「たち」或いは「など」など

梁文道「中大変英大――《令大学頭痛的中文》」(in 『読者』*1、248-250)


漢語で複数形を作るのには「們」を加える。例えば、我(me)→我們(us)。ところで、梁氏は最近中国語における「們」の用法が可笑しくなっているという。「現在很多人都喜歓把它加在一個人名後面、以代替伝統的”等人”二字」(p.248)。つまり、英語でいうet al.(and others)の意味で使われている。例えば、「陳凱歌、張藝謀、馮小剛等人、搶拍大片、癒拍癒爛」が「陳凱歌們争拍大片、癒拍癒爛」に。梁氏はこれを見ると、「陳凱歌」という同姓同名の映画監督が何人もいるのかと思ってしまうという。この用法は中国内地から始まって、次第に南下して、遂には香港にも広まったものであるという。
日本語では〈たち〉〈ら〉〈など〉という言葉がある。〈など〉が漢語の「等人」、英語のet al.(and others)に対応するというのはわかりやすいが、〈たち〉や〈ら〉はどうか。上の中国語の例でも、問題とされているのは固有名詞(人名)に続く「們」である。日本語では、例えば小沢一郎たちとか植草一秀とはいう。この場合、小沢一郎植草一秀が100人いるわけではない。もしいたとしたらキモすぎる。あくまでも小沢一郎植草一秀)及びその他の人たちという意味だろう。英語で書くとしたら、Ozawa and others(Uekusa and others)。とすれば、「們」の新しい用法というのは中国語の日本語化ということになるのかならないのか。
さて、香港人は日本人のことを外国語ができないと馬鹿にするという。梁氏は、しかし日本は翻訳大国で、ハイデガーの『存在と時間*2は英訳だって2種類しかないのに日本語訳は5種類もあるという。だから、「日本人的外文水平」はいわれている程「アレ(糟)」ではない。また、


更有意思的是擅長吸収外来知識的日本学界在長期且大量的翻訳積累上、漸漸形成了自己的西学伝統、且在近年反向輸出、遠征欧美。単以研究馬克思来説、日本就有好幾個明星級学者、或者別有創見如柄谷行人、或者精於考証文献像廣松渉、直叫徳国同行恨不能通日文。(p.249)