「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び


 2004年に書いた記事夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性*1に、徳保隆夫さんからそのようには生きられないという反応を頂きました。徳保さん、お久しぶり。


いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。(1)(2)(3)それぞれに問題がある。そして血液型のアレは(1)(2)(3)すべてを満たしている。
 という部分に対して、

私はいずれも程度の問題だと思っています。とくに(2)と(3)については柔軟に考えたいと思っています。だから日常生活において、血液型性格判断への批判は(1)に限定しています。
 とのこと。私もごく狭い範囲に限定して反応しますね。



(3)については、ある程度の材料があるなら断定してよいということにしないと、裁判なんかいつまで経っても終わらない。判断を迫られる場面はあるということです。
 裁判で判断されるのは、「人格」ではありません(刑事裁判においては人格責任論という考え方もありますが、それはある行為に出たことについてのというような、また違うレベルでの話です。ここでは説明を省略させてください)。それに三審制がある以上、限定的な事項についての判断でさえ、それが確定するまでには、慎重に慎重が重ねられていますよね。


結局、問題は(1)なのです。人格にかかわるあれこれは、その根拠をきちんと詰めていくなら、「**の人はそうでない人と比較して**であることが多い」としかいえないことが大半です。だったら人格を断定的に語るのはほとんどのケースで間違いだといえるよね? 違うと思う。天気予報の降水確率のように、「30%」なら「30%」として断定的に語ることはできるし、これを否定したら人間関係は崩壊してしまう。
 それは「断定」とは言わないと思いますよ。たとえば、「明日は雨です」というのが断定。

 「**の人はそうでない人と比較して**であることが多い」としかいえないことが大半です。だったら人格を断定的に語るのはほとんどのケースで間違いだといえるよね? 違うと思う。天気予報の降水確率のように、「30%」なら「30%」として断定的に語ることはできるし、これを否定したら人間関係は崩壊してしまう。とのことですが、私はまったく徳保さんと正反対の考えかも。人格を断定的に語るのはほとんどのケースで間違いだといえると思う。それに、誰か他人の人格を断定することによって、その相手との人間関係はむしろ崩壊してしまうのだろうと思っています。



100%信頼できる人以外は「信じてよい」と断定できない? それでは仕事にならない。「万が一ということもあるよなあ」と考え、その備えも進めつつ、「わかりました、よろしくお願いします」と契約する。納期とかですね、3割の信頼でも契約することがないではない。
 「相手を信じてよいかどうか」は、相手の「人格」を断定することとは一応別問題です。この文脈で人格という言葉を多用するのはややずれてきてしまうかもしれませんが、相手の人格を断定することはできないからこそ、「信頼」という概念が出てくるのではありませんか。


当然、九州出身でもいろいろな人がいることはみな知っています。だから事実によって反証されたらすぐに主張を撤回する用意はある。

 それは「断定」とは言わないと思いますよ。


被害者が抗議しても、抗議自体が「女性は感情的だからな」「AB型は二重人格だからそういう抗議をする」などという話に解消されてしまって、まともに受けとめてもらえない(こういうのはフェミニズムや人種差別の分野なんかでよくある議論)
 という部分は読まれたのだろうかと疑問に思いました。


 また、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断するからこそいっそう問題だと私は考えているのですが、この点については


どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。
 を引いておきます。



わからないものを経験と知識から推測して、仮定を立てて対処していかねばならない。
 その通りです。そしてそれは「推測」とか、せいぜい「推定」にとどまります。「わからない」のが前提ですし、それを忘れてはいけないと思います。



極端な事例に対し NO というだけでいいと思うのです。例えば、星座のために就職の面接で不採用となるのはおかしいが、占星術まで社会から排斥しなくていいのではないか。

 私はけして社会から排斥するべきとは書いていません。ただ、こうした事柄は、極端な事例が出てからNOといっても遅い。いずれも程度の問題ならば、極端でない事例も質的には同質であって、NOというべきなのは変わらない、ということになるのではありませんか。もちろんNOと言う程度は変わってくるわけですが。


 全体的に、「人格」の「断定」は問題ではないと書きつつ、ご自分が挙げた例について、これは「決めつけ」ではないから問題ないというような論調に思えますが、そういうロジックは成り立たないと思います。
 徳保さんのおっしゃる主旨はわかるように思います。他人の将来の言動については、経験から推測によって一定の予断を積み重ねていかないと、およそ対処不可能となり、日常生活を送ることは困難でしょう。その過程で、どうしても偏見と言われかねないような一定のバイアスはほとんど必然的にかかるといってもいいかもしれません(良い悪いは別として)。
 また、個人的な心情の吐露や、日常的な会話のレベルでは、もっともらしさや確度の高さについて厳密な表現を常に行うことはほぼ不可能でしょうし、常に行うことが適切だとはまったく思いません。
 ただ、そのことと、今回の件は別の話題です。


 このテーマについての私の考えにもう少し興味がある方は、以前書いた記事モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 人格/思考様式/言動もご覧いただけると幸いです