OBLの理由

承前*1

『読売』の記事;


強固な反米主義・財産…ビンラーディンとは

 1日、死亡が発表されたウサマ・ビンラーディンの生涯は、冷戦後に世界が直面した「欧米対イスラム過激派」の対立構造を象徴するものでもあった。

 米当局などによると、ビンラーディンの父親はイエメン出身。無一文から建設業を興し、財閥を築いた。50人を超える子供の中で17番目の息子といわれるビンラーディンはリヤドで生まれ、大学で土木工学と経営学を専攻した。

 だが、1970年代、西欧的文化に染まっていたレバノンに滞在したことで、イスラム過激原理主義への傾倒を強めたとされる。

 80年代、ソ連に侵攻されたアフガニスタンにムジャヒディン(イスラム聖戦士)として向かったビンラーディンは、父から受け継いだ推定3億ドル(約240億円)の財産を背景に、パキスタン北西部ペシャワルのムジャヒディン支援施設「マクタブ・アル・ヒドマート」に資金を提供。この施設が、アル・カーイダの前身となっていった。

 90年の湾岸危機の際、母国サウジが女性兵士も多い米軍の駐留を認めると、「イスラムへの冒とく」と非難し、反米主義を強めた。「いかなる時も米国人とユダヤ人を殺害するのがイスラム教徒の義務」と宣言し、米国など西側権益をテロの標的とする姿勢を明確にした。

 米国防総省が同時テロ後の2001年12月に発表したビデオ映像でビンラーディンは、「私は、相手が『アラー以外に神はなし』というまで戦うよう命じられた」と淡々と述べ、テロ実行犯を「真のイスラム教徒」とたたえた。

 その姿は、異なる宗教、文明との共存を認めず、ひたすらイスラム世界の拡大を目指す思想の一端を示すものとして、当時、注目を集めた。

 米軍のアフガン進攻後も時折、映像や音声テープを発表しては世界にジハード(聖戦)を呼びかけた。

 ビンラーディンに2度インタビューしたパキスタン人ジャーナリスト、ラヒムラ・ユスフザイ氏は、ビンラーディン自身はもう何年も前から活動の指揮は執っておらず、アル・カーイダはすでに「自律した組織になっている」と指摘する。

 アフガンの旧支配勢力タリバンも、アル・カーイダから長年の資金援助を受け、結びつきは強い。ユスフザイ氏は「ビンラーディンの意思は、すでに『形』になっている」と述べ、その不寛容な思想が各地に広く根づいたと警告する。(イスラマバード 横堀裕也)
(2011年5月3日12時52分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110503-OYT1T00298.htm

アフガニスタンで米国と共闘していたビン・ラディンがサウディ王権に歯向かい、反米化していった経緯について、「90年の湾岸危機の際、母国サウジが女性兵士も多い米軍の駐留を認めると、「イスラムへの冒とく」と非難し、反米主義を強めた」というのは何も説明していないに等しいだろう。中田考ビンラディンの論理』を思い出しながら、ビン・ラディンのロジックを述べてみると、


サダム・フセインによるクウェート侵略はイスラーム内ゲバであり、イスラーム内部で解決すべき問題なので、異教徒(米軍)を引き入れることは不適切である。


サウディ・アラビアの王権の存立意義は聖地メッカを守護することにある。聖地を含むサウディ・アラビアは原則として異教徒立入禁止であり、特例として外交やビジネスの目的で異教徒が立入る場合は非武装でなければならず、武装した異教徒(米軍)がサウディ・アラビア領内に存在することは認められない。


というものだったと思う。勿論、このビン・ラディンの主張が正しいのか誤っているのかはイスラーム神学・法学に内在的にしか決せられないだろう。

ビンラディンの論理 (小学館文庫)

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