血液型・星座についての記事への反響(お詫びとお礼と補足)

 id:bmpさんの記事に触発を受けて私が書きはじめた一連の記事に、意外なほど大きな反響をいただきました。

bmpさんの記事について私が書いた意図については、既に[Web][雑記] 規制の必要と自由と責任などで書いた通りです。ただbmpさんは私の

「抗議する人が番組の内容を馬鹿正直に真に受けている」というよりも、「馬鹿正直に真に受ける人が実際に多いから、もう少し内容に気をつけて欲しいという抗議が来る」のだと思う。だから抗議は方向性として妥当なんじゃないかな。

 という批判をご自分への人格非難だと感じ、またその他のいわば「偽善的な」表現にもたいへん不愉快にお感じになったようで、その後も「ペッペッ」「短絡的な善意にも限度がある、いい加減にしてくれ。」「似非キリスト教信者的」などと繰り返してらっしゃいます。そのようなことを書くほどbmpさんを不愉快にさせてしまった点、お詫びします。ご迷惑をおかけしました。
 他の点については私の主張とは違う主張への批判だと考えています。


 結果として多くの方の参考になったことは嬉しく思います。時間的な問題もありますが、ここでいったん他の読者のためにも資料としてのせておきます。

[と] カルト資本主義 [*1] 時代の交通警察国立でむぱ研究室櫻分室

 徳島県警・北海道警のページ、あるある大事典の内容紹介のページ、ブログでの反応と統計的分析(「検定」)の紹介。[*1]は「*1:斉藤貴男 文春文庫」と注が。

 なお、紹介されている私の記事のうち[Web][雑記] 「普通」って言い方はたしかにまずかったなは、[Web][雑記] 逆リンク!(←一度言ってみたかった)日記ちょうから再び反応があったことを受けて書いたものです。

 なので、もし意図的に外しているのでなければ[Web][雑記] 逆リンク!(←一度言ってみたかった)も、[と] カルト資本主義 [*1] 時代の交通警察に掲載してくださった方が、流れが分かりやすいとは思います。どちらでもかまいません。

[link] [*2]国立でむぱ研究室櫻分室

 心理学者や「と学会」の立場から血液型性格診断、超常現象、批判的思考力などに触れてあるページ・本の紹介。*2は「*2:id:summercontrail ほか より」と注。

血液型性格分類とメディアリテラシー [ブログ時評02]ブログ時評

 blogWatcherを用いてブログでの好悪の表現の割合をグラフで見たあと、いくつかのブログを拾って議論の全体を概観している。

 日本人の情報の受け止め方をメディアリテラシーの面でも考えている「夏のひこうき雲」の「血液型と星座と疑似科学、統計の『ウソ』、情報リテラシー」徳島県警「星座別に見た交通事故の特徴」を見つけて疑問を投げる。
(中略)
それでも数字として示されると納得してしまうのは、問題になっている血液型特集番組でも同じ。

 日本人の情報の受け止め方をメディアリテラシーの面でも考えているなるほど、そう言われてみてそうかなと思いました。(ブログ時評はいま別件であちこちから団藤さんの意見の当否と人格が一緒くたに批判されているので、訪問なさる方はそのようなものを目にするリスクに留意して訪問してください)

警察は星占いが大好き論駄な日々

 徳島県警のページについてたくさんのブログで素直な反応ばかり。でも、はっきり言って、この調査は「クズ・ゴミ」の部類に入ります。統計学的な分析(「カイ2乗検定」)を加え、有意差なしであるという結論を紹介したうえで、数字らしきものがほとんどなくよりたちが悪い北海道警のサイトを紹介。そして、

たはー。こうした調査に対し、いかに立ち向かうべきか。啓蒙をすべきか。無視すべきか。ネタとして遊ぶべきか…… 「夏のひこうき雲」さんの「血液型性格診断と徳島県警の星座のページについて、bmpさんとのお話に関する一応のまとめ」の記事は、わたし自身の自問自答をまとめてくれているようでした。ごくろうさまです。

 ありがとうございます。

おまけ2つ

私のこの件に関する最初の記事

この徳島県警のページについて批判的にとりあげているところが今まで見あたらないこともあり、例として書いておきます。

 というくだりに対して、

JAPAN SKEPTICS(『超自然現象』を批判的・科学的に究明する会)の心理分科委員会のサイト内の、星座と交通事故というページをid:papersearcherさんからその日のコメント欄で教えていただきました。

 星座と交通事故は、統計学的に有意かどうかをかなり厳密な手法で調べているようです(県警の意図とは一応別の話ですね)。カイ2乗検定では、実際に得られたデータ(実測値)と、違いがないとしたときに予想される値(理論値)の比較を行い、そのずれが一定の数値以上であれば、違いは偶然ではなく、統計的に有意であると結論します。なるほど、そういう考え方で有意かどうかをはかるのか。


 また、id:mutronixさんとのコメント欄での対話が途中で申し訳ないのですが、
http://d.hatena.ne.jp/mutronix/comment?date=20041201#c
http://d.hatena.ne.jp/mutronix/comment?date=20041204#c
 などに述べられているmutronixさんの問題意識は、今回の話題から離れた話としても有意義だと思うのでぜひご覧ください。
 理解不能な考えを持つ人、あるいは自分から見て不合理な言説を信奉する人に対してどう接するべきか。何かの権威をふりかざして頭ごなしに否定しても(たとえそれが「科学」であっても)、それは相手には届きづらい。論理をひとつひとつ積み上げて反論しても、その論理が通じない場合もある。
 まずその「通じにくさ」を前提として考え、それでもひとりの人間対人間として向き合わなければならないことの困難さを自覚しなければならない。[murmur]SF的/ハードボイルド的というmutronixさんの記事の表現を借りれば、笑うよりもまず畏怖するべきなんじゃないのか。まったくその通りです。


 私は害悪が無視できない場合には、あらゆる角度からその「通じにくさ」あるいは断絶を乗り越える努力がなされるべきだし、また可能だと思っています。今回は主に、地上波(無線)テレビ局という、(電波の有限性と影響力の大きさゆえに)一種の社会的権力として最低限の公正さが担保されるべき(放送法-Wikipedia参照)機関、および県警という公共機関、その二者の責任と自覚を問う方向から書いていました(このテレビ局への視点と、差別的言論への対抗言論の困難さという視点以外は、id:jounoさんがbmpさんのコメント欄で書いていらした考えに同意します)。
 が、最終的には、ある特定の生身の人間との関係において、(以下またmutronixさんの表現を借りますが)自分のひとりの人間としての〈〉、あるいは〈誠〉が問われるんですよね。そのことから逃げてはいけない、というよりも全員が常に直面している。そのことに気づいておきたいなと改めて考える機会を与えられました。