web拍手の不調と私のメールの宛先

 今web拍手が不調のようなので、ありがたくもweb拍手経由で短いメッセージを送ってくださっているかたはメールフォームで……と書きかけて、どうやらメールフォームをいま公開していないことに気がついた。なんだ、「はじめに」かprofileあたりに公開してると思ってた。

 いろいろ考えるのが面倒なのでアドレス載せちゃうけど、私のメールアドレスは、summercontrailのあとにアットマーク(半角の「@」)をつけ、そのあとにyahoo.co.jpです。どうぞよしなに(不思議なボディランゲージとともに)

 言葉が文脈を離れて他の人をも傷つける道具にされていくということ

 http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050217#cに以下のようにコメントしました。

finalventさんこんにちは。ニューエージや道徳のお話、興味深く拝読しなるほどと思いました。生身の存在としてほかならぬ自分がまさにこの世界と関わっていくという点で、道徳と身体性のお話はつながるかもと思いました。よくわかりませんが実存っていうやつでしょうか。考えるヒントのそのくだりもずっと心に残っています。
 ただ『「人種、性別、信仰にかかわらず」と言う人間は歴史に所属していません。』とのこと、ここは文脈に依存するのかもしれませんが、「〜にかかわらず」とあえて言うべき場面もまた存在するのではないかと。JANJANの記事の論調はアレですが、何らかの理念を大事にすること・およそ理を立てることをすべてひっくるめて嘘くさいと言ってしまっているように読まれてしまうと、そのお言葉が一人歩きして、自分の悪事を正当化するために他人をくさして受け売りでそううそぶく人や、不当な偏見で「嘘くさい」と罵られて傷つく人も出るのではないかと感じました(なんか読みにくい文章ですみません)。
 私などはネットでは、そうやって嘘くさいと言われてしまうことが多いので……まあ実際そういう罵倒がふさわしい人間かもしれないので、最近はめっきりものを書かなくなりました。それでも、(たとえば個人の良心として)否を発すべき事柄もあるようにも思うし、「悪」を「正しく」憎むということは必要なような気もしています(このあたりはfinalventさんとそう違いはないとも思うのですが)。』

 で、id:finalventさんから頂いたコメントを全文引用するのは気が引けるので、興味のあるかたは上のリンク先から直接読んでいただくとして。(別の日に投稿してしまったみたいとおっしゃるレスを探しても見つかりませんでしたが、読んでみたかったな。)


 少し振り返って考えると、この「夏のひこうき雲」で活発な、しかもしんどいやりとりがつづいたときというのはたいてい上のコメントのような問題意識から他のかたの言葉に私が反応した場合。なんというか、うーん。
 ずっと読んでくださっているかたはわかると思うのですが、もう一度言語化?を試みると。紳助暴力事件のときも、血液型の話題のときも、「自分の言葉がその意図を離れて社会においてどのように作用するか」についてもう少し考えて欲しいと思ったのでした。(ただしその意味で今回のfinalventさんを非難するような意図はありません。)

 たとえば……みかじめ料を取るやくざや、株主総会屋、児童買春をする人がどのようなことをいうか。「堅苦しい理屈を言うともてないぞ」「暴力をふるったわけじゃない、相手も納得している」「他人を見下しやがって、馬鹿にしやがって」「お前はきれいごとを言ってるから偽善者だ」
 そういう人たちが、「若いうちは やりたいこと なんでもでっきるの〜さ〜♪」「やりたいことやったもん勝ち 青春なら」といった歌の歌詞みたいなことを信じようとしている。そういう人たちをさらに悪のりさせるようなことにつながらないだろうか。

 もちろん形式的な建前によって上から抑圧され、解放を切実に必要としている人たちもいる。そういう人たちが、上のような「ワル」にひかれていく。

 原理から考えるのではなく、友愛、つまり、理念の共有の語りかけから考えたらいいのではというときに、それが可能か、と考えると、ちょっと生身の人間としては困難な場合もあるかなあと。相手も悪いことをしているという引け目を感じているから、逆上してしまいやすいし、逆上するとものすごい手段に出る。それがわかっているから配慮すると、それに対してまた「馬鹿にしている」と激怒。

 finalventさんにいちゃもんをつけるわけではなく、他の読み手のために説明として書くのですが、たとえば、「ザルカウィが目の前にいて殺せるなら自分は殺す」との旨どこかでおっしゃっていたfinalventさんが、ザルカウィをあくまで説得することを選択させようというお考えでもないと思うんですよね。

