〈残酷性〉を誇張することによる異化効果という倫理的意義があるということもできるだろう。また、特にシュールレアリスム以降において、アートと〈残酷〉機械の関係について1本の系譜を引くことが可能なんだろうとも思うけれど、ここでは云々している余裕はない。それはともかくとして、中国の若手のアーティストということだと、例えば嬰野賦*2と通底するものを感じてしまった。陸揚の作風が未来的でドライなのに対して、嬰野賦はノスタルジックでウェットであるが。陸揚に対する日本的なものの影響ということでは、彼女はオウム真理教に大いにインスパイアされているのではないかと思った。特に、電極付きのヘッド・ギアによる脳のコントロールというアイディアにおいて*3。また、〈残酷〉を緩和しているのかどうかわからないが、陸揚の作品には特有のユーモアがあることも指摘しておく。例えば、〈自動スカトロ・マシーン〉(永久機関!)とか*4
なお、Robin Peckham氏による”Tortuous Visions of Lu Yang: The Bioart in China”*5も読まれたい。