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 はじめに

2007/03/30(金)

カマタスエコさんが先月亡くなった


 さっき、食後にネットを見ていて気づいた。まったく予期していなかったので衝撃を受けた。

追悼 カマタスエコさん

Biz.IDの人気連載、カマタ式「極楽文具」の筆者であるカマタスエコさんが、2月28日に亡くなりました。コピーライター、フォトエッセイスト、そして料理研究家として、ご活躍の真っ最中の急逝でした。本連載でも今回の「デジカメ写真整理術」が遺稿となってしまったことが残念でなりません。編集部一同、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

ITmedia Biz.ID:インデックスシートとクリアポケットで、デジカメ写真整理術

 2月28日か、全然知らなかった。知らなかったことがなんだかすごく申し訳ない気がする。

 多くのWebサイトで連載を持っていらした。全部は読んでいなかったが、生活を楽しんでにこにこしてる印象の、気持ちいい文章を書く人だった。


 カマタスエコさん、これまで楽しくためになる記事を読ませてくださって、どうもありがとうございました。

2007/03/26(月)

ラボアジェについて


 らぼあじぇ。つくづく、いい名前だと思う。


  • らぼあじぇ!
  • ら・ぼあじぇっ
  • らぼあじぇ……
  • らぼあ、 じぇ。

 どのように呼んでも、味わい深く、含蓄がある。漢字で書いたら研究室畦(らぼ・あじぇ)だろうか、それとも裸暴亜瀬(らぼあじぇ)だろうか。などと無意味な思索をインスパイアする、謎に満ちた名前だ。個人的には平仮名で表記したい、らぼあじぇ。ファミリーネームとは思えない暴挙である。親の顔を見てみたいが、見ても責められない、親に責任はないのだから*1


 らぼあじぇのエピソードとされるものを一つご紹介するのをお許しいただきたい。

しかしラボアジェはこの考えに疑問を抱き、ガラス容器に入れた水を百日以上も熱し、実験の前後を精密に測定してみた。

不可能を可能にした男たち(44) ラボアジェ

 私の感想を率直に記すなら、「ばっかじゃなかろうか」だ。いい年した大人がするに事欠いて!


ラボアジェのこのすべてのものを正確に測り記録してみなければ済まないという習性は若いころからのものであったらしい。「なにをそこまで正確に測る必要があるのか」と当事の人々は彼をいぶかった。しかし正しい実験と精密な測定によってこそ、科学という学問に強固な基礎が与えられるものであることを、彼は誰よりもよく知っていたのである。

不可能を可能にした男たち(44) ラボアジェ

 私もちょっといぶかる。正確に測るとは例えば以下のようなことだろうか。

  • 8時だじぇ〜
  • いんや、今は22時38分だじぇ。

 たぶんちょっと違う。


 こういう記事のことを、今後じぇ〜文学と認識していただければ幸いだ*2


 ラボアジェについて調べようと検索してここにたどり着いた方々、残念でした。人生の貴重な時間を無駄にした怒りと後悔にしばらくうなだれた後(10秒もあれば十分だろう)、また気を取り直して知の大海へと漕ぎ出でていただきたい。


 あとは「アボガドロ定数」が一杯、こわい*3

*1:改名しなかったという消極的な責任を除けば

*2:つってもちょっとだけ。

*3アボガドロ定数は質量の単位にとってかわる可能性がある*らしい。個人的にはわさび醤油でいただくのが好き

jiangmin-altjiangmin-alt 2007/03/27 01:21 アボガドわさび醤油いいですね。目隠しして食うと大トロと区別つかなかったりして。

antonianantonian 2007/03/27 01:28 あいつ、私と霊名同じなんだよな・・・・・。
アボガドロは顔が怖いと思いませんか?

summercontrailsummercontrail 2007/03/27 21:56 「ファミリーネームとは思えない暴挙」だとか、無駄にツッコミどころ多すぎて収拾付いてないな……と反省していたので、お二人からコメントを頂いて嬉しい今日のゆうべです。
>jiangmin-altさん
 アボカドはそこまで柔らかくなるまで熟成させるのけっこう大変じゃありませんか?アボガドロ定数ならぬアボカドトロ定食なら、重さに関わってきますよね。

>あんとに庵さん
 ゆ、夢に出てきそうです……。悪意で誇張された絵だと思いたい。ああ思いたい。

2007/03/22(木)

tana-yが移転後更新活発


 tana-yってそのまま書き手の略称のようなサイト名なので、さん付けしないで表記するのが気が引けるのですが。まあでも「ソニーさん」とかそういうのには違和感あるので、さん付けしないでみました。


 で、タイトルのまま(新聞の、火山の状況を伝える記事の見出しみたいなタイトルですが。)。移転後、移転先を知らないままのかたもたぶんいるだろうと思ったのでここに書いておきます。

 tana-y

 たとえば3月14日分から。短いので全文引用になってしまいます、すみません。

きらいな食べ物を「許せない」という人がいる。

「納豆のにおいが許せない」とか「あのヌルヌルが許せない」とかいう感じで。ずいぶん高い目線から食物を見下している。食べないのは自分の勝手だろうに。

好みが変わって食べられるようになったら「許してあげた」ことになるのか。傲慢なことだ。

tana-y: 2007年3月

 アハハ。まあこれに、いつもかわいいイラストが添えられているのが、印象がきつくなりすぎなくてまたいいんですよね。


 まだ「tana-y」というWebサイトのことをご存じなかった方は、面白いのでぜひ巡回先に加えておかれることをおすすめします。

はてなブックマークのタグの名を変えたよ


 [笑]というタグを、[(^^)楽しい]に変えました。


 はてなブックマーク - 浮雲 / (^^)楽しい


 これまで自分がクリップした中で、嘲笑のつもりで[笑]というタグを付けたことはないんですが、人によっては不快に思うこともあるようなので。


 そういう配慮が面倒っちゃ面倒なんですが、まあ折れてもいいとこは折れておくってことで。


 ついでに念のため書いておくと、[(^^)楽しい]というタグを付けていないクリップにも、楽しいと感じたものはありますし、それほど厳密なものではありません。

なんか「差別」の話題が最近ネットでホットみたいですが


 以下のようなスタンスをとっていればだいたいはあまりこじれずに済むんじゃないかなと思った。

いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。(1)(2)(3)それぞれに問題がある。

夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性

 この(1)は相当じつは難しいというか、(a)前提としている事柄の正確さ(b)推論が根拠とする論理法則の妥当さが十分に吟味されないと、(c)推論によって得られた結論的な事柄の正確さはまったくあやふやなんだけどね。


 もちろん実際の対話に際しては、先入観でもって相手に勝手に他の人のイメージを重ね合わせた上で相手のいっていないことについて非難したりという行動は避けたいと思っています(自分もそういう攻撃に何度も困ったことがありますし)。先入観はできるだけ除外して相手の言葉に向き合いたいと思っています。

モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 女性専用車両についての話題、補足します

人格を断定的に語るのはほとんどのケースで間違いだといえると思う。それに、誰か他人の人格を断定することによって、その相手との人間関係はむしろ崩壊してしまうのだろうと思っています。

夏のひこうき雲 - 「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び

 私の考えとしては、エントリの向こうには常に人格が存在する、たとえ検索エンジン対策や宣伝目的で機械的に生成された無数のエントリであっても。ただ、人格そのものは評価の対象としないでおき、まずは言説それ自体に着目する、というのはまあ謙虚で理にかなった方法だと思う。

モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - ゴーヤの問題。

  1. 具体的な言葉、行動
  2. 思考のパターン、発想、あるいはもう少し大きく世界観
  3. その人のコアな部分、人格そのもの

 私が誰かと向き合うときには、おおよそ上のような3つのレイヤーに分けて相手のことを認識している。3と2を区別して考えることが重要だと思っている。

 ここで「誰かと向き合う」というのは、文字通り対面してという意味に限らず

  • ある人やある言動について思うとき
  • ある人とコミュニケーションするとき

 といった広い意味で理解してほしい。

モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 人格/思考様式/言動


 「これだから○○は……」というのは、最終的なぼやきとしてしか機能しないし、その前に一応は色眼鏡を外して、可能な範囲でニュートラルに相手を受けとめようとする姿勢があれば、相手への差別にはならないで済むんじゃないかと思うんだけど、どうだろう。


 あるいはもう少しモヒカン族的色彩を強めるなら、

 「私は、あなたの○○という属性について、既に○○は××だという偏見を持ってしまっている。しかし、あなたが××だと決まっているわけではないから、あなたの話を聞く前にそう決めつけてしまいたくはない。どうか話を聞かせてほしい。もしあなたが××であるような主張をするなら、私は、××という在り方は良くないという主張をするだろう。もしあなたが××でないなら、それはたいへん私にとって嬉しいことだし、改めてその偏見が偏見にすぎないと認識するだろう」


