Living, Loving, Thinking

2010-10-27

榎本泰子上海

上海 - 多国籍都市の百年 (中公新書)

上海 - 多国籍都市の百年 (中公新書)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101007/1286467514でも引用した榎本泰子上海 多国籍都市の百年』(中公新書、2009)を先日読了。

序章 上海租界の百年

第1章 イギリス人の野望

第2章 アメリカ人の情熱

第3章 ロシア人の悲哀

第4章 日本人の挑戦

第5章 ユダヤ人の苦難

第6章 中国人の意志


あとがき

参考文献

主要図版出典一覧

上海近現代史略年表

「外国人によって建設され、発展した都市」としての上海(p.9)の近代史が、それに関わった人々の「国籍」別に考察される。

イギリス人の野望」では、上海における英国人の覇権の衰退についてちょっとメモしてみる;

二〇世紀前半、上海社会の様相を最も大きく変えたのは第一次世界大戦だった。ヨーロッパで始まった戦争は遠く上海にも波及し、イギリス商人は軍事に転用するため持ち船を本国に戻さなければならなくなった。船がなければ貿易は成り立たず、輸送費は高騰し、商工業も停滞した。一九一七年に中国政府ドイツオーストリア宣戦布告すると、両国最恵国待遇を失い、バンドのドイツ銀行は閉鎖され、黄浦江のドイツ船とオーストリア船は抑留された。欧州本国の利害を直接反映しないはずの共同租界でも、参事会のドイツ人参事が辞任を余儀なくされた。イギリス人たちの反ドイツ感情は高かったのである。本国へ帰って従軍し、戦死したイギリス人の名前が新聞に掲載されるようになるとなおさらであった。

イギリスフランスの資本が後退した代わりに、アメリカや日本の資本が進出し、上海の勢力地図は塗り替えられることになる。人口の変動も大きく、一九一五年には日本人がイギリス人の数を抜き、租界の外国人の中で第一位となった(第2章参照)。

大戦中、約五〇〇人ものイギリス人が従軍するために上海を離れた。イギリス人成年男子の減少は、イギリス人中心で運営されていた工部局の体制にも影響を与えていた。だからこそ、たとえば戦後の一九一九年に、工部局警察は七四人ものイギリス人を本国で募集し、上海で勤務させた。彼らの多くは復員軍人や農村出身の労働者で、戦争で疲弊したイギリス国内で職にありつくことができず、新天地を求めて応募したのである。

彼らはそもそも都会で暮らしたことがなく、当初上海の繁栄に幻惑され、中国人のボーイを使う身分になっただけで喜んだ。しかし上海イギリス人社会は国内における階級意識をそのまま持ち込んでおり、貴族や大商人から見れば、警察官などはものの数に入らなかった。同じ国の人間に軽んじられる一方、中国人の前では大英帝国の威光を示す存在でなければならないという、複雑な立場に置かれるうち、彼らの心理は屈折していく。(後略)(pp.54-55)

アメリカ人の情熱」からは、先ず米国の印象について;

(前略)アメリカ第一次世界大戦後空前の繁栄を迎えると、アメリカ渡来の製品――香水、ストッキング、ラジオ自動車など――は、豊かさの象徴として人々のあこがれとなる。

そしてアメリカ人という存在もまた、上海中国人の前に新しいイメージで現れた。アメリカ人の陽気さや、フレンドリーな物腰は、支配者然としたイギリス人に比べて親しみを感じさせた。イギリスと異なり、アメリカ中国と直接戦火を交えたことがないことも、好感を持ちやすい要因のひとつであった。一九二九年の大恐慌アメリカの発展を大きく後退させたが、その影響は遅れて上海に届いたため、ドルの威力はなおしばらく強かった。だから一九三一年に上海を訪れたヘレン・フォスター*1も「額にドルの印を付けた貴族」になることができたのである。(p.79)

また、米国「教育」への影響をメモしておく;

イギリス経済的利益を至上とし、現地住民との関わりをできるだけ避けたのに対し、アメリカは特に教育を通じて、中国の近代化を促進しようとした。なかでもプロテスタント各派が行なった中国人向けの高等教育は、徹底した英語教育や、スポーツ活動の重視などにより、知識層のライフスタイルに大きな影響力を与えた。

たとえば聖ジョンズ大学(聖約翰大学)は、一八七九年に聖公会宣教師によって設立され、「中国のハーヴァード大学」とも言われた名門である。当初英語教育を中心とする地元の「書院」だったのを、一九〇五年にアメリカワシントン登記し、文学理学、工学、医学神学の各学部と大学院、附属高校を併せ持つ総合大学に拡張した。この大学で学んだ者はアメリカの大学の卒業生と同等の学位を持ち、卒業後にアメリカ大学院に留学することができた。(pp.108-109)

