正義感からの行動について・続

id:swan_slabさんが本宮ひろ志氏の「国が燃える」休載へ 集英社(朝日新聞10月13日)という記事で、既に丁寧に論じていらっしゃいました(すみません、アンテナで拝見しているのですが記事の内容に気づかず見落としていました)。
抗議文の文面、それに対する集英社の回答と事後の対応を紹介したのちに、今回のケースにおけるクレームの在り方・クレームへの対処について妥当性を検討し、さらに今回のケースを少し離れて人間の理性というものについての捉え方、といった構成です。


私はふだん、何か書くときには、おおむね賛成であっても少し違う部分や別の視点について言及するのが有益だと思い、そのようにしています。ですが今回のswan_slabさんの記事は(だいぶ丁寧に書かれていることもあって)私が何か付け加える必要を感じません。

とくに最後の段落「人間理性への信頼の崩壊」は、この件に関心のないかたでも読んで損はないと思います。私も同じ問題意識を共有しています。


あえて何か付け加えるとすれば、〈野蛮な行動の要因が、終局的にはすべての人間に内在する野蛮さに解消されるとしても、論理的には個々のケースについて特有の特徴(同語反復のようですが)が存在するはずで、そこを見極めていくこともおそらく歴史学のテーマなのだろう〉とは思います。ただもちろん、見極めていくことが現在の日本人の野蛮さを刺激することになるならば「政治的」配慮をもって控えることも必要でしょうけれど。

それから、通過儀礼としての戦後処理の合理性という観点からは、ドイツがナチスに責任を負わせたこと、その負わせ方が合理的であることについて以前少しどこかで読み納得したのでこの機会に書きます。


(ドイツがナチスに責任を負わせたこと、その負わせ方が合理的であることについて)簡単に書くと、
ドイツはナチスという特定の団体(とその協力者)にのみ責任を負わせることで責任の所在を明確にし、同時に(必要以上に)国民全体が漠然とした重い罪の意識で参ってしまう事態を避けることができた。これは第一次大戦後のような反動的な優越感(アーリア人至上主義)へ至る危険を避けるという意味でも有用だった。
そして、「ナチスナチスへの協力者」以外の国民が明示的に責任を免れたことで逆に(いや、そうではない。それ以外のドイツ人である私たちも、やはりあの状況について責任があるのだ)という意識を喚起することに成功し、「参ってしまわずに、戦争責任について真摯に謝罪する」ことができた。
結果としてドイツは、ユダヤ人や周辺諸国から過度な怒りや恨みをかわずに、ほどほどに良好な関係を保つことができている、というような構造であるような気がします。

これに対して日本はいわゆる一億総責任論のような、「全員が悪い」というような、経緯や個人の責任を曖昧にする考え方が支配的であるため、「自分は悪くないのに」という反発が常に国内、あるいは一人一人の心中にあり、その結果としてあまり周辺諸国と良好な関係を保てていないということなのかもしれません。

(ドイツがナチスに責任を負わせたこと、その負わせ方が合理的であることについての以上の話は、私が自分の考えで補いながら書いたものなので元の文献からは離れたものになります。)


なんだか書いていて自分の文章がid:swan_slabさんへの批判に読めてしまう気もしてきましたが、そうではありません。

私は、戦争や紛争における虐殺事件を、犯罪者を摘発し罰するといったリスク排除や安心社会システムの問題として理解していない。したがって誰が裁かれようが全く関心がない。おじいさんが懺悔しようが、罰を受けるべきであるとか危険人物としてリスク評価すべきとも思わない。人間の理性はもろく不完全なものであるという人間観を確認する事件として私はとらえる。

私とid:swan_slabさんに違いがあるとすればこの小段落の前半でしょうけれど、これは視点というか光の当て方、レトリックの違いであって考えの違いではないように思います。

犯罪者の摘発・処罰は、「犯罪者の人間性や人格に烙印を押す手段」ではなく、私は「もろく不完全な人間の理性に広く訴えるためにも、ある意味ではやむをえない手段」としてとらえるので、その意味ではシステムの問題かなとも思います。ただ「人間の理性はもろく不完全」という人間観など他の点ではまったく同感です。
あ、今思ったんだけど「リスク排除」や「安心社会システム」という言葉をswan_slabさんは特別予防のニュアンスで使ってらっしゃるのかな。私は一般予防のイメージでとらえていました。


政治的なセレモニーの機能や、国際司法的な機能の観点から見た個々の戦争裁判の合理性など、いろいろ考えてみるとたいへん長くなるのでこのあたりでいったん記事を終えたいと思います。

(「あえて何か付け加えるとすれば」がだいぶ長くなってしまいました、読みづらくてすみません)