 という姿勢を(どこまで言語化するかは別として)伝えようとすると思います。


 この姿勢が通じないのは、〈相手が洗脳的手法を用いる場合〉や、〈そのような私の姿勢そのものが、××である○○としての相手の限界をあぶり出してしまうので相手の激しい怒りをかう場合〉だろうな。


 前者の場合には、「君子危うきに近寄らず」で。

 後者の場合には、まあ思いやりが必要なんでしょうね。その思いやりもまた侮蔑にはなってしまうけど、年齢にかかわらずまだ幼い人というのは、実感としては存在するわけだからある程度は仕方ない。

sanbo-nsanbo-n 2007/03/23 00:30 こんばんは、御無沙汰してます、とはいってもRSSリーダーで読ませていただいてます^^;
tana-y、面白いですね。早速登録しました。ほんとはRSSリーダーで、と思ったのですが部分配信のみで画像がないようなのでアンテナでポチっと!
 最近はすっかりRSSリーダーのお世話になりっぱなしで直接ブログを訪問して閲覧、がすっかり少なくなりました。楽をおぼえると戻れなくなってしまうものです。。。
 それでも読ませていただいてますし、たまにはこうやって伺いますので忘れないでいただければこれ幸い。

summercontrailsummercontrail 2007/03/23 00:40 sanbo-nさんこんばんは。ご無沙汰してます、と言いつつ、じつは私もときどきsanbo-nさんのところにお邪魔してます。こちらこそ引き続きどうぞよろしく。

jiangmin-altjiangmin-alt 2007/03/23 01:22 tana-y昔ずっと読んでたけど更新なくなって寂しかったので、移転先おしえてくれてありがとう!

summercontrailsummercontrail 2007/03/23 22:43 jiangmin-altさんこんばんは。どういたしまして。jiangmin-altさんも「移転後、移転先を知らないままのかた」でしたか。移転先書いてよかった。

2007/03/19(月)

SEO


 下の記事で、検索エンジンを攪乱してみました。


 鬼の霍乱。

モロ解放戦線


 モロゾフのチョコを

 もろた。


 鬼はや一口に食ひて一句:


 もろもろを思い返す涙もろさ

 おもろ草紙に書きつけむかな

jiangmin-altjiangmin-alt 2007/03/21 03:24 モロコシ囓るトゥモローの朝

summercontrailsummercontrail 2007/03/21 19:17 jiangmin-altさん、便乗ありがとう。
 Dr.モローの唐土(もろこし)思ふ

2007/03/15(木)

カラーユニバーサルデザイン対応ワイドモニターが発売されたらしい


 はてなのキーワードプレゼントキャンペーンで今回、ナナオのカラーユニバーサルデザイン対応ワイドモニターがプレゼントの対象となっているようだ。

 はてなダイアリー内の説明ページ


 あるフレーズを自分のはてなダイアリーに書くことが応募条件となっている。

 私に当たるよりも、必要としている方に当選してもらった方がいいので、そのキーワード自体はここには記載しないけれど、詳細は上のリンクからご覧ください。


 ネットが生活に深く食い込んできた今日、視覚障害者はなおざりにされている面が強いのだろうと思う。視覚障害者の中でも色覚障害者はさらに少数派なので、ある意味では考慮される度合いはさらに低いかもしれない。

本キャンペーンにあたって、ナナオ様より「当キャンペーンにご応募されない方でも、この動画にリンクしたり、ご自身のブログに貼り付けたりしてご紹介いただけると、うれしいです。」とのコメントをいただいています。

*

 こうした取り組みが少しずつでも広がるといいなと思う。


 ITmedia News:「カラーユニバーサルデザイン」って知ってますか?にも詳細が書かれている。

 つまり日本人男性の20人に1人、女性の500人に1人、日本全体で300万人以上の色弱者がいます(茨城県広島県の人口に匹敵)。目の疾患によって色覚が一般と異なる人も含めると実に500万人以上にもなるのです。さらに、色弱者の割合は欧米ではさらに高く男性の8〜10%、アフリカでも2〜4%あり、世界全体で2億人を超えます。

ITmedia News:「カラーユニバーサルデザイン」って知ってますか?

お金について、なんとなく今思うこと


 別件で検索していたら、極東ブログ: [書評]失敗の中にノウハウあり(邱永漢)を再発見した。別件ではあったがこういうことを最近考えていたので書き留めておきたい。

 上記の記事に引用されているマタイ伝の箇所はとくに最近気になっていた。(なお手元にあったリビングバイブルで見ると、「マタイ福音書」の、6章23節でなく24節が該当部分となっている。)

だれも、神とお金の両方に仕えることはできません。 必ず、どちらか一方を憎んで、他方を愛するからです。

リビングバイブル―旧新約

リビングバイブル―旧新約

 リビングバイブルは読みやすさを重視してなのか、句点と次の文との間に一文字分余白が入っているので引用もそのままにした。個人的にはそれはやめて、単純に文字を大きくしてくれた方がずっと読みやすいと思う。

 話が逸れたが、今回は話の逸れるままに書いていこうかと思っている。


 最近なぜ「こういうこと」を考えていたかというと、直接にはネットでずっと激賞されているあの『Web進化論』をしばらく前に読んだせいなのだろう。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

 モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 星空を見上げすぎて足下の穴に落ちるな・足下の穴埋めを怠るなで、naoyaさんとモッチーをまとめてDISった私としては、当時の記事の趣旨は維持しつつもこの本を読んでちょっとモッチーに対する考えを改めた。

 『Web進化論』はもっと早く読んでおくべきだった。既存の社会構造がどのように変容していくのか、そのダイナミズムが説得力を持って伝わってきた。


 で、たとえば本多静六爺さんの元気が出る話(注:書名は全然違います)にやや感化されていたことが土台となって、少しアレしつつあるわけですが。

私の生活流儀

私の生活流儀


 邱永漢のいうような、「他人のことや世界のことを心配する前にまず自分がお金持ちになれ」的な言葉とか、「100万円持っている人と1億持っている人では、高いところに上ったときのように見える景色が違う」的な言葉にはかなりの違和感を覚えるのも事実。あ、ただ、この本はすごくよかったです。

お金持ちになれる人 (ちくまプリマー新書)

お金持ちになれる人 (ちくまプリマー新書)

 最近あまり読まなかったジャンルの本もあれこれ読み始めているので、この邱永漢の本がいかに優れているかということを感じる(あまりこういう教養が自分にないことを差し引いても)。


 で、かなりの違和感を覚えるという話に戻って。たとえば以前夏のひこうき雲 - ミヒャエル・エンデ『モモ』、ほかで紹介したエンデの『モモ』とか、あるいはこの記事の最初に戻ってマタイ伝の山上の垂訓のうちの引用した下りだとか、そういう立ち位置が私にとって基本なので、さてどのように整合的に考えればいいのかという迷いがある。もちろん必ずしも整合的に考える必要はないのだが、どちらかのスタンスが完全に間違っているようには思えないので、統一的な理解を進めたい。

愛蔵版 モモ

愛蔵版 モモ


 と思っていたことを、極東ブログ: [書評]失敗の中にノウハウあり(邱永漢)を何度目かに今読み返して思い出したという話。極東ブログのこの記事の中では次のような形で理解されている。

「富」は原語を当たればわかるがマモンであり擬人化されている。日本風に言うならここには二つの神がいて、イエスの神はマモンという神に嫉妬をするのである。嫉妬こそユダヤ・キリスト教の神の本質である。そして、福音書をよく読めば富が忌避されているのでもないリアリズムを知る。イエスは天に宝を積めというが、人の心はカネのあるところに寄り添うようにできているのだから、それなら天にでも積むがよかろうという一種のユーモアもある。もっとも強欲な商人こそが神に近いといったホラ話のような笑話もある…笑話なんだよ。セム・ハムの古代世界は性と欲の笑いに満ちているものだ。

極東ブログ: [書評

 私の感覚としてはそれに近い。ただ、そのユーモアだけで乗り切ろうとすると、私の中にそれはどこか嘘というか小ずるい言い訳になるんじゃないかという強い疑問がかすかに起こる。この記事の冒頭で「こういうことを最近考えていた」というのはその疑問を含めてだった。

 ただ、その疑問が生じるまでの一連の思考過程を経るという、これまで何度か経験した体験のうちで、少し時間があるとき何度か思ったのが次のようなことだった。


 つまり、たぶんクリアに割り切ってしまうなら、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』的な把握が一番しっくりくるということ。


