「懲役10年を求刑」

京都新聞』の記事;


小学校で女児12人にわいせつ 元講師「性癖自覚し志望」
1/16(火) 20:39配信 京都新聞

 京都府南部の公立小で教え子の女児7人にわいせつ行為をしたとして、強制わいせつと児童買春・ポルノ禁止法違反(製造)の罪に問われた20代の元講師の被告人質問と論告が16日、京都地裁(御山真理子裁判官)であった。被告は女児計12人へのわいせつ行為を認め、性癖を自覚しながら教師を志望し、採用の翌年にはわいせつ行為を始めたと説明した。検察側は論告で「教員の立場を悪用し、極めて卑劣かつ自己中心的な犯行」として、懲役10年を求刑した。判決は25日。
 起訴状では、2015〜17年にかけ、教室や女子トイレなどで当時6〜11歳の女児計7人の服を脱がせたり陰部を触ったりするなどした。さらにスマートフォンなどで撮影し、保存した、としている。
 被告人質問によると、被告は大学で子どもと接するサークルなどに所属。その頃から、小学校低学年の女児に性的な魅力を感じ始めたという。教師になって1年後に担任になった年から、検尿を装うなどして計12人の女児にわいせつ行為をしたという。被告は「女児は深いトラウマ(心的外傷)になっていないだろうと身勝手に考えた」と説明した。
 被害女児の父親の意見陳述もあり、「腐りきった卑劣でおぞましい行為で娘を幾度も恐怖に落とし、殺し続けた」と非難した。検察側は論告で「精神的に未熟な被害者に手当たり次第わいせつ行為に及んでおり、犯行経緯や動機に酌量の余地は全くない」と述べた。弁護側は情状酌量を求め、結審した。
 裁判は被害者の特定を避けるため、被告も匿名で実施されている。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180116-00000029-kyt-soci

こいつが逮捕されたとき、また裁判が始まったときの記事か(多分);

教え子10人前後わいせつ被害か 京都、小学講師逮捕


 教え子の女児にわいせつな行為をしたとして、京都府警が、強制わいせつの疑いで、府南部にある公立小学校の男性講師を逮捕していたことが28日、分かった。府教育委員会は、前任校を含め10人前後の教え子に同様の行為を繰り返していた疑いがあるとみて、調査を進めている。

 府教委はすでに講師を懲戒免職処分にした。府警や府教委は、被害児童の保護者が公表を望んでいないとして、事件を明らかにしていない。

 教育関係者や学校だよりなどによると、この講師は府内出身。大学を卒業したあと、講師として府南部の小学校に勤務。2015年4月に別の小学校に異動し、逮捕されるまで学級担任をしていた、という。

 関係者の説明では、講師は、校内で女児の体を触ったことなどを認めている。女児の1人が保護者に訴えて発覚した、という。

【 2017年06月29日 07時23分 】
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20170629000021


元講師、検尿口実に教え子脱がす 小学校わいせつ公判


 京都府南部の公立小学校で元講師の20代の男が複数の教え子の女児にわいせつな行為をしたとされる事件で、強制わいせつの罪に問われた元講師の公判が8日、京都地裁(大寄淳裁判官)であった。追起訴された女児2人に対する同罪について、元講師は「間違いありません」と認めた。

 起訴状によると、4月21日昼、校内の女子トイレで、当時6歳の女児の服を脱がせ、スマートフォンで下半身を撮影するなど、計3人にわいせつな行為をした、としている。

 冒頭陳述で検察側は「女児がトイレを申告したことを好機と捉え、検尿を口実に衣服を脱がせた」と指摘した。

 京都地検は元講師を6月16日に同罪で起訴、7月24日に同罪で追起訴した。さらに9月中旬に追起訴する予定としている。

 裁判は、被害者の特定を避けるため、被告も匿名で実施されている。

【 2017年09月09日 07時51分 】
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20170909000016