聖ジョンズ大学はアメリカ式の教育を通じて、上海上流階級の子弟に西洋の学術思想や生活様式を浸透させた。この学校が「アメリカの大学」になった一九〇五年はちょうど科挙が廃止された年でもあり、学業の目標を失った知識層の受け皿として、各地の教会学校が人気を集めた時代であった。教会学校は、中国に良質の信徒や宣教師の人材を育てるという、設立当初の意図や機能を次第に弱め、それと反比例するように社会的影響力を増していった。(p.111)

ロシア人の悲哀」から;

(前略)帰る国を失ったロシア人たちは、運命を諦めたように黙々と働き、犯罪に走ることもほとんどなかった。他の外国人と異なり、中国人に対して支配者づらをすることもなく、地域にとけこもうという努力が見られた。彼らは上海を第二の故郷と思い定めようとしていたのである。年月が経つうち、租界の人々のロシア人を見る目は少しずつ変わっていき、手堅い商売を続けた者や、専門的な技術を身に付けた者はささやかな成功を収めるようになってきた。一九二〇年代末には、上海で一流と言われる医師、建築家エンジニアのうち、ロシア人が一割以上を占めたという。(p.122)

上海租界は貿易と商工業で発展した街であり、さまざまな国籍の人々が経済的利害のために寄り集まる場所であった。そのため欧米人たちは、しばしば上海の地に「文化がない」ことを嘆いていた。ヨーロッパの地において宮廷や貴族が守り育ててきた「伝統」や、歴史的・体系的な「芸術」は、上海という新興都市には欠落していた。そこを思いがけず埋めてくれたのが白系ロシア人であった。上海の「成金」たちは、初めて見る本物の貴族(中には「自称貴族」もいたという)にあこがれと敬意を持ち、彼らのサロン文化や芸術活動を通じてヨーロッパの香りを味わおうとした。難民であるロシア人が上海経済に重要な役割を果たすことはなかったが、文化的な貢献はきわめて大きかったのである。(p.137)

ロシア人は、貧しく不安定な境遇のゆえに、中国人にとっても身近な存在だった。彼らは地元の社会にとけこもうと努力し、商売を通じて中国人とも交流した。ハルピンなど中国東北部から流れてきたロシア人は、もともと中国人と共存することに慣れていたとも言える。ロシア人経営の飲食店のメニューや、ロシア料理を習い覚えた中国人も少なくなかった。「羅宋湯」(ロシアン・スープ=ボルシチ)や、手作りのマヨネーズであえたポテトサラダ*2などは、今日も上海家庭料理の中に生きているという。

上海租界に住む外国人うち、帰る国をなくし、治外法権の特権もなくしたロシア人が、最も広く深く、その生活スタイルを上海の社会に浸透させたことは興味深い。(略)

[陳丹燕によれば]上海中国人は、租界時代にひとたび味わった「西洋」――庭のバラや、ピアノの音色や、コーヒーの香りを、文化大革命の時代すらも忘れなかった、というのである。そのような生活への「こだわり」を教えたのは、イギリス人でもアメリカ人でもなく、「フランス租界のロシア人」だった。(pp.138-139)

日本人社会の構成について;

上海の日本人社会は、人口総数が多い分、階層分化が激しかった。「ひと旗組」じゃ虹口で日本人相手の商売に従事し、最後は上海に骨を埋める覚悟であった。このような人々を「土着派」と呼ぶ。一方、大銀行・大会社から上海支店に派遣された人々もいた。彼らにとって上海は任地の一つに過ぎず、任期が終われば日本へ帰るか、ニューヨーク、パリなどの支店に転勤して行った。このような人々を「会社派」と呼ぶ。「土着派」と「会社派」のライフスタイルや意識には大きな差があり、居留民組織の中で対立を招くこともあった。

「土着派」と、「会社派」の中間層(サラリーマン)が住む場所が虹口である。日本人経営の商店が建ち並び、日本語ですべての用が済む虹口は、時として外国で暮らしているということを忘れさせた。一方「会社派」の中のエリート層(支店長、幹部社員クラス)は、欧米人のように共同租界のオフィス近くに暮らし、最も裕福なものはフランス租界に自宅を持っていた。つまり上海の日本人は、社会的ステータスが高いほど暮らしが欧米化しており、低いほど日本と同様の暮らしを営んでいたのである。一九二〇年代末頃、上海の日本人居留民総数のうち、「会社派」エリート層が三パーセント、「会社派」中間層が四〇パーセントを占め、その他多数が「土着派」であったという。