 プロ倫は、想定される反論などに予め細かく反論していたりとか、かなり厳密に論を進めようとしているために、読みづらさがジャンボ山盛りだったが、ヴェーバーの考え方については大塚久雄の『社会科学における人間』がわかりやすく語り口調で書いていてくれたように記憶している(この本については夏のひこうき雲 - 『社会科学における人間』、『菊と刀』、『バカドリル 頭痛』や、モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 『社会科学における人間』とモヒカン族的合理主義思考で紹介した)。

社会科学における人間 (岩波新書)

社会科学における人間 (岩波新書)


 ごく簡単に、乱暴にいうと、現世は所詮仮の住まいであり、そこに重きを置くべきではない。しかしかといって厭世的になるのではなく、仮の住まいだからこそ、短距離走を全力疾走するように、あるいはアウトドアでキャンプするときにはスマートに合理的に周りを汚さずに楽しむように、ベストを尽くしてなすべきことをなすというような在り方・考え方をとろうと思っている(私の理解では、パウロがそういう感じ)。お金が大事なのではないが、世の中に既に存在している価値というものを大事に扱い、より高い価値をこの世に生みだしていくことがあるべき姿勢というか。

 堅苦しく聞こえてきたころだと思うので、このへんで終わります。本の紹介がやたら多くなったけど、それぞれ文脈のうえで欠かせないので、よかったらどれでもぜひ読んでみてください、それぞれ趣向は違いますがどれもおすすめの本です。


 ……と、いうところまでの文章を2、3週間ほど下書きのまま放置してあったので、とりあえず掲載してしまおうというのが今回の記事。


 ちなみにその後ロバート・キヨサキの『金持ち父さん、貧乏父さん』も読んだ。

金持ち父さん貧乏父さん

金持ち父さん貧乏父さん

 徴税権に対する理解の仕方はさすがアメリカというか私は全然違うとらえ方をしているし、そのほかの点でも、価値観が違うなあというところもあった。

 自分と違う価値観から来る部分をきちんと見分けて、それ以外を読み取り知見として活用することができる人なら、この『金持ち父さん、貧乏父さん』もおすすめ。


 ついでに思いつきで書いておくと、すぐ上の本の足りないところはドラッカーの『明日を支配するもの』が大いに補ってあまりあると思う。

2007/03/12(月)

早起きエンペラーの『自省録』


 エンペラー吉田のことではありません。


 3月頭ぐらいからだったかな、また『自省録』を読み返しています。この2月に改版されたようですが、改版前のものでいうと62頁、「第五章」の冒頭部分です。ちょっと笑ったところを、ちょっと長くなりますが引用しますね。

明けがたに起きにくいときは、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果すために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世に来た役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。「だってこのほうが心地よいもの。」では君は心地よい思いをするために生まれたのか、いったい全体君は物事を受身に経験するために生まれたのか、それとも行動するために生まれたのか。小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自分の分を果して宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。

 しかるに君は人間のつとめをするのがいやなのか。自然にかなった君の仕事を果すために馳せ参じないのか。「しかし休息もしなくてはならない。」それは私もそう思う、しかし自然はこのことにも限度をおいた。同様に食べたり飲んだりすることにも限度をおいた。ところが君はその限度を超え、適度を過すのだ。しかも行動においてはそうではなく、できるだけのことをしていない。

 結局君は自分自身を愛していないのだ。もしそうでなかったら君はきっと自己の(内なる)自然とその意志を愛したであろう。ほかの人は自分の技術を愛してコレに要する労力のために身をすりきらし、入浴も食事も忘れている。ところが君ときては、款彫(ひだぼり)師が彫金を、舞踊家が舞踊を、守銭奴が金を、見栄坊がつまらぬ名声を貴ぶほどにも自己の自然を大切にしないのだ。上にいった人たちは熱中すると寝食を忘れて自分の仕事を捗らせようとする。しかるに君は社会公共に役立つ活動はこれよりも価値のないものに見え、これよりも熱心にやるに値しないもののように考えられるのか。

 朝なかなか起きられないからといって、結局君は自分自身を愛していないのだ。とまで言われたら、おいおい大げさだなと逆に笑ってしまいたくなりますね。


 で、こんなことを言ってるおっさんは当時のローマ皇帝。誰に言っているかというと、自分自身に向けて。そもそも『自省録』の内容自体、公開を前提としていない覚え書きのように書かれたものです。

出版社/著者からの内容紹介

著者はローマ皇帝で哲人.蕃族の侵入や叛乱の平定のために東奔西走したが,僅かにえた孤独の時間に自らを省み,日々の行動を点検し,ストアの教えによって新なる力をえた.本書は静かな瞑想のもとに記されたものではあるが,著者の激しい人間性への追求がみられる.古来,もっとも多く読まれ,数知れぬ人々を鞭うち励ました書. --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。

内容(「BOOK」データベースより)

アウレーリウス(121‐180)はローマ皇帝で哲人。蕃族の侵入や叛乱の平定のために東奔西走したが、わずかにえた孤独の時間に自らを省み、日々の行動を点検し、ストアの教えによって新たなる力を得た。本書は静かな瞑想のもとに記されたものではあるが、著者の激しい人間性への追求がみられる。古来、もっとも多く読まれ、数知れぬ人々を鞭うち励ました書。

Amazon.co.jp: 自省録: 本: マルクス アウレーリウス,Marcus Aurelius,神谷 美恵子

 皇帝陛下は気まじめだなあ、でも朝なかなか起きられなかったんだなあ、それで一生懸命自分を叱咤激励していたんだなあ、という共感の笑いとともに、ひとかけらの真実が伝わってくるような気がします。

 よく、英語のかなり身分が高い人への敬称で、"Your Majesty"とかいうじゃないですか(言わないか。別に身分が高い人とよく会って英語で話すわけじゃないから)。

 アウレリおっさんと会うことがあったら、"Your Punctuality"と敬礼したい。これはかなりの尊称です、私からしたら。



 今は亡きマルクス・アウレーリウス皇帝陛下や他のやんごとない方々の参考になるかどうかわかりませんが、私は朝起きる時間が例えば「6時」だったら、「6回」枕を叩いてから寝ます。


 ポク、ポク、ポク、ポク、ポク、ポク、チーン*1


 どこかで聞いたか読んだ方法なんですが、意外とかたちに現れた行動が記憶に刻み込まれ、自分に暗示をかけるのに役立っているような気がします。


 あと、目が覚めてからなかなか起き上がれないときには、「あと3回深呼吸したら起きる!」と決めたりします。これも、深呼吸すると頭に酸素が行って目が覚めてくるので、けっこうお勧め。ただ、息を吐いたときにそのまままた安らかな眠りに就いてしまうことがあるんですよね。


 ……少し前に、「カウントダウンするとよい」という内容の記事をどこかで見かけて、この話を書こうと思っていたのですが、残念ながらどこの記事だったか今探しきれません。営業マンの時間管理 朝方人間は仕事で得する! - [営業・セールスの仕事]All Aboutや、くいっぱひとからゲ。は見つかったし、それぞれ参考になるんですが、この話を書こうと思ったきっかけはそのどちらのページでもなかった気がする……。追記:ITmedia Biz.ID:仕事の取りかかりを早くするには?【解決編】でした。

 ともあれ声に出してカウントダウン、よさそう。自分の声であっても人間の声って、聞くと目が覚めそうですよね。



 話がそれましたが『自省録』はたいへんお勧めです。対人関係でのストレスや、自分の怠け心・だらしなさ、肉親を失った悲しみ、そういったものにうちのめされつつもなんとか平静に微笑みを持ってなすべきことを淡々となしていこうとする人の独り言に、読み手としては大いに勇気づけられます。

 諸行無常とかいうふうなテーマで言えば『徒然草』に近いけど、私にとっては『徒然草』より読みやすい。しかも何度読んでも励まされます。

自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)

 ただ、自殺もまた一つの手段のように書いているような部分にはまったく同意できないし、キリスト教に対する認識については訳者の神谷美恵子の解説に書いてある通りなのだろうなと思うけど。


 なお、これまで『自省録』については以下の記事でごく簡単に書きました。

『自省録』を参考に手元で。マルクス・アウレリウス・アントニウス・ピウス・ミッキー・マウスデウス・エクス・マキナ・こん平・でぅす。アウレーリウスなどと伸ばしたくない派。鼻の下と李下に冠を正さず←読み返しても自分で意味が分からないはず、書いていても別に意味なし。(冠次郎)(冠二郎か?確認不要)

夏のひこうき雲 -  まさにメモ。マサにガスだね

このおいしさの凝縮はアウレーリウスの『自省録』に似た味わい。自省録は元々全くのひとりごと文なのでそこは違うが。でもたいへん刺激的なのは一緒。

自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)

 なんなんだあんたら、名前カタカナのくせして(?)。 ←わけわからない偏見、そもそもカタカナじゃない

夏のひこうき雲 -  ブーヴァー

 子供が早くして死んだり、皇帝としての公務で次から次へとトラブルが舞い込んだり、そういう中で自分がどう気持ちを整えどう考え何をすべきか、その実践としての記録。

夏のひこうき雲 - Reading Baton

*1:チーンはない。

2007/03/09(金)

はてなブックマークの「お気に入り」について


 はてなアイデア - ブックマーク内容は公開するが、「お気に入り」は公開しない、ということはできないでしょうか。というはてなアイデアがありました。

 私も賛同していたのですが、このアイデアは却下されました。

naoya 『機能や実装をシンプルに保つため、プライベート/パブリックの切り分けをできる類の機能は実装しない予定でいます。

申し訳ございませんが却下とさせていただきます。』 (2006-10-07 03:43:37)

*

 というのが理由です。


 私は、このアイデアのコメント欄(というのでしょうか)に

summercontrail『お気に入りとよく見る?Bを使い分けてることは相手に伝わりづらそうなのでお気に入りでない事知らせたくない』 (2005-05-24 23:21:10)

*

 と書きました。字数制限に耐えてよくガンバった!凝縮した(文字数を)!

