翻訳のススメ

しんざき*1「「作文が書けない子」に本当に必要な訓練の話」https://blog.tinect.jp/?p=53494



曰く、


ちょっと根本的な話をします。

「書く」という行為には、大きく「発想」と「表現」という二つのプロセスがあります。

つまり、

・何を書きたいのかを考える

・考えた内容を言葉に落とす

という段階を経なくてはいけない。これに例外はありません。どんな文章でも、必ず、例外なく、この二つのステップを踏んでいます。


ところで、「表現」の方はどうでしょうか。我々は、「何を書きたいか」ということが決まった時、何の障害もなく、すらすらとそれを文章に書き出すことが出来るでしょうか?

勿論のこと、それがすらすらと出来る人、出来る子というのはいます。

考えることを、考える時間とそれ程変わらない速度で、がーーっと文章に出来る人もいます。お前ライターマシンかよってくらい手が速い人もいます。すごいですよね、ああいう人たち。

ただ、それは、「表現」という処理回路が、すでに頭の中に確立されているからこそ出来ることです。

考えたことを言葉に直す、適切な言葉と言葉の繋がりを想定してテキスト化する、そういう仕組みが既に脳内に出来ている。

その為には、ある程度の慣れと訓練が必要です。

そして、この「表現」という回路、それをきちんと訓練することこそが、本当に大事で、本当に必要で、なのに今現在全く不足していることなんじゃないかなあ、と、私はそんな風に思うのです。


実際、文章力を鍛えるとか、作文を書くとかのノウハウ本を見ても、「発想」に偏っていて「表現」の話はさらっとしか書いていない、もしくは全く触れられていないことが多いです。

なんなら学校教育でも、「表現」は出来ている前提で、「発想」の話をしていることが結構頻繁に観測出来ます。

これは伝統的な美学とか文学理論では、内容/形式の問題として論じられてきたことだろう。また、シニフィエシニフィアンのペア*2にも通じる話であろう。まあ、近代社会の主流の言語観では、内容こそが重要で、「表現」というのは内容を伝えるためのたんなる手段だということになっており、「表現」に拘ることは、形式主義、衒学趣味として非難される。
話を戻すと、

考えを言葉に落とす為には、そもそも言葉を知らなくてはいけません。

文章にする為には、言葉と言葉の類例にたくさん触れなくてはいけませんし、その類例を学ばなくてはいけません。

小中学校には、その根本、「言葉の類例を学ぶ」時点で躓いている子が、実のところたくさんいるのです。

そのために、著者は本をひたすら「模写」させることをことを提唱する。まあ、書かないまでも、(「言葉の類例」としての)本をひたすら大量に読ませることでも効果はあると思うのだけど。
さて、「発想」はあっても「表現」ができないというのは、子どもだけの問題じゃない。「表現」力を向上させることを課題としている人は少なくないと思う。そこで、お薦めしたいのは、翻訳という経験をすること。翻訳において、ここでいう意味での「発想」は全く問題にならない。「表現」が全てである。というか、「発想」は(例えば)英語の原文として既に与えられており、訳者が精力を傾けるのはそれを如何にして(例えば)日本語で「表現」するのかということである。
上で、或る種の言語観に反発しているということを書いた。さらに言えば、順番においても価値においても、「表現」(「言葉」)の方が優位に立つと言ってしまいたい気もする。先ず(音にせよ字面にせよ)言葉が浮かんで、その言葉に内容的なものが惹き付けられてくるという経験を日常的にしている人は少なくない筈。また、これとは話がちょっとずれるけれど、思考の調子がいいときには、内容とかより先にギャグを思いつくことが多い。内容はギャグについてくる。