正岡子規について

NHKスペシャルドラマ 坂の上の雲 第1部 DVD BOX

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ドラマ『坂の上の雲』における正岡子規はマッチョな秋山兄弟に挟まれた優柔不断なお調子者というイメージがある。


高橋睦郎「アマチュアに始まる」『図書』747、pp.58-63、2011


ここで正岡子規のことが語られている。
正岡子規は挫折した小説家であったこと。彼は同年齢である幸田露伴の『五重塔』の成功に刺戟されて、小説『月の都』を書いて露伴に見せるが、露伴から「小説としては戴けない」という評を下され、小説家になることはあっさりと挫折する(p.60)。その後、陸羯南の「日本新聞社」に入社。高橋氏は子規が新聞『日本』に連載した『芭蕉雑談』に注目する(p.60ff.)。曰く、


詩歌史的に重要なのはむしろ「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」として、芭蕉の最重要の仕事である連俳について論じなかったことでしょう。「一貫せる秩序と統一」がないので近代文学とはいえないというのがその理由ですが、近代文学とはいえないということは、言い換えれば近代文学の先を行っているということでもあるわけで、近代文学の代表たる小説などにはその萌芽が見えましょう。いっぽう、連俳の内容は広く世態人情にわたり、小説的興味にあふれていることは、しばしば指摘されるところです。
穿って考えるなら、露伴の指摘によって小説を断念して俳諧に戻った子規は、俳諧から小説的要素を追放することで、自らの俳諧への志を純化しようとしたのではないか。後年の露伴芭蕉七部集評釈を仕事の大きな柱としますが、それは子規が切った小説的要素を俳諧に回復しようとしたのだ、と解釈することもできそうです。いずれにしても、小説断念後の子規にとって発句の極小は小説の極大と拮抗するものでなければならなかった。そうでなければ俳諧改革を生涯の仕事とする意味はなかった。子規はどこまでも明治の志の人だったのです。(p.61)
評釈猿簑 (岩波文庫)

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高橋氏は「発句の極小」と「小説の極大」を対比しているが、ちょっと視点を変えてみる。「連俳」は集団的・即興的に作られるものだ。以前も引用したが*1、松岡心平氏は「連俳」の中世的形態である「連歌」について、

第一は、連歌の融和的側面である。連歌では、他者をよく理解し、前の句を充分に咀嚼しないと、いい句は付けられない。そして、完全に目立たないような句を作っても面白くないし、また突出してしまうと全体の雰囲気が壊れてしまう。つまり、連歌会においては、全体の「座」の空気を常に感じ取り、その流れに寄り添って出句していかなくてはならないという、気くばりが常に要求されるのであり、これはまさに、一揆集団をまとめていく時の配慮と結びつくのである。

第二は、連歌のもつ興奮性である。連歌の付合には、他人が付けるということにより見当もつかない偶然性が一句ごとに介入してくるのであり、偶然性によってひきおこされる意外さの感興の集積が、連衆全体を興奮へと導いていくのである。連歌は、道の世界への言葉による旅立ちであり、集団による言語の冒険なのだ。こうして、「一巻の終りに至り手は某々の句のよかりし、すぐれたりしなどの意識は何もなくなり、たゞ面白し、愉快なりと感ずるのみにして恍惚として我を忘れたる境に」(山田孝雄連歌概説』岩波書店)達するのが、上級の連歌というものであり、これは一揆集団における身心の昂揚という側面にぴったりと結びつくのである。(『宴の身体』、pp.72-73)

と述べている。それに対して、「連俳」から「発句」のみを切り取った(現在私たちが理解している意味での)俳句はこうした集団性やパフォーマンス性を排除した、孤独な〈私〉によって作られ、その作品は〈私〉の内面の表現であるとされ、或いはそうであることが要請されるようになるだろう。その社会性は「連俳」における宴会的或いはジャム・セッション的な社会性ではなく、より抽象的な〈組織(organization)〉に関わる社会性ということになるだろう(俳句には〈結社〉が付き物)。「宴の身体」に対して、(極論すれば)こっちの方は〈引き籠りの身体〉ということになるだろうか。
宴の身体―バサラから世阿弥へ (岩波現代文庫)

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さて、高橋氏の「アマチュアに始まる」というタイトルに関連して;

(前略)子規という人は当時における俳諧者ではなかったし、現在いうところの俳人でもなかったのではないか。政治家になっても学者になってもよかった人が、たまたま俳諧に出会って面白がり、俳句改革に熱中した、ということではないか。その快活なまでの風通しのよさが、伝染性の死病と怖れられていた肺結核の患者であるにもかかわらず、子規の周囲に若い俳句好きたちを集めたのでしょう。(p.62)