 私には珍しく(笑)賛同を表すコメントを後に続けてくださった方が何人もいたアイデアです。


 このアイデアが採用されなかった悪影響をやわらげるために、ここでもう一度お知らせしておきたいと思います。


 私のはてなブックマーク「浮雲」の「お気に入り」と、私がよく見るはてなブックマークは、イコールというわけではありません。

 私が「お気に入り」に登録していなくても閲覧しているはてなブックマークはありますし、

 逆に、「お気に入り」に登録していても結果的に閲覧できていないはてなブックマークもあります。

 あなたのはてなブックマークが私の「お気に入り」に入っていなかったり、「お気に入り」から削除されたとしても、悪意はありませんし、別の形で閲覧させていただいている場合もありますので、あまり気にしないでいただければと思います。


 私も、自分のはてなブックマークの「お気に入り」被登録数が増減しても、あまり気にしないようにしています。だって減ったらやっぱりチョット悲しいもんね。

 でも少なくとも私としては、これつまらないなとかやだなと思って「お気に入り」から外したことはないし、今後は「お気に入り」から個別のはてなブックマークRSSに徐々に移行しようかとも思っているので、少なくとも私の「お気に入り」リストについてはご心配なさらないでいただけたらと思います。

2007/03/08(木)

人間はオートマトンではない/応答の真っ当さ


夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性

そのようには生きられない徳保隆夫さんによる記事)

夏のひこうき雲 - 「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び

インド人の神様 そのようには生きられない・2

夏のひこうき雲 - むしろそのようには生きられない

そのようには生きられない・3

今ココ。

以下も「応答」にはなっていないと思います。読書しているときの頭の中を公開しているようなものです。別に左近さんを説得したいわけではない。自分の中で問いと答えをグルグルやっている、その過程の記録なのです。

そのようには生きられない・3

 そのようにして、きちんと応答してくださってありがとう。

 こういう場合にあんまり議論をするべきではないのだろうと思いますが、徳保さんの中での問と答えのグルグルにご参考になれば、と私なりに、とくに議論という構えた形でなく、今回もうちょっとおつきあいしてみます。ご参考になれば幸いですが、ならなければそれはそれで仕方ないかなと思っています。


 ただ、たいへん重要な事柄だと私は思っているので、読みづらい記事だとは思いますが、よかったら他の方も読んでみてくださって、私の言わんとする意図を汲んでくだされば幸いです。(記事中の引用の形式など、不揃いな点があればご容赦ください。)


 あと、徳保さん、よかったら、今後は私のブログに言及される際にはトラックバックを送ってくださると、言及されたのがわかりやすくて助かります。「トラックバックされた=何か私からまた反応しなければならない」とは私は考えていませんので、その点のご心配は要りません。


1 「謎」なキーワード群について


ふたつの例え話をしましたが、これって左近さんの基準で「不当な基準で当人の努力ではひっくり返せない属性を理由に人格を断定」に該当するのでしょうか。それがよくわからない。キーワードの定義が謎なので、質問には答えられません。

そのようには生きられない・3

 該当しないと私は思います。ですがそのことについてはいったん後回しにし〈「一応、質問への回答」について〉という項で説明するとして、キーワードの定義についてもう少し説明します。

 (2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すこと*のうち、(2)は言葉の意味について説明をする必要はないと思うので、ここでは触れません。

左近さんが書かれた「人格/思考様式/言動」を読んでも、「人格」とは何か、よくわかりません

そのようには生きられない・3

 「人格」というのは、

  1. 具体的な言葉、行動
  2. 思考のパターン、発想、あるいはもう少し大きく世界観
  3. その人のコアな部分、人格そのもの

 私が誰かと向き合うときには、おおよそ上のような3つのレイヤーに分けて相手のことを認識している。3と2を区別して考えることが重要だと思っている。

モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 人格/思考様式/言動

 ここで3番目に挙げているもののことであり、

その人のコアな部分、人格そのものについては、これは他人が(そして、本人も)どうこう判断して評価するべきものではないと思っている。

 また、他人にも本人にも、ある個人のコアな部分、人格そのものに対して評価や判断を行う能力はないだろう。

 これはもはや神の領域に属することであって、同じ人間が「お前の価値はこれこれ」「私の価値はこれこれ」と判定できると思うのは相当傲慢だと感じる。

モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 人格/思考様式/言動

 という説明をしたものです。

 尊厳、良心、魂と呼ぶこともできるでしよう。というとセンチメンタルに響くので失笑をかうかもしれませんが、およそ人間にそのようなものをまったく想定しないことはできないのではないかと思います。逆に言えば、ロボットがいかに人間のように振る舞えたとしても、そこに何か欠落したものを感じとることができるとすれば、その、ロボットに欠落している部分です。

 別の言い方をすれば、思考や価値観の可塑性の源となる、自由意思といってもいいかもしれません。

 あるいは、「人格的関わり合い」とか「人格的成長」という概念のいずれにも含まれる、ある要素のことです。


 さらにいえば、前回『考えるヒント』*1から引用した、

人間の外部からの観察が、それほど完璧な機械ならば、その性能は、理論上、人間の性質を外部から変え得る性能でなければならない筈である。それなら、人間を威壓する手間を省いて、人間を皆善人に変えればよい。さうすれば彼等が、もはや人間でない事だけは、はつきりわかるだろう。

 私は、徒な空想をしてゐるのではない。人間の良心に、外部から近づく道はない。無理にも近づこうとすれば、良心は消えてしまふ。これはいかにも不思議な事ではないか。人間の内部は、見通しの利かぬものだ。そんな事なら誰も言ふが、人間がお互ひの眼に見透しのものなら、その途端に、人間は生きるのを止めるだらう。何といふ不思議か、とは考へてみないものだ。恐らくそれは、あまりに深い真理であるが為であらうか。ともあれ、良心の問題は、人間各自謎を秘めて生きねばならぬという絶対的な条件に、固く結ばれてゐる事には間違ひなさそうである。仏は覚者だつたから、照魔鏡などといふろくでもないものは、閻魔に持たしておけばよいと考へたのであらう。

 にいう、「良心」です。


 「人格を断定することは問題だ」と主張しているときに、そこでいう「人格」を厳密に定義すること自体が、およそ人というものの持つ人格の断定につながるから困難な行為だ、というようなことは、上の引用文からしてもなんとなく理解していただけるのではないかと思うのですが。


 『考えるヒント』のほかには、「人格」的関わりとは何かということについて、マルティン・ブーバーの『我と汝・対話』が大いに参考になると思います。私はたいへん教えられました。

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)


 人間は*2オートマトン - Wikipediaではないから、応答を真っ当に行うことが可能だ。ダジャレを使って本書の内容の一部を私なりに言い換えると、このようになります。


 と、このあたりで「断定的な評価を下すこと」にも関わってきます。「人格」についてこれだけ書いておけば、相手の人格について「断定」的な評価を下すことについてはもはやあまり説明は要らないのではないのかと思うのですが、エイヤッと書いてみましょうか。

 徳保さんは以前「旧約聖書を知っていますか」が面白いなどの記事を書かれていたので、少しは聖書にご興味がおありかと思うのですが、聖書で言えば、私の念頭にあるのはマタイによる福音書7章1節2節

人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたが量るそのはかりで、自分も量り与えられるであろう。

 ということです(今回はとりあえず口語訳から引用しました)。

 これをもう少し、クリスチャンでない人にも受け容れられやすい形で書いたのが、

 誰か他の人に対して「救いようがない」などと言う人は(どなたにどういうタイミングで言われたのか知りませんが)、おそらく人間の可塑性や議論・対話の価値を(そう言ってしまった時点で)相当低く見積もっているのだろうと思います。そのような姿勢は、自分自身が対話によって考えを深める可能性をもほとんど無くしてしまうことになるし、自分をも断罪してしまうことになる(ただ、私はそのような姿勢に陥ってしまっている人すらも"開かれていく"可能性があると思っているし、断罪してしまいたくないと思っているけれど)ので、残念ではあります。

モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 「コスト意識だけで「常識」を選択してもよいが……(補遺)」を読ませていただいて

 と以前徳保さんに書いた部分です(今回の引用にあたっては、脚注の部分を明示的に、直後に括弧書きの形で示しました)。


 ただ、嘆き・ぼやきは私の基準ではオッケーです。イエス・キリストもよく嘆き、よくぼやいていました。なんで私の基準ではオッケーなのかは、この記事の後の方で、クリスチャン以外の方でも受け容れられやすいと思われる部分について書いておきました。


天王星人はいま大殺界なんだって」という人は、天王星人の可能性を全否定しているか?