金もなく、コネもなく、英語もフランス語もできない庶民にとっては、虹口こそが上海のすべてであり、欧米人の闊歩する租界中心部には足を踏み入れることもできなかった。虹口と共同租界中心部は蘇州河で隔てられており、ガーデンブリッジで結ばれているとはいえ、その心理的障壁は大きかった。虹口の日本人は、バンドの摩天楼や音に聞く南京路を思い描き、あこがれを込めて「河向こう」と呼んだ。(pp.149-151)

虹口に住む日本人は共同租界工部局の行政管理下にあったが、人々の意識レベルでは、共同租界の一員というよりは、「虹口=日本人街の一員」という方がふさわしかった。すねての日本人は各町内会を通じて「上海居留民団」に所属し、外務省機関(上海においては総領事)の監督を受ける存在として位置づけられている。居留民団は紡績会社などからの寄付金を主な財政基盤とし、民団立学校(小学校、高等女学校、商業学校など)や、墓地・火葬場の経営など、住民の暮らしに密接に関わっていた。財政の関係で、居留民団理事機関である「行政委員会」の委員は、大会社の重役や銀行支店長などから選ばれた。少数のエリートが多数の民衆の福利厚生を図るという構図は、工部局参事会の成立経緯とも似ている。(p.175)

なお、この本は堀田善衛上海にて』*3に対する強烈な皮肉とともに閉じられる(p.264)。

上海にて (集英社文庫)

上海にて (集英社文庫)

上海に関わった様々な国の人で、追加されるべきは韓国人だろう。何しろ上海大韓民国発祥の地でもあるのだから。

この本の記述は共同租界が中心で、仏蘭西租界にはあまり触れられていない。仏蘭西租界についてのコンパクトな本として、にむらじゅんこ『フレンチ上海』をマークしておく。但し、観光ガイドとして使うには既にちょっと厳しい。また、上海に関する歴史社会学的考察として、根橋正一先生の『上海―開放性と公共性』をマークしておく。

フレンチ上海 (コロナ・ブックス)

フレンチ上海 (コロナ・ブックス)

上海―開放性と公共性

上海―開放性と公共性

社会学と「民間学」(メモ)

東京大学出版会のPR雑誌『UP』(456)に斎藤兆史「『英仏文学戦記』後記――イギリスで読み直すイギリス小説」(pp.1-5)という文章あり。斎藤兆史野崎歓『英仏文学戦記 もっと愉しむための名作案内』という本を読んでもいないし、買ってもいないので、何とも言えない。ただこの文章の内容は面白い。小見出しだけ掲げておくと、

イギリスの自然は身近でありながら意外と過酷である

イギリスでは子供の位置が確保されている

イギリス人の家に対する思い入れは尋常ではない

イギリスは激しい異文化接触を経験してきた国である

また、奥井智之「社会学履歴書――『社会学の歴史』刊行に寄せて」(pp.6-11)。

奥井氏の『社会学の歴史』も読んでいないのだが。この文章の中で、社会学とその隣接領域*4ユダヤ人が多いことが指摘されている。ユダヤ人として名前が挙げられているのは、


マルクス

フロイト

ジンメル

デュルケーム

ポランニー*5

ベンヤミン

マンハイム

ギュルヴィッチ*6

ホルクハイマー

エリアス

ワース

マルクーゼ

シュッツ

フロム

アドルノ

ラザーズフェルド

アロン

アーレント

リースマン

ドラッカー

マートン

ガーフィンケル

ベル

グールドナー

ゴッフマン

バウマン

バーガー

ミルグラム


緩いわりに、レヴィ=ストロース*7が抜けているのはどうしたわけだと思うし、さらにデリダを入れてもいいじゃないかとも思う。それはともかくとして、ウェーバーの『職業としての学問』を引きながら、

ウェーバーが『職業としての学問』で、「どう教授になるか」について論じていることは有名である。しかしそこに、何か秘訣が書かれているわけではない。ウェーバーはこういう。大学に職を求める者の生活は、「運」に支配される。その者がユダヤ人ならば、「すべての希望を捨てよ」といわねばならない。たとえユダヤ人でなくとも、自分よりも凡庸な連中が自分よりも順調に昇進していくのを目にしなければならない、と。要するに「どう教授になるか」という方法などない、というのがかれの主張であった。ウェーバーがそこで、とくにユダヤ人学者について書いていることには伏線がある。ある教授職にウェーバーが、ジンメルを推薦した。しかしジンメルユダヤ人という理由で、その人事が日の目を見なかったことがそれである。(p.9)

と述べられる。さらに、

(前略)社会学ユダヤ人の学問という履歴は、わたしたちに一つの問題を提起している。いま一つ気づいたことは、社会学民間学者(市井の学者)の学問という履歴である。紺と、マルクスフロイトなどが民間学者であることは、非常に見やすい。