「20代の元講師」か。私の知り合いで、大学卒業後に通信教育で必要な単位を取って、小学校の教員免許を取得し、毎年(複数の県の)小学校教員試験を受けていた奴がいた。そのことを教えてくれた友人は、そいつが小学校の教員を目指しているのは子どもに対する性的な悪戯が目的なんじゃないかと言っていた。その頃、「ペドフィリア*1という言葉はまだ知らなかったけれど、そいつが今なら「児童ポルノ」として発禁になる筈のヌード写真集を持っていたことは知っていた。何処かの県の試験に合格したという不確かな情報が流れてきたときにはちょっと暗澹たる気分になったりもしたし、新聞とかで上掲の事件のような小学校教師による「強制わいせつ」事件の報道を見るときにはそいつのことなんじゃないかと、思わず容疑者の名前とか年齢とかをチェックしてしまうということが数年間続いたのだった。因みに、そいつは京都ではないけれど、関西出身。
さて、この事件に対する検察側の「求刑」については、前田恒彦という元検事の人が

検察の求刑が低くすぎます。確かに、昨年6月の刑法改正で性犯罪の厳罰化が図られたものの、強制わいせつ罪の最高刑は懲役10年のままで引き上げられませんでした。それでも、被告人は複数の強制わいせつ事件で併せて起訴されているので、その1.5倍である懲役15年が最高刑となります。せめて、この求刑でよかったのではないでしょうか。

なお、被告人の実名が伏せられていますが、これは被告人のためではなく、被害児童やその保護者らのためです。というのも、もし被告人の実名が明らかになれば、どこの学校やクラスを担当した講師だったのかが分かり、被害児童が誰なのか特定されたり、変なうわさが立ったりするおそれがあるからです。被害児童の保護者らも、公表を望んでいません。

というコメントを寄せている。
求刑の軽重はともかくとして、行刑の意味を考えることは無意味ではないだろう。刑罰とは何なのか。刑罰というのは、悪いことをした代価を様々な苦痛、例えば懲役刑の場合だと監禁による自由の喪失と強制労働によって支払うことだと一応は言えるだろうか。ただ、犯罪者に苦痛を与えることによって、社会は幾らかでも平和で安全な場所になるのかということも考えなければならない。勿論、受刑者には自らの行為に対する真摯な反省が期待されているわけだが、ほんとうに反省したのかどうかということなんか、外側からわからないのではないか。或いは、人並みに頭のいい犯罪者なら、しおらしく反省した素振りを上手にするだろう。また、特に性犯罪者では反省するどころか、社会一般や被害者に対するルサンティマンを増殖させつつ出所するということも少なくないのでは? この場合、刑罰によってより危険な人間になったともいえる。また、性犯罪のような欲望に関わる犯罪の場合、反省していても、ついやってしまうということもあるだろう。世間でも刑務所の矯正能力に対する信頼が低いのでは? こうした事件が起こるたびに出てくる刑罰が軽すぎるという声はそれを反映している。できる限りシャバには戻すなというわけだ。何が言いたいのかといえば、刑の軽重ではなく、有効で具体的な矯正のプログラムを問うべきなのではないということだ。また、社会がペドフィリアと如何に関わっていくのかということも。

『大江健三郎 作家自身を語る』

大江健三郎 作家自身を語る (新潮文庫)

大江健三郎 作家自身を語る (新潮文庫)

昨年末に大江健三郎、尾崎真理子『大江健三郎 作家自身を語る』を読了。


第1章 詩 
     初めての小説作品 
     卒業論文
第2章 「奇妙な仕事」
     初期短篇  
     『叫び声』
     『ヒロシマ・ノート』
     『個人的な体験』
第3章 『万延元年のフットボール
     『みずから我が涙をぬぐいたまう日』
     『洪水はわが魂に及び』
     『同時代ゲーム
     『M/Tと森のフシギの物語』
第4章 『「雨の木」を聴く女たち』
     『人生の親戚』
     『静かな生活』
     『治療塔』
     『新しい人よ眼ざめよ』
第5章 『懐かしい年への手紙』
     『燃えあがる緑の木』三部作
     『宙返り』
第6章 「おかしな二人組」三部作
     『二百年の子供』
第7章 『美しいアナベル・リー』
     『水死』
     『晩年様式集』