そのようには生きられない・3

 まず、そもそもその鍵括弧内の発言は、「〜なんだって」と伝聞であることを明示しているので、伝え聞いた内容の真偽については一定の留保がなされている以上、発言者が断定しているとは言えないと思います。

 そこで「天王星人はいま大殺界です」という、より直接的で断定的な発言について考えてみます。

 としても、「大殺界」というのはよく知りませんがその人をとりまく運勢の一態様なのでしょうから、人格についての言及ではなさそうです。

 知り合いが「あんたは天王星人だから人の話を聞かないで、話し下手なくせに自分の事ばかり話す」と言われて激怒していました。「自分の事ばかり話すのはあいつなのに。しかも天王星人だからとか言われたら、自分ではどうにもできないだろ!」と。

夏のひこうき雲 -  規制の必要と自由と責任

 という例のほうがより適切な例でしょう。

 これに「自分はそうじゃない」と反論すること自体が、話し下手なくせに自分の事ばかり話すということにあてはまってしまうので、予め反論が無効にされています。可能性を全否定という表現がふさわしいかわかりませんが、

人格を断定的に語るのはほとんどのケースで間違いだといえると思う。それに、誰か他人の人格を断定することによって、その相手との人間関係はむしろ崩壊してしまうのだろうと思っています。

夏のひこうき雲 - 「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び

 という説明によくあてはまっているとは思います。


2 血液型性格診断のうちのいくつかのケースを含めて、およそ「(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すこと*」の問題について


 なぜ問題か、どう問題かということは、拙いながらも私なりにはずいぶん書いてきたつもりですし、そのうちのいくつかは今回の徳保さんとの一連のやりとりでも引用しておきました。

 別の角度から言えば、たとえば(1)に該当するかどうかはちょっとわからないこともありますよね。客観的な真偽を判定することが比較的容易な数学の証明でさえ、その分野の他の研究者による検証にだいぶ時間がかかることがあるぐらいだから。

 だから、せめて(2)(3)のような言動に出ることは控えておこうという観点からも、(2)も(3)も問題といえると思います。

 このあたりのことは、同じ話題に関連して

http://d.hatena.ne.jp/mutronix/20041201#c1101917482

 にコメントとして書きました。


 あとは

 もご覧ください。なお、負のピグマリオン効果というのも十分存在が推定できると思っています。

 メリットとデメリットを考慮に入れて天秤にかけるとき、私はこうしたデメリットも考慮に入れていますが、徳保さんはこれまでの記事からは考慮に入れていないように読めました。そこが一つの大きな違いなのだろうと思います。


 関連リンクとして、インターネットで読み解く!「血液型性格分類とメディアリテラシー」[ブログ時評02]も有益かもしれません。夏のひこうき雲 -  血液型と星座と疑似科学、統計の「ウソ」、情報リテラシートラックバックがあった記事で、(2004年12月5日の時点での)関連ページのまとめとして読みやすい文章になっています。


3 一応、質問への回答*について


 そのいちいち書類の数字を関係各所に問い合わせたりする例は、書類の数字を「検査」しているのであって、人格を検査しているのではないと思います。

 たった一人の嘘のために他のみなまで偏見を持たれるのは理不尽というのは、おっしゃる通りです。だから、私なら「新人だからってみんなが嘘つきと決まっているわけでもないし、私は他の新人たちがちょっとかわいそうな気がするなあ」とは言うかもしれません。これは倫理的な観点からの批判と言えば言えるでしょうけど、それだと言っちゃいけないのかな。まあもちろん言わないかもしれませんが。

 ただ、「こんなことになってるけど、めげないでね」ということは、(ウソの報告をした新人も含めて)新人たちに言ってあげたい気がします。


 部長室に怒鳴り込んだ女性社員の例え話の部長が、女性社員の話を聞かないのは、その時点で女性社員がギャーギャーわめいているからであって、「女性が感情の動物だから」ではありませんよね。

 なお、その「女はやっぱり感情の動物だな。これだから困るんだ」というセリフは、その状況においては批判すべき暴言とまでは思いません。いずれも程度の問題ならば、極端でない事例も質的には同質であって、NOというべきなのは変わらない、ということになるのではありませんか。もちろんNOと言う程度は変わってくるわけですが。*と私は書きましたが、その例ではNOというべき程度がかなり低く、逆に感情的混乱の要因にさらされた人のぼやきとして許容される程度が高いと思うからです。(ぼやくことで感情的な混乱と不合理な事態になんらかの解答を見いだそうとしているわけで、その解答が客観的には誤りだった場合であっても、一応ストレスは軽減することができます。そのようなニーズも考慮するべきだと思っていますし、そのような感慨の吐露まで牽制する意図はありません。)


4 科学的事実を倫理によって封殺することに賛成しないという考えについて


 以下、この項は徳保さんの主張一つ一つに対しての反論ということには必ずしもなっていませんが、現時点で私は結論的には徳保さんとやや違う立場にいるということを書いてみます。


 まず、科学というのは何か、ある事柄を事実だと言うための強力な根拠ないし権威というよりも、ひどく懐疑的な態度ゆえに常に検証の余地を残しておくためのプロセスだ、と私は思っています。たとえて言うなら民主主義のようなもので、それ自体が権威として信頼に値するのではなく、何かを信頼できないからこそそのような手法をとるのです。

 「科学は信頼できる」とか「民主主義は信頼できる」とかいう態度は、筋としては順番が違っていて、「人間の理性は信頼できないから科学的手法を用いる」「人間の理性は信頼できないから民主主義という形態がまだまし」ということです。(ちなみに民主主義というのは、みんなの言うことは正しいという理由で採用されているのではなく、「社会としては多数派の考えで動かざるを得ないけれど、多数派の意思決定の過程に少数派の意見も組み込む余地を残しておこう(そしてどちらが正しかったか、後で検証可能なようにしておこう)」ということです。)


 だから、科学的事実という概念はちょっと概念としてよくわかりません。おそらく「客観的な真実」というようなことでしょうけど、私たちが何かを主張するとき、客観的な真実というのは認識できません。

 おそらく、「一定の手法によってまあ妥当だろうと思われる事柄について、倫理的な観点から、その事柄の指摘・主張を控えさせることには賛成できない」という趣旨なのかもしれませんが、このような表現に引き直せば、それほど説得力を持たないことがわかるでしょう。


 次に、(すぐ上の段落で述べた事と順序が前後しますが、)倫理は、何かを封殺したりしないと思います。

 倫理というのは、これをすべきか、すべきでないか、という個人のなかの規範です。私が押しつけるからとか、社会の多数派が押しつけるからという理由で存在しているわけではありません。私としては、「倫理」と社会の「道徳」を混同して使うことは避けたいと思っています。

 社会のどのような分野においても、個人が関与する以上、それぞれの個人の倫理によって意思決定がなされているわけです。

 ただし、具体的な個々の相手に対しては「あなたはこういう言動に出ていますが、その発言はこのような弊害を伴うと私は思います。あなたはどう思いますか」という語りかけはできますし、その返事に耳を傾けることはできます。そして、場合によってはすべきだと思っています。


 最後に、私の考えを書きます。

 事実だ・真実だということにかなりの確信を持っている事柄であっても、それを主張すべきでないと判断することはありえます。その事柄の主張によって看過できない結果を生じると思える場合などです(例として、他人の高度なプライバシーの暴露や、ひどく猥褻な表現、セキュリティ上公開されると重大で取り返しのつかない被害が生じるような事柄)。看過できるかどうかという基準を倫理といいます。また、上にも書いた通り、論理の積み重ねや事実認識において誤っている可能性は常にあるので、その意味でも、影響の大きい行為をする際には慎重でなければならないと思います。


 だから、私の考えをなるべく簡潔に書くとしたら次のようになるでしょう:


 倫理に反する行為を行う誘惑に負けて、科学をその隠れ蓑にしてはならない。


 典型的には、たとえば人間を生きたまま解剖することがそうです。これは典型的な例であって、「極端」で「例外」的な例ではありません。倫理に反するが科学には貢献する、つまりより正確な知見の獲得に役立つ行為の典型例です。

 徳保さんは魔道に墜ちているなどとひどいことをかつて言われたそうで、私は大いにフンガイするのですが、科学を口実にした技術の追求と、倫理が衝突したときに、倫理を無視する人は、いわゆる*3魔っ道・サイエンティストということになってしまいます。もちろん何が真っ当かは(くどいですが)最終的に自分が判断することです。


 なお、便宜上ここで以下の問いにも答えておきます。

左近さんの質問でも、「それは事実か?」がメインテーマになっていますよね。結局、そこが崩されたら(2)も(3)も吹き飛ぶ。だから重要なのは圧倒的に(1)であって、他はどうでもいいのです。

そのようには生きられない・3

 いいえ。それだけがメインテーマではないし、他はどうでもよくありません。どうでもいいなどと言われると私は大いにフンガイします。(フンガイの結果がこの記事であり、かつての血液型関連の記事群です。)

 私はその質問の直後に、

私は、「人格」を「断定」するための検査など開発されないし、開発されたとしてもそのようなものを使うべきではないと思っています。

夏のひこうき雲 - むしろそのようには生きられない

 と書いており、これがメインテーマです。(ア)開発されないし、(イ)開発されたとしてもそのようなものを使うべきでない。(2)も(3)も(イ)に関わります。

 私が(ア)(イ)のように考える理由は、さらにその(つまり、上に引用した私の文の)直後に、関連すると思われる部分を、手元の小林秀雄『考へるヒント』昭和40年第7版56頁、「良心」という文章から*引用してあります。この記事の「1」でも引用した部分です。

*1:ここでは書名には表記として新仮名遣いを用いました

*2:『我と汝・対話』が触れているのは実は人間にとどまらないのですが

*3:別にいわゆってない。

2007/03/07(水)

二種混合


 昨年、二種混合(ワクチン)についての資料を読んでいたとき、


 西コンゴ


 のことが頭をよぎった。


 ふだん冗談を書くときに、ネットで同じことを書いた人がいるかどうか検索するという事はまずしないのだが、今回ここに載せるにあたって調べてみた。

二種混合 西コンゴに該当するページが見つかりませんでした。

検索のヒント

  • キーワードに誤字・脱字がないか確かめてください。
  • 違うキーワードを使ってみてください。
  • より一般的な言葉を使ってみてください。
  • キーワードの数を少なくしてみてください。


  • 誤字・脱字はない。表記は意図的なものだが、とくに弊害はないはずだ。
  • 違うキーワードを使うつもりはない。このキーワードこそがvitalなのだ。
  • より一般的な言葉を使っていなくてすまない。どうか許してほしい。
  • キーワードの数を少なくしたくはない。この件に関して。

 ここに私の発想を記しておくことで、ぼくたちわたしたちの未来が少しでも豊かなものになれば……と、今日も書きつけておきます。


 人類がはじめて手に入れた知の宝庫に、こうして輝かしい1ページがまたつけ加えられたのだった。


 皆さんが西コンゴのことを考えるとき、ふと二種混合ワクチンのメリットとデメリット、そのリスクマネージメントの必要性を思い浮かべていただけたら、そう私は願う。


 たとえ、西コンゴのことを考えることはほとんどないとしても。


 コンゴ、ほとんどないのだとしても。

てけてけてけてけ 2007/03/07 14:58 <西コンゴ>のみによる単独検索を Google 上で試みましたところ

「西コンゴ の検索結果 約 31 件中 21 - 24 件目 (0.12 秒)

 最も的確な結果を表示するために、上の24件と似たページは除かれています。
検索結果をすべて表示するには、ここから再検索してください。」

という回答が得られました(0.12秒で〔藁 )。

よって、<二種混合>というマニアックな追加検索子によるコンゴ検索…もとい混合検索は、非常に難しいでしょうねぇ。

てけてけてけてけ 2007/03/07 17:31 あ、あと<同窓会>&<どうしようかい>という検索を先日、念のためにかけておいたのですが、そして、いまも念のためにかけてみたのですが

「同窓会 どうしようかい の検索結果 約 2,310 件」

とか出てきて、つくづく日本人ってどうしようもない人たちなんだなと思いました(わたしもそのひとりなのだ <( ̄- ̄)> エッヘン!)。

summercontrailsummercontrail 2007/03/07 23:49 てけてけさん、こんばんは。二種混合については意外と?情報ありますね。コンゴのことを書こうと思う日本人が少ないんでしょうね。
 私を含めて日本人はどうしようもあるから、「どうしようかい」が多いのかも、アハハ。

てけてけてけてけ 2007/03/08 05:38 西コンゴについて触れたページが24件しか検索であがってこないなんて、日本の<今後>に憂うという次第でございます(おあとがよろしいようで)。 m(_ _)m

summercontrailsummercontrail 2007/03/09 03:07 てけてけさん、西コンゴのことを確認しようと思って今Yahoo!で検索したら、私のこの記事がトップに来てました。えっと思ったら、Googleでもトップ。
 それでいいのか検索エンジン。私は検索エンジンの「コンゴ」を憂えています。

2007/03/05(月)

むしろそのようには生きられない


夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性

そのようには生きられない徳保隆夫さんによる記事)

夏のひこうき雲 - 「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び

インド人の神様 そのようには生きられない・2

今ココ。


1

部品によっては不良率0.01%とかそういったレベルの話になっていて、それを超えると「要注意だから全数検査」となったりします。過半数なんていう基準じゃない。こういうのを見ているから、私は「一部の人間のせいでみんなが色眼鏡で見られる」のが悪いことだとは思わない。危ないと思ったら全数検査でいいのです。

インド人の神様 そのようには生きられない・2

 質問させてくださいね。

  • 人間の人格の検査は、例えばどのような方法で行うのですか?
  • 検査の結果は誰がどのように判定するのですか?
  • それは「断定」といえますか?
  • その判定を行う人の人格については、誰が検査するのですか?
  • その評価の対象は、果たして「人格」なのですか?

 私は、「人格」を「断定」するための検査など開発されないし、開発されたとしてもそのようなものを使うべきではないと思っています。関連すると思われる部分を、手元の小林秀雄『考へるヒント』昭和40年第7版56頁、「良心」という文章から。(今古い版のものしか見あたらないので、ところどころ旧字旧かな(?)で失礼します。)

人間の外部からの観察が、それほど完璧な機械ならば、その性能は、理論上、人間の性質を外部から変え得る性能でなければならない筈である。それなら、人間を威壓する手間を省いて、人間を皆善人に変えればよい。さうすれば彼等が、もはや人間でない事だけは、はつきりわかるだろう。

 私は、徒な空想をしてゐるのではない。人間の良心に、外部から近づく道はない。無理にも近づこうとすれば、良心は消えてしまふ。これはいかにも不思議な事ではないか。人間の内部は、見通しの利かぬものだ。そんな事なら誰も言ふが、人間がお互ひの眼に見透しのものなら、その途端に、人間は生きるのを止めるだらう。何といふ不思議か、とは考へてみないものだ。恐らくそれは、あまりに深い真理であるが為であらうか。ともあれ、良心の問題は、人間各自謎を秘めて生きねばならぬという絶対的な条件に、固く結ばれてゐる事には間違ひなさそうである。仏は覚者だつたから、照魔鏡などといふろくでもないものは、閻魔に持たしておけばよいと考へたのであらう。

 今入手しやすいものだとこれ↓です。

新装版 考えるヒント (文春文庫)

新装版 考えるヒント (文春文庫)


反証されても撤回しないケースだけを「断定」と呼ぶなら、ほとんどの人は滅多に「断定」なんかしていない。

インド人の神様 そのようには生きられない・2

 ほとんどの人は滅多に「断定」なんかしていないというのは誤りだと思いますよ。現に徳保さんはご自分の挙げた具体例をそれは「人格」に対する「断定」ではないと反証されても、撤回していないわけだし。

 それに、ほとんどの人がどうかという話でいうなら、ほとんどの人は犯罪を犯さない。しかしそれでも防犯対策というものは必要なわけですよね。

 それから、

ただ、こうした事柄は、極端な事例が出てからNOといっても遅い。いずれも程度の問題ならば、極端でない事例も質的には同質であって、NOというべきなのは変わらない、ということになるのではありませんか。もちろんNOと言う程度は変わってくるわけですが。

