「笑っている」

子どもと悪 (今ここに生きる子ども)

子どもと悪 (今ここに生きる子ども)

河合隼雄『子どもと悪』*1から。


子どもがニコニコ笑っているのは歓迎される。しかし、子どもが小学生以上になると、笑いがいつも歓迎されるとは限らない。笑って叱られることもよくある。
私は子ども時代を思い出すと、先生に叱られたので一番多いのは、笑ったか、周囲の者を笑わせたかである。その原因のひとつは、私の子ども時代は厳粛な式が実に多かった。それは軍閥の方針でもあった。出征兵士を送ったり、遺骨を迎えたり、ともかく式が多かった。そして、そんなときに笑うのは、「悪」の最たるものであった。しかし、困ったことにそんなときに限って、何か笑うべきことが起こる。あるいは、ついいたずら気を起こして周囲の者が噴き出すような駄洒落などをささやきたくなる。というわけで、私はよく怒られた。中学生の頃は、「笑う門には、フグ来る」などと言っていた、笑うと必ず大人のふくれっ面を見ることになるからである。(pp.121-122)

教師として教壇に立っていて不愉快に感じるのは、生徒が何かわからないことでクスクス笑っていることではなかろうか。ほとんどの教師が「笑うな」とか「なぜ笑っている」とかは注意する。それは、ひょっとして自分のことを笑っているのではないかという不安にも通じるからであるが、ともかく、「笑う」ということは、教師の権威をないがしろにしていると感じられるからではないだろうか。(p.122)
これは「笑い」に限らず、何を言われているのかわからないという「不安」ということでは? (排外主義の端緒である)外国語に対する不安も、何をいっているのかわからない不安であるといえる。