大江健三郎、106の質問に立ち向かう+α


あとがき
文庫本のためのあとがき

インタヴュアの尾崎真理子さんは、読売新聞記者として、 『二百年の子供』*1が『読売新聞』に連載されたときに担当の編集者をしていた人。ほかにも、瀬戸内寂聴へのインタヴュー本をものしているのか。ところで、大江健三郎が左翼でありながら朝日よりも読売に親近感を持っているのは、本多勝一効果ということでよいのだろうか(Cf. pp.184-185)。
二百年の子供 (中公文庫)

二百年の子供 (中公文庫)

先週、「無印良品」で薄い本を買った。

巫仁恕『奢侈的女人 明清時期江南婦女的消費文化』商務印書館、2016


自序


緒論
明清奢侈消費的風気
婦女的奢侈消費
妓女與奢侈消費
男性的批評
代結論:婦女奢侈消費的歴史作用


参考書目

    

「イニシエーション」問題

「呪い」を解く (文春文庫)

「呪い」を解く (文春文庫)

昨年の終わりに、偶々オウム真理教或いは麻原彰晃の問題について言及したのだが*1、この問題については、「麻原は、ヨガの先生としては大したもので、なにがしかカンの鋭いところもあり、ヨガの指導をされながら、時々おもしろいはなしを聞かされると、ファンになってしまう人が出るのはわかるのですが」(id:nsssko)ということも含めて、鎌田東二『「呪い」を解く』*2の一読をお薦め。鎌田さんも充分に妖しい人なのだけど、そのくらいの妖しさがなければオウムや麻原に太刀打ちできないというのもまた事実だろう。
本のメインのラインからは少し外れた箇所をメモしておく;


麻原は、”イニシエーション”なき戦後社会の精神の空洞化と空隙を縫って、「最終解脱者」という人間完成の最高モデルを提示し、そこに至る階梯と修行法を明示した。そしてそれを世界救済計画と結びつけることによって、現実社会に適応できず、そこにおける矛盾や悪に嫌悪や反感を抱く若者の心を捉えた。その「修行」や「日本シャンバラ化計画」は、理想を失い、人格完成のモデルを持たない、生き甲斐も自己の存在理由や存在価値も見出せない若者の心を惹きつけた。
この麻原の宣教活動や布教計画は、「自己否定」や「自己批判」に明け暮れて「体制破壊」に過激にのめり込んだ全共闘運動や新左翼運動の挫折の後のアパシー(無気力)状況に確実に響き、反応を引き出した。それは。「自己否定」から「自己肯定」へと「自分探し」に向かう若者の精神世界に一瞬光明をもたらすように映ったのだ。それはまったく錯覚だったのだけれども。
この「教祖化」や「カリスマ化」の恐ろしさと問題点を見抜き、「妄想」と「真理」の境界を柔軟に往来できる知性と慈悲心を育てなければ、世界に、妄想的な正義感に基づく残虐な暴力と戦争とテロリズムが止むことはないだろう。(p.11)

わたしは、麻原彰晃オウム真理教が突きつけた「イニシエーション」の問題は、現代社会にとって決定的に重要な問題であったと思っている。確かに、多くの若者がオウム真理教に引き込まれた理由は、超能力の獲得というマッチョ的な願望もあったであろうが、それ以上に、オウム真理教ほど明確にイニシエーションの重要性を訴えかけた教団はなかったことが教勢拡大の最大の原因だったと思う。麻原は、「超能力」の獲得から「解脱」に至るプロセスを「イニシエーション」の全体構造の中に位置づけ、実に巧みにチャート的なわかりやすさをもって、誘惑的に進化ステージのプログラムを開示したのである。
実際、戦後日本社会に決定的に欠落していたのは、このイニシエーションの問題だった。子どもが大人になるということ、そして一個の人格が理想的な形態に向上・成長し、返信・変容していくことについて、戦後社会は完全にモデルと方法を喪失し、”イニシエーションなき社会”になってしまったのだ。
オウム真理教は、この”イニシエーションなき社会”の中で間隙を縫って、唯一明確に、”イニシエーション”の可能性と重要を説き、良くも悪しくも、すべての価値が相対化されつつある時代の中で、最高の理想型としての「最終解脱者」のモデルを提示したのである。そしてそれが可能になる「修行」のプロセスとそれに至る「データ」処理の仕方を明示し、「解脱」への道を疑似科学的にアピールした。また、生存の意味と価値、生と死、また生死を超える世界観を説いた。道を求める若者に麻原が魅力的に映ったのは、間違いなくそれが実効性のある言説とプログラムだと感じとれ、麻原はその体現者であると思えたからであろう。(pp.11-12)