夏のひこうき雲 - 「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び

 という部分ももう一度お読みください。


2

けれども私の観察するところ、場を改め静かに話を持ちかけてもなお門前払いするのは、よほどバカな人だけです。

インド人の神様 そのようには生きられない・2

 よほどバカな人は、おそらく徳保さんの想像している以上に多いのだと思いますよ。「いんちき」心理学研究所 | 「血液型と性格が関連している」という差別にたくさん実例があります。よほどバカな人の突発的振る舞いというわけではなく、複数の企業が組織としてそういう意思決定をしてきたわけです。ほかには、例えば細木数子に心酔し、その教義を振りかざして聞く耳を持たない人だって、知っているだけでもけっこういますよ。そのほか、メディアによる影響力という結果から推し量るだけでも少しはわかるでしょう。

 そして、なぜ「人格」を「断定」された方が、「場を改め静かに話を持ちかける」という負担を事後的に負わなければいけないのか疑問です。それ自体心理的な負担であるだけでなく、その行為だけでかなり否定的な評価を受けるような負担です。そういう手法を使うと、たとえば、利権団体による脅しまがいの行動として非難されてしまいかねませんよ。


AB型云々だってたいてい同じこと。ヘンなことをいう奴がいる、何故だ? AB型だから、ということにしておく、と。本気でそう信じ込んでいるケースがどれだけありますか。「当座の仮説」という認識のある人が大半でしょう。

首尾一貫したことをいうAB型の人に対して、「いやこいつはAB型だからきっと裏で逆のことをいってるんだ」なんて、血液型だけを理由に確信するような人は例外ですよ。態度や表情にうまく言葉にできないもやもやした疑念を抱いたときに、「AB型だから」というラベルを貼り、それを理由として口にすることはあっても、実際の思考がその言葉通りの人は珍しいのでは。

インド人の神様 そのようには生きられない・2

 本気でそう信じ込んでいるケースについては既に挙げました。それから、もう一度念を押しますが、当座の仮説という認識ならば、「人格」を「断定」しているわけではありません。だから、

いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。

夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性

 という私の考えへの批判にはなっていません。

 また、もっぱらほとんどの人がどうなのか、大半かどうか、例外かどうか、珍しいかどうかを問題とする徳保さんの態度は、以前、徳保さんからトラックバックがあったときに以下のように書いたときと同じ態度に思えます。

徳保さんはむしろ多数派か少数派かをメルクマールになさっているように思える。少し内容に入るけど、母殺し(未遂)が「少数派か多数派か?」と考えることにそもそもどういう意味があるのだろうか。刑事政策的観点?それにしても……パーセンテージで50%を超えない犯罪は放置する、という姿勢の言明かもしれないが、やや奇異に感じる。

 さらに少し踏み込むが、あるいは「私は多数派に屈しませんよ、あえて違う考えを言いますよ」というスタンスを宣言することで自己紹介とされたのだろうか。批判的なトラックバックの議論の例を上で書いたが、どちらを多数派とみるかによって簡単に変わってしまう。偽悪とかの問題にも絡む。強きをくじき弱きを助けていればそれでいいわけではない。

 どちらが多数派かなどという勢力争いには関係なく、ただ率直に行為の是非や当否を自らのうちで問うべきではないのだろうか。

モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - ポジ・ネガと多数派・少数派の構図を重ね合わせることの危険性

 ただ率直に、

いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。

夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性

 という命題の真偽を考えてください。徳保さんはごく狭い範囲に限定して反応しますと書いている割には、この命題に関連する社会的な配慮から派生するあれこれと、話を一緒くたにしているのではありませんか。


3

もし女性は感情的で、AB型は二重人格で、感情的な人や二重人格の人の主張は無価値と立証されているなら、その対応は別に間違っていないと私は考えます。どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。と主張する人には、甘んじて外道と呼ばれます、と私は答えます。

インド人の神様 そのようには生きられない・2

 〈徳保さん自身が外道と呼ばれることに甘んじるかどうか〉が重要なのではなく、〈その行為を自分はすべきかどうか〉が重要なのではありませんか。

 それと、〈感情的な人や二重人格の人の主張は無価値と立証されているなら〉と徳保さんは書いていますが、何に価値を見いだすかというのは価値観の問題なので、立証が可能な事柄ではありません。


4

確度の低い仮説は言葉にしないという理想を掲げるのはいいけど、現実には無理だというのが私の観察です。AB型は云々なんて信じているわけじゃないけど、そういう言葉があると便利、それが断定表現の内実ではないでしょうか。

インド人の神様 そのようには生きられない・2

 話がずれていませんか。

 私は確度の低い仮説は言葉にしないという理想などは掲げていません。むしろ、私は前回

 徳保さんのおっしゃる主旨はわかるように思います。他人の将来の言動については、経験から推測によって一定の予断を積み重ねていかないと、およそ対処不可能となり、日常生活を送ることは困難でしょう。その過程で、どうしても偏見と言われかねないような一定のバイアスはほとんど必然的にかかるといってもいいかもしれません(良い悪いは別として)。

 また、個人的な心情の吐露や、日常的な会話のレベルでは、もっともらしさや確度の高さについて厳密な表現を常に行うことはほぼ不可能でしょうし、常に行うことが適切だとはまったく思いません。

 ただ、そのことと、今回の件は別の話題です。

夏のひこうき雲 - 「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び

 と書いています。

 それに私は、日常生活における断定表現が問題だとは一度も書いていません。むしろ私は(以下、上記に同じ)。ここまでの記事を参考に、「断定表現」と「断定的な評価を下すこと」の違いを意識してください。


「女は感情でモノをいうからな」といって話を聞かない人の本心は、多くの場合「頭を冷やして出直せ」です。差別心が全くないとはいわない。けれども私の観察するところ、場を改め静かに話を持ちかけてもなお門前払いするのは、よほどバカな人だけです。

だから「女性が常に感情的な発言しかしないという主張は誤りだ」と反証したって、「そんなことは分かってるよ」と怪訝な顔をされるでしょう。

インド人の神様 そのようには生きられない・2

 それも、ずれています。常にしかしないなどという、相手が言ってもいない表現に改変して強い批判をする人を例に挙げることによって、批判をする人を滑稽でおかしな人として描いています。


5

 以下の(1)(2)(3)のうち、(1)のみが問題で(2)(3)は問題視するべきではないというのが徳保さんの出発点ですよね。

いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。

夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性


 くどいですがもう一度まとめます。

 「(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことは問題だ」ということと、「人の言語コミュニケーションは、「当座の仮説」を必要とする*」ということは、お互いに対立する考え方ではありません。言い換えれば、後者は前者に対するアンチテーゼにはなりません。だから、前者に対する批判として、後者のようなことを述べても意味がありません。

 さらに、後者については、既に書いたとおり、私は同意していることを示しています。同意していることを私が示している以上その意味でも、何度書かれても私の記事に対する批判にはなりません。

 しかし、徳保さんは、私が同意していないかのように書かれているので、おそらく私の記事に対する批判として書かれているのでしょう。


 そこで私の記事に対する批判として読んだとしても、今回の記事中で何回か触れたとおり、テーマがずらされています。意図的にか無意識にかわかりませんが、毎回、ミスリードを誘い、私(左近)の記事に対する批判には根拠があると思わせるようなずれ方です。「不当な基準≒論理的に破綻している判断基準」については、徳保さんも問題だと認めているはずですから、そのようにテーマをずらすのは避けてください。あるいは、論理的な破綻に気をつけてください。「一応別のテーマだが」と断って提示するのはかまいませんが。


6

 徳保さんの考えについて意見を述べる前に、ほとんど「それは批判になっていない」ということだけで、これだけのスペースと労力と時間を費やしてしまいました。最後に、2005年に徳保さんからの反応に対して書いたことを、もう一度書きます。

 私の前回の記事 ポジ・ネガと多数派・少数派の構図を重ね合わせることの危険性につけられたはてなブックマークでは、トクホンの根本的なところに言及した文章って珍しいだとか、核心突いたというコメントも見かけた。

 私の書いた記事をほめてくださっているようなので悪い気はしないが、私は誰か人間の根本的なところとか核心を突くというような姿勢に対してはかなり自戒している。

 そもそも誰かを完全に理解することなど人間には不可能だし、何か理解したように思ってもそれをことさらに「あの人はこういう人だ」とわかったようなことを言って断罪するのはまったく傲慢で不当なことだからだ。

 だから、人間そのものに対してどうだとは言わないようにしている。感謝や尊敬の念が抑えられないときには、「すごく優しい人だ」とか「あの人を尊敬している」と思ったり言ったりはすることがあるが、逆の方向つまり否定的な断定はできるだけ避けたいと思っている。

モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 「コスト意識だけで「常識」を選択してもよいが……(補遺)」を読ませていただいて

 もう少しここで言葉を足す必要を感じるので書くのだけれど、徳保さんがどうしようもなく魔道に墜ちている、救いようがないなどとは私は思いません。こうしてご自身に対する批判的な(私の)記事に対しても丁寧に応答してくださっているから。