意外なことにはウェーバーが、かれらの仲間である。ウェーバー精神疾患のために、大学を辞職する。かれが社会学者になるのは、実はそれ以降である(かれは元々、法学者であり、経済学者であった)。もちろん民間学者の場合、どうやって食べていたかが問題になる。たとえばコントやマルクスが、ほぼ終生貧困に苦しんだことは有名である。それはそれで、大いに身につまされる話ではある。フロイトは臨床医として家族の生活を支え、ウェーバーは遺産生活をしていたと推察される。しかしパンの話は、ひとまず横におこう。重要なのは社会学の創生に際して、民間学者が大きな役割を果たしたことである(わが国でも民間学者としての、福沢諭吉柳田国男の果たした役割が注目されてしかるべきである)。それは社会学ユダヤ人の学問という、さきの履歴とも関連するものである。このような社会学の履歴は大学人に、「社会学的創造力の基盤は何か」という問いを突きつけている。(p.10)

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080131/1201781124

Vegetarian

承前*8

日本語の草食男子に影響されたのかどうかわからないが、中国語スラングに同様の意味で「吃素的」というのがあるのに気づく。字義的な意味はヴェジタリアンthat’s Shanghai October 2010, p.27)。

デューイと熊本

石剣峰「杜威対中国有更深切的参与思想」『東方早報』2010年10月26日

章雲華「胡適邀請杜威来華始末」『東方早報』2010年10月26日


全38巻の『ジョン・デューイ全集』が華東師範大学出版社から刊行されるというニュースなのだが、記事の中では当然デューイの中国滞在のことが言及されている。デューイは1919年4月30日に上海に到着したが、最初は講演をこなした後で帰国するつもりだったのが、到着3日後に「五四運動」が勃発するという状況の下、結局中国滞在は2年以上に及び、1921年7月11日に中国を離れた。章雲華の記事によると、デューイは日本滞在中に当時北京大学教授だった胡適の招請状を受け取り、また当時やはり日本に滞在していた北京大学の蒋夢麟と南京高等師範学校校長の郭秉文がデューイ夫妻を直接訪ね、訪中を要請した。さて、デューイ夫妻は1919年4月27日に「熊本港」で「熊野丸」に乗り込み、上海へ向かったという。横浜でも神戸でも長崎でもなく、何故熊本だったのか。熊本に何か用事があったのか。

また、5月12日にデューイは上海孫中山と会談している。

なお、同時期(1920年10月12日〜1921年7月11日)にバートランド・ラッセル中国に滞在していた。

れすれす

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101026/1288065490

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101026/1288065490#c1288070878

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101026/1288065490#c1288071611


「姐さん」についてはすみませんでした。深く反省します。

『憂傷的老板』に付いている左小祖咒の年譜によれば、1993年に「北京東村」を「開創」し、1995年に「北京東村」は「解体」したとあります。私が「北京東村」を知ったのは1993年か1994年に雑誌『エスクワイア』の特集を通じてだったでしょうか。また、麻生晴一郎氏が「北京東村」についての本を書いている筈であり、『反日、暴動、バブル*9でも触れられていたかと思います。

反日、暴動、バブル 新聞・テレビが報じない中国 (光文社新書)

反日、暴動、バブル 新聞・テレビが報じない中国 (光文社新書)

また、

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101025/1288020933に対して、

Nessko*10 2010/10/26 21:53

洋食屋さん

子供のころは、洋食屋さんへ連れて行ってもらうのが楽しみでしたね。

商店街が寂れて、昔あった洋食屋もなくなりましたが、ファミレスは国道や県道沿いに現れました。

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101025/1288020933#c1288097590

私にとって、町の「洋食屋さん」よりもデパートの大食堂の思い出の方が強いのですけど、デパートの大食堂というのも今や絶滅危惧種か。「商店街」の盛衰と命運を共にしているものとして、町の喫茶店があるかと思います(例えば、市川準の映画『東京夜曲』で桃井かおりが経営している喫茶店)。それから、平成に入っての話ですけど、実家の近くで、東京のどこそかというフレンチ・レストランで修行した人が店を出したけれど、フレンチ、フレンチと気取っていても商売にはならず、直ぐにハンバーグ定食とかコロッケ定食とかを出し始め、つまり町の「洋食屋さん」になってしまったということはありました。

東京夜曲 [DVD]

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洋食屋さん」というのは日本独特のものなのかどうかはわからない。上海にはかなり中国化した「洋食」を食べさせる店は昔からあったけれども。或いは茶餐庁、つまり香港式の大衆食堂で、中華のほかにトーストやサンドウィッチのような「洋食」も出すところ。