Sybil或いは女優になれなかった女

Lynn Neary “Real 'Sybil' Admits Multiple Personalities Were Fake” http://www.npr.org/2011/10/20/141514464/real-sybil-admits-multiple-personalities-were-fake


Debbie Nathan Sybil Exposedという本の紹介。1973年にSybilという本がSybilという多重人格女性の実話という触れ込みで刊行され、ベストセラーとなるとともに、この本をきっかけとして「多重人格障害(multiple personality disorder)」(現在謂うところの「同一性乖離障害(dissociative identity disorder)」)の報告例は10倍以上も増えた。しかし、Nathanの調査によると、Sybilの多重人格は「嘘」であった。Shirley Mason(Sybilの本名)は精神科医Connie Wilburのセラピーを受けていたが、(彼女に疎遠にされていると感じていために)、彼女が多重人格障害に興味を持っていることを知り、彼女の気を引くために多重人格を装った。彼女の演技を信じてしまったConnie WilburはRheta Schreiberというライターとともに Shirley Masonへのインタヴューに基づいた本を企画した。Nathanによると、Rheta Schreiberは途中で Shirley Masonの語りが真実ではないことに気づいていたし、 Shirley MasonもConnie Wilburに自分が嘘をついていたことを告白している。しかし、本は実話として書かれ、出版されてしまった。Nathanによれば、それは何よりも「出版契約」が存在していたからである。ネタはガセでした、出版止めますとは今更言えないというわけだ。ここでは、ジャーナリストの取材倫理或いは社会科学者(人文学者)の調査倫理が問われているとも言える。インフォーマントの語りが嘘だと気づいたときにどう振る舞うべきか。
ただ、上の記事では言及されていない事柄に興味を持った。様々な人格を装うことがそもそもConnie Wilburの気を引くためであったとしても、具体的にどのような人格を現出させるかということはSybilの完全な独創ではなくConnie Wilburの関与があったのではないか。つまり、Sybilの多重人格は共同で構成・構築されたのではないか。レインが『自己と他者』で論じていたように、私たちの人格の呈示は重要な他者のリクエストを読み取ることによってなされる。その結果、私は他者が「射影(project)」した〈わたし〉を呈示することになる。マザコンの男が恋人に母親の面影を「射影」すれば、彼女は何時の間にか実際に母親のように振る舞ってしまうことになる。Connie WilburはSybilの演技にただただ受動的に魅せられていただけでなく、意識していたにせよしていなかったにせよ、言葉や身振りや表情で自らのリクエストをSybilに伝えて、Sybilはそれに応答していたのではないか。しかし、それ自体は必ずしも異常とはいえないだろう。私たちの(言語的・非言語的)自己呈示は常に/既に何か(誰か)に触発されたもの(motivated)、何か(誰か)に応答するもの(responding)としてある。その何か(誰か)が違えば呈示される自己も違ってくる。上で、調査倫理云々と言ったが、事実関係が食い違うということはともかくとして、事実の解釈と見なされる事柄について、インフォーマントがジャーナリストや研究者の立場等々を察知し、或いはそれに迎合して、答えるということは調査(取材)の現場ではかなり頻繁に起こっているのではないか。迎合というとネガティヴに聞こえるけど、侯孝賢北野武といった映画作家がそこらのレポーターの質問に答えるのと、(例えば)蓮實重彦の質問に答えるのとでは、全く違う答え方をするだろうというのは寧ろわかりやすいのではないか。また別の意味でも、多重人格を装うということは異常とはいえないだろう。端的に言って演技とはそういうものだとも言えるのだが、違う(フィクショナルな)自己を呈示する欲望はSMを初めとするプレイと称される性行為を基礎付けるものであり、少なからぬ人が所謂second lifeとして実践しているところのものだろう。ところで、現実のShirley Masonは自らもその構築に参加したフィクショナルな自己に開き直ることができず、TVドラマ化もされて固定してしまった自己像から逃げるように、1998年に死去するまでひっそりと暮らしていたという。

自己と他者

自己と他者

『シビル』って、日本では早川書房から出ていたのではなかったか。読んだことはないけれど、そのけっこうどぎつかった惹句は記憶に残っている。日本でどれほど売れたのかもわからない。何れにせよ、1970年代の日本で「多重人格」が問題になっていたという記憶はないのだ。というか、当時話題になっていたのは「モラトリアム」(小此木啓吾*1であって、単数のアイデンティティの定立さえ難儀なのに複数の定立なんてとてもとても、という感じだったのだろうか。その後、70年代的なアイデンティティ言説への反発として、単一のアイデンティティなんかに拘るんじゃねぇよという仕方で、ニーチェドゥルーズ的な文脈で(ミル・プラトーミル・マスカラス)「多重人格」が語られるといことはあったが(例えば浅田彰『構造と力』)、「多重人格」が日本の言説シーンで目立ってくるのは「ビリー・ミリガン」がブレイクした1990年代以降ということになるか。香山リカが「抑圧」から「乖離」へというようなことを言っていたか(『〈じぶん〉を愛するということ 』)。
モラトリアム人間の時代 (中公叢書)

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構造と力―記号論を超えて

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<じぶん>を愛するということ (講談社現代新書)

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