 誰か他の人に対して「救いようがない」などと言う人は(どなたにどういうタイミングで言われたのか知りませんが)、おそらく人間の可塑性や議論・対話の価値を(そう言ってしまった時点で)相当低く見積もっているのだろうと思います。そのような姿勢は、自分自身が対話によって考えを深める可能性をもほとんど無くしてしまうことになるし、自分をも断罪してしまうことになる*1ので、残念ではあります。

モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 「コスト意識だけで「常識」を選択してもよいが……(補遺)」を読ませていただいて

 どうか徳保さんも人間の可塑性や議論・対話の価値を低く見積もりすぎないでください。そして「人格」に対する「断定」的な評価は、そのような固定された人間観とワンセットなんですよ。

 前回さらっと書いておきましたが、

相手の人格を断定することはできないからこそ、「信頼」という概念が出てくるのではありませんか。

夏のひこうき雲 - 「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び

2007/03/03(土)

「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び


 2004年に書いた記事夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性*1に、徳保隆夫さんからそのようには生きられないという反応を頂きました。徳保さん、お久しぶり。

いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。(1)(2)(3)それぞれに問題がある。そして血液型のアレは(1)(2)(3)すべてを満たしている。

夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性

 という部分に対して、

私はいずれも程度の問題だと思っています。とくに(2)と(3)については柔軟に考えたいと思っています。だから日常生活において、血液型性格判断への批判は(1)に限定しています。

そのようには生きられない

 とのこと。私もごく狭い範囲に限定して反応しますね。


(3)については、ある程度の材料があるなら断定してよいということにしないと、裁判なんかいつまで経っても終わらない。判断を迫られる場面はあるということです。

そのようには生きられない

 裁判で判断されるのは、「人格」ではありません(刑事裁判においては人格責任論という考え方もありますが、それはある行為に出たことについてのというような、また違うレベルでの話です。ここでは説明を省略させてください)。それに三審制がある以上、限定的な事項についての判断でさえ、それが確定するまでには、慎重に慎重が重ねられていますよね。

結局、問題は(1)なのです。人格にかかわるあれこれは、その根拠をきちんと詰めていくなら、「**の人はそうでない人と比較して**であることが多い」としかいえないことが大半です。だったら人格を断定的に語るのはほとんどのケースで間違いだといえるよね? 違うと思う。天気予報の降水確率のように、「30%」なら「30%」として断定的に語ることはできるし、これを否定したら人間関係は崩壊してしまう。

そのようには生きられない

 それは「断定」とは言わないと思いますよ。たとえば、「明日は雨です」というのが断定。

 「**の人はそうでない人と比較して**であることが多い」としかいえないことが大半です。だったら人格を断定的に語るのはほとんどのケースで間違いだといえるよね? 違うと思う。天気予報の降水確率のように、「30%」なら「30%」として断定的に語ることはできるし、これを否定したら人間関係は崩壊してしまう。とのことですが、私はまったく徳保さんと正反対の考えかも。人格を断定的に語るのはほとんどのケースで間違いだといえると思う。それに、誰か他人の人格を断定することによって、その相手との人間関係はむしろ崩壊してしまうのだろうと思っています。


100%信頼できる人以外は「信じてよい」と断定できない? それでは仕事にならない。「万が一ということもあるよなあ」と考え、その備えも進めつつ、「わかりました、よろしくお願いします」と契約する。納期とかですね、3割の信頼でも契約することがないではない。

そのようには生きられない

 「相手を信じてよいかどうか」は、相手の「人格」を断定することとは一応別問題です。この文脈で人格という言葉を多用するのはややずれてきてしまうかもしれませんが、相手の人格を断定することはできないからこそ、「信頼」という概念が出てくるのではありませんか。

当然、九州出身でもいろいろな人がいることはみな知っています。だから事実によって反証されたらすぐに主張を撤回する用意はある。

そのようには生きられない

 それは「断定」とは言わないと思いますよ。

被害者が抗議しても、抗議自体が「女性は感情的だからな」「AB型は二重人格だからそういう抗議をする」などという話に解消されてしまって、まともに受けとめてもらえない(こういうのはフェミニズムや人種差別の分野なんかでよくある議論)

夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性

 という部分は読まれたのだろうかと疑問に思いました。


 また、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断*するからこそいっそう問題だと私は考えているのですが、この点については

どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。

モヒカン族 - モヒカン宣言

 を引いておきます。


わからないものを経験と知識から推測して、仮定を立てて対処していかねばならない。

そのようには生きられない

 その通りです。そしてそれは「推測」とか、せいぜい「推定」にとどまります。「わからない」のが前提ですし、それを忘れてはいけないと思います。


極端な事例に対し NO というだけでいいと思うのです。例えば、星座のために就職の面接で不採用となるのはおかしいが、占星術まで社会から排斥しなくていいのではないか。

そのようには生きられない

 私はけして社会から排斥するべきとは書いていません。ただ、こうした事柄は、極端な事例が出てからNOといっても遅い。いずれも程度の問題ならば、極端でない事例も質的には同質であって、NOというべきなのは変わらない、ということになるのではありませんか。もちろんNOと言う程度は変わってくるわけですが。


 全体的に、「人格」の「断定」は問題ではないと書きつつ、ご自分が挙げた例について、これは「決めつけ」ではないから問題ないというような論調に思えますが、そういうロジックは成り立たないと思います。

 徳保さんのおっしゃる主旨はわかるように思います。他人の将来の言動については、経験から推測によって一定の予断を積み重ねていかないと、およそ対処不可能となり、日常生活を送ることは困難でしょう。その過程で、どうしても偏見と言われかねないような一定のバイアスはほとんど必然的にかかるといってもいいかもしれません(良い悪いは別として)。

 また、個人的な心情の吐露や、日常的な会話のレベルでは、もっともらしさや確度の高さについて厳密な表現を常に行うことはほぼ不可能でしょうし、常に行うことが適切だとはまったく思いません。

 ただ、そのことと、今回の件は別の話題です。


 このテーマについての私の考えにもう少し興味がある方は、以前書いた記事モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 人格/思考様式/言動もご覧いただけると幸いです。


追記:血液型別「性格診断」や星座などの話題については、以前夏のひこうき雲 -  血液型別「性格診断」関連の書籍に、私が書いた関連の記事を7つ挙げました。こちらもよかったらご参考になさってください。

*1:以前とははてなダイアリーでの記事へのリンクの仕組みが変わっているので、今回個別記事へのリンクに直して記載しておきます

2007/03/02(金)

性能が良くてとても軽いのに、それほど値段が高くないウイルス対策ソフト


 私はここ数年、ウイルス対策ソフトに「NOD32」というソフトを使っているんですが、かなり満足しています。それまで2社ぐらいのソフトを使ったことがあったんですが、やたら重くなったりとか、インストールがどうしてもうまく行かなかったりだとか(メールでサポートを受けても埒があきませんでした)。

 NOD32は全然重くない、というかとても軽い。英語でいうと、マジ軽*1。異常終了や応答しなくなったことも、一回もありません。

 他のソフトに干渉したことも皆無。何かをインストールするときによく、「起動している他のアプリケーションをすべて終了させてください」とかいう注意書きがありますよね。私は横着して、NOD32を終了させずにインストールするのですが、問題が生じたことは一度もありません。(別に、インストールの際の注意書きを無視することをお勧めするわけではないのですが、無線LANを使っていると、ウイルス対策ソフトを終了するためにいったん通信を切るのが面倒ですよね。)


 で、最近某徳島の会社から、お強そうなひげのロシアンおじさんソフトが出たじゃないですか。あれにちょっと食指が動いたんですが、ネットのあちこちに載っている比較データを見ると、NOD32のほうが軽い。それに定義ファイルとヒューリスティックな分析(まだ定義ファイルのない新種ウイルスを、振る舞いから判別する機能)を併用している点も同じだし、性能もそんなに遜色なさそう。しかも少し安い!ので、NOD32を使い続けることにしました。

 と思ったら、NOD32が2月27日に無償バージョンアップ。さらに軽くなりました。さらにといっても元々ほとんど気づかない程度の重さなのですが、助かります。


 というわけで、皆さんにもご紹介したいと思い、ふだんあまり書かないような内容の記事を書いてみました。

 あまり聞かない名前のソフトですが、販売しているのはキヤノンシステムソリューションという会社なので、ブランド的な不安も私は感じませんでした。(別にお金とか利益をもらって提灯記事を書いているわけではなく、単純に、これ便利だよ!と友だちに伝えたいという程度の話です。)

 某ソフトとか某ソフトがほんと重いよなあとか思っている方はぜひどうぞ。


NOD32アンチウイルス V2.7

NOD32アンチウイルス V2.7


キヤノンシステムソリューションズ:NOD32 アンチウイルス V2.7

*1:これは英語ではありません。