世代を幾つか飛び越し?

渡邉裕二*1石原裕次郎のファンだった?麻原彰晃のエピソード」http://blogos.com/article/310349/


前半部では、TBSが1989年10月に坂本堤弁護士へのインタヴュー映像をオウム真理教側の圧力に屈して放送前に見せてしまったこと、そしてその事実を地下鉄サリン事件、麻原逮捕の後の1996年まで否認し続けていたことが言及されている*2
石原裕次郎*3が登場するのは後半部。


オウム真理教といえば、必ず耳にする?オウムソング?があった。最もポピュラーなのが「尊師マーチ」だろうが、実は、この作品のレコーディングは杉並・堀ノ内にあったテイチクの杉並スタジオ(グリーンバード杉並)で行われたと言う。

「麻原は音楽が好きで、教団のアピールには、さまざまな歌や音楽が使われてきたんです。中心に動いていたのは幹部の石井伸一郎氏だったのですが、レコーディングにテイチクの杉並スタジオが使われたのは、麻原が石原裕次郎の大ファンだったからなんです」(当時を知る音楽関係者)。

目の見えない麻原が「太陽にほえろ!」とか「大都会」、あるいは「西部警察」を観ていたとは思えないが、石原裕次郎の歌はお気に入りだったという。

「言うまでもなく裕次郎さんはテイチクの専属歌手で、そのレコーディングでは、この杉並スタジオを利用していたんです。教団の信者は、そう言った情報を、どこかで聞きつけてきたんでしょうね。で、レコーディング先として杉並のスタジオを麻原に提案したようなんです。レコーディングは裕次郎さんも使っていた第一スタジオで行ったようですが、テーブルやソファーに触れながら『ここが、あの…』なんて言いながら麻原は大感激だったといいます」。

しかも、この話には後日談があって「石原裕次郎と同じスタジオでレコーディングする」ことだけが目的だっただけに、楽曲のマスターテープは「カセットテープにダビングしたのでいらない」と言ってスタジオを出ていたという。

先ず、麻原の視力の問題はけっこう重要で、どのように衰えていって、何時頃全盲になったかということは、麻原の思想や教団の犯罪の変化と密接に関係しているのではないかと思う。
麻原って、世代で言うと、私たち〈浩宮世代〉*4団塊の世代(オウム幹部で言えば、早川紀代秀の世代)との中間。麻原が秋吉久美子のファンだったと発言したときは、世代の問題として自然なことだと思った。秋吉さんのファンというのは基本的に、団塊の世代から我々〈浩宮世代〉までくらいじゃないかな。私もファンだったし。しかし、「石原裕次郎」というと、かなりの違和感を感じる。1991年の「いとしのレイラ」*5と同様な違和感。自分の世代で石原裕次郎のファンというのは聞いたことがなかったし、団塊の世代に聞いても、裕次郎のファンというのは自分たちよりも一代前の60年安保世代でしょ、というのでは? 70年代から80年代にかけて、『太陽にほえろ』を初めとする石原プロモーションのドラマは、裕次郎を中心に見せるものとして作られてはいなかった。1970年代の後半に、TVで、金田正一大島渚と誰かの鼎談番組をやっていて、金田正一が『太陽にほえろ』の石原裕次郎のように偶に登場して手短に説教をかましてさっさといなくなるというのが父親や上司たる者の理想だというような発言をして、大島渚も肯いていたということがあった。何が言いたいのかというと、麻原の世代の人間が石原裕次郎のファンになるというのはかなりおっさんくさいことだったわけだ。そうすると、誰の影響なのかということが問題になる。ただ、麻原は子ども時代から思春期にかけて、全寮制の盲学校で過ごしており、家族(親戚)や世間の大人からは隔離されていた筈。