 「歴史の歪曲」に対する正義感からの行動、について

山陰中央新報:FLASH24:社会・科学
「南京大虐殺」めぐり抗議 集英社に地方議員グループ

集英社発行の「週刊ヤングジャンプ」で連載されている本宮ひろ志氏作の漫画「国が燃える」で描かれた南京大虐殺について、地方議員グループが「あたかも真実として漫画化している。歴史を歪曲(わいきょく)している」として集英社や本宮氏らに抗議したことが8日、分かった。

この件に関する反応のまとめがhotsumaのURLメモ。の、[Web] 「南京大虐殺」めぐり、地方議員グループが集英社に抗議。[Web] 「国が燃える」続き。[Web] 浅羽通明と小林よしのりの対談。にあります。簡単な引用もなされているので、ちょっと見てみてください。


id:hotsumaさんの上のページで知った、小林よしのりと浅羽通明のこの件についての認識小林よしのり浅羽通明の講義に招かれた際の様子をid:gryphonさんがメモされたもの)から私も少し引用します。

本宮ひろ志南京大虐殺の描写で抗議を受けて、書き直すことになったらしい。

もともと本宮は商売だけでしか描いてない。(これは何にも悪いことではない、商売に完全に徹するというのは凄く偉大なことと二人は口をそろえる)

わしが慰安婦の問題を描いたときは40数団体から抗議が来たが、今は左が攻撃を受けるようになってる。ひじょうにせこいことをするなあという印象。どうしておれはこんな人々を(ゴー宣で)育てたのだろう」

個々人で各方面のネット掲示板やメール、デモ・電話等の抗議行動に精を出されました“日本人の心を持つ”全国の皆様方[Web] 「南京大虐殺」めぐり、地方議員グループが集英社に抗議。参照)は、おそらく「小林よしのりも所詮○○だな」みたいに思うのでしょうね。(○○は適当に何かあてはめてみてください。)


ターゲットにされたくないので、私はこれ以上コメントしないでおきます。


あ、でも小林よしのりどうしておれはこんな人々を(ゴー宣で)育てたのだろうというのに対して何か応答するとすれば、
小林よしのりは、(悪い意味で)左翼的な思想が日本を支配していると思ったから、それに対して「それは違うんじゃないか」と声を上げた。
ところが、「それは違うんじゃないか」という思いを抱えた人が、じつは小林の予想以上にはるかに多く……やっぱ危険だこの話題。


過去の事実の客観的な真偽は別として、このように、ことの当否について自由に発言できない雰囲気ができていくことそれ自体が恐ろしい。集英社はそのリスクを見くびっていたということなのでしょうね。それにしても……。

 『はてしないメモばかり』(わかりにくいだじゃれ)

メモ

  • トリアージの必要は緊急時だけでない
  • しかし基準は知りえない、無びゅうせいは不可能(コミュニズムや計画経済の構造的限界もそこにあるか)
  • だからそれぞれが好き勝手に自分の関心のある分野に取り組むしかないしそれでよい、それがよい(イラクダルフール、農政など「正義」の実現でも。また経済活動も。神の見えざる手、円滑さ)
  • ここまでが大筋で今までの理解
  • しかし、べき乗の法則(よかれあしかれ、関心やリソースは片寄っていく)
  • そしてネットはむしろ片寄りを加速する。と以前読んだ。情報の偏在が遍在になる→人々の関心にばらつきが減ってくる→同じ方向になだれを打つ(さまざまな要因がある。情報過多・自由からの逃走、ランキング志向。逆にほうがんびいきという普遍的心理もルサンチマンとして要因に)
  • やはり現実にはなんらかのトリアージの基準が求められてしまう(良い悪いを抜きにして、実態の観察としては)。高度情報流通社会になればこそ余計に。また、自由からの逃走から連想でいうと、思想的にも人はなんらかの絶対的基準(←響きは悪いが、普遍性のある基準)を求めてしまう。
  • 絶対的基準など知り得ないことを思い知った(太平洋戦争やバブル崩壊の挫折)からこそ、屈折し、自分だけのものという方向にいくが、結局求めるものは「自分だけの『絶対的なもの』」「『絶対にかけがえのない』自分らしさ」になる。
  • それを守るために、中村うさぎの大意「整形したらブスは医者のせいだから、自分らしさ取り戻せた」発言、朝日新聞にて。むしろ顔を自分らしさから切り離し外在化することでコアな部分を守ったのでは。cf.トカゲのしっぽ切り
  • しかし顔や属性への評価と、「自分という存在の価値」を直結させ苦しんでいる人は多い。
  • その現れとしては、整形と同じベクトルが身体改造、逆のベクトルだが同じ現れが自傷かな


話題飛びすぎなのでいったん終了。箇条書きメモ、楽〜。


結論としては「だからこそよりよいものを押し上げていく必要がある、べき乗の法則をことさらに忌避せずにその土俵で」みたいな感じだったのに。話それまくり。