 私以外でも、「およそ正義など考えるのがほんとうに迷惑」「格好つけたことを書いているのは偽善だ」といった言葉をぶつけられて参ってしまった人を知っています。そういう怨嗟に満ちて他人を罵りコントロールしようとするような言説を助長する言葉は、避けたほうがいいんじゃないかというのが私の考えです。

 で、過度に言葉に厳密であれと言いたいのではありませんが、たとえば正しく生きようとすることは間違っていない。独善的な正義をふりかざして他人を断罪することが間違っている。そういった些細だが重大な違いを曖昧にしないことが大事ではないかと思っています。

 あ、小林秀雄本居宣長の言葉を引いていうように「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」そしてシニフィエをしかと見定めることが、シニフィアンを用いる際に大きく外さないためには必要なのかな。

 同じようなことを繰り返して書きますが、真面目に地道に生きている人を嘲笑する方向や、悪事までも肯定し奨励するような方向に誤解されるような言葉はできるだけ避けたいと思う。現状ではそういう言説があふれているように感じるので。
 自由を強調する人は、責任から逃避したがっている場合が多い。もちろん過大な負担感は必要ないのだけれど、言動に対してそれぞれが負っている応分の責任から目を背けることは、ただの投げやりで刹那的な無軌道にしかつながらない。


 自分が発する言葉は、すべて大なり小なり社会的影響を持っているのだから、その言葉が他の人々の考えや行動にどのような多様な影響を及ぼすのかについて無自覚に、言葉を自己演出の道具としてだけ用いるのなら、それは端的に他への思いやりに欠けると言わざるを得ない。と書けば書くほど抑圧的に聞こえてしまうのはわかっているのでドツボにはまってるっぽいですが。
 ただ、ここでいう「多様な影響」には、軽口や憎まれ口によって人をリラックスさせるということも含みます。同時に、自分と似た言動へ受け手を導いたり、逆に反発させたりという効果も含みます。

 ふだんからの問題意識と勝手にリンクさせているので、finalventさんの元のお話と少し離れていますが、レスポンスを期待しているわけではなく、まあこんなような思いを持ってコメントを書きましたという改めて行なう自己紹介みたいな感じでした。finalventさんにはからんでいるわけではないことがわかってもらえるだろうという甘えもあり(これまでコメント欄などでたまにおつきあい頂いているので)。

 読者からすればツッコミ所も多々あるでしょうし、単純に理解の上でここが違うのではというのがあればどなたでもつっこんでほしいと思っています。しかしわれながらくだらない文章を書くもんだ、と消す前に今こそアップっぷ。書いてみたら長くなったのは、熱意があるからというよりも、ありうる誤解や反論を避けようとして。ここでウェーバーの文章が同じような理由で難解だと言われているのを思い出すが、ウェーバーに自分をなぞらえるなどおこがましい。


 そしてニューエイジと身体性などは、コメント欄ではとくに長々と書かなかったんだけど、ああなるほどと目が開かれた思い。フォーカシングなどもその系統として考えてよいのかも。ただむやみな全肯定と、すべてのパラダイムを単一の視点に収斂して相対化しようとする点ではニューエイジはダメダメ(「真面目に地道に生きている人を嘲笑する方向や、悪事までも肯定し奨励するような方向に誤解される」から)。あ、イーガンの『万物理論』もニューエイジなのかな。

 このあたりでヴィクトル・フランクルの『苦悩の存在論ニヒリズムの根本問題』(ISBN:4787797220)のすごさ(よさ)を思い出しつつそれはまたの機会に、力尽きて私は寝るね、ねっておいしい「ねるねるねるね」。