Amakasu on YG

贅沢は敵か

贅沢は敵か

引越しの準備ということで*1、家の中の物たちを段ボール箱に詰めたりしている。しかし、存在さえ忘れていた本とかをついつい読み耽ったりしている。甘糟りり子*2『贅沢は敵か』(新潮社、2001)を見つけた。甘糟さんの本を買ったという記憶は全くないので、多分妻が買ったのだろう。この本の第5部は「平凡通信」と題して、『BRUTUS』に連載されていたものなので、連載当時に読んだものも少なくない。その中で、これは読んだ記憶はないのだけれど、くすくす笑いながら読んでしまった。2000年4月頃の文章;


プロ野球は開幕したけれど……読売ジャイアンツ、この奇妙な集団」(pp.249-252)


曰く、


ルイ・ヴィトンのバッグばかり欲しがる女の子は、けれどマーク・ジェイコブスが誰なのか知らない。SMAPってかわいい! という女性は、でも、彼らのCDを1枚を持っていない。ぴかぴかに磨いたメルセデスのオーナーは、しかし、スポーツカーにはほとんど興味を示さない。
ジャイアンツを応援しているという人々の多くは、ピッチャーの上原をフルネームで言えないし、インフィールドフライがなんだか判らない。だって、あんまり野球を観ないから。そう、彼ら彼女らは、野球ファンじゃなくて、ジャイアンツ・ファンなのだ。ちなみに上原の名前は浩治で、インフィールドフライは無死または一死、1、2塁あるいは満塁の際の内野フライを守備側に故意に落球させないルールのことである。
世の中はそんなジャイアンツ・ファンで溢れている。たいして野球に関心はないけれど、ジャイアンツが勝てば世の中的になんとなくうまくいっている気分になれるし、というような。特に野球ファンでもジャイアンツ・ファンでもない私には、まったく理解できない。あのひと昔前のパジャマみたいなユニフォームに身を包んだ軍団の、どこがそんなに魅力なのか?(p.249)
長嶋茂雄*3について(このテクストが発表されたのはまだ長嶋茂雄監督の時代);

インフルエンザをインフレ、背番号をバックナンバーといってしまったり、60歳の誕生日を「最初の還暦」と表現するのは、まあただの笑い話にできても、バントのポーズを取りながら審判に代打を告げ、その通りバントさせて案の定失敗するなんて、現実にプロ野球で起こることか?
けれど、ジャイアンツ・ファンのいい分は、長嶋だから許される。この一点張り。ジャイアンツが優勝するために長嶋が必要なんじゃなく、長嶋が喜ぶからジャイアンツが優勝してほしい、とでもいいたげだ。さらには、長嶋は勝敗に関係ないオーナーにしたらどうかという声もある。
ジャイアンツ・ファンにとって長嶋とは、つまり天皇なのだ。神聖不可侵。あいまいな象徴。存在することに意味がある、ということは、人々はなんのために存在しているのか、深く考えようとしない。湯水のように金を使っても誰も文句をいわないところだけは、あちらと正反対。開幕戦のSMAPで一番歌唱力が不安定な中居くんによる国歌斉唱*4が、耳に残っている。(p.251)
巨人の戦力補強の成果を「ゴルフクラブ」に喩えて「普通14本のクラブを、今年は28本使うようなもの」と誇示した渡辺恒雄(ibid.)を踏まえて;

ジャイアンツの戦力を私なりにたとえるななら、成り金のおばさんだ。プラダジル・サンダーエルメスもヴィトンもディオールも、とりあえず全部買ってみたけど、どれとどれをあわせてよいのか判らない。中にはサイズが入らないものもあったりして。だから、余計に他人のブランド物がよく見える。28本のクラブを、着きれないほどのブランド物を持っていて、それでも優勝できなかったら、今度は何を買うのだろうか。(p.252)
ところで、巨人を追放されていた1980年代、長嶋茂雄は反=文化的な英雄としてポストモダンなオーラを付与されていたのだった。