確率論的問題

教育学入門 (子どもと教育)

教育学入門 (子どもと教育)

藤田英典「学校と社会」(in 藤田英典、田中孝彦、寺崎弘昭『教育学入門』*1岩波書店、1997、pp.1-83)


1990年代から21世紀初頭の日本の教育界を席捲した所謂〈ゆとり教育〉の背景には「新しい学力観」があった。そこには、学校で教える知識は常に増大し続けている社会全体の知識のストックの一部でしかないという事実に由来する〈確率論的問題〉が関係している。社会的な知識量は無限に増える可能性があるけど、授業時間には限界がある。


ところで、国際化や情報化の進展、科学技術の発展、社会生活の多様化と複雑化、さらには歴史の展開は、学校で伝達される可能性のある知識のプールを拡大することになります。したがって実際に伝達される知識の総量が一定であるなら、個々の知識が選ばれる確率(抽出率)は低下することになり、その分、抽出された知識の代表性、適切性が低下する危険性が高まることになります。むろん学校で教えられる知識量も増えてはいますが、それでも社会に流通する知識の増加のほうがはるかに大きいから、抽出率が低下することに違いはありません。さらに、生活様式や価値観が多様化するということは、興味や関心の多様化、必要とされる知識の多様化が進むということにほかならないから、抽出された知識の有用性・適切性が低下する危険性も高まることになります。言いかえれば、学習者にとって、無意味に感じられる要素、違和感を感じる要素が増える可能性が高まることになります。さらに中学・高校段階では、受験競争の下での教育内容の矮小化が、この傾向に拍車をかけることになります。(pp.51-52)

このように、社会に存在する知識の総量が多ければ多いほど、学校で何を教えるかという問題は難しい課題となってきます。そして、この点に、膨大な具体的知識を教えるよりも、その背後にある原理や考え方・学び方を教えることが重視される一つの基盤があります。知識の詰込みではなくて、〈理解し考える力〉〈自ら学ぶ力〉の育成が重要だと主張される基盤があります。もちろん、こうした考え方は知識量の増大という事態に基盤を持つだけでなく、もう一方で、学習それ自体の捉え方や、子どもの個性や自主性や自由を重視する教育観からも主張されるものであることは、言うまでもありません。(p.52)
狭義の「ゆとり教育」は既に打ち捨てられたわけだけど、例えば「アクティヴ・ラーニング」*2の主張の「基盤」も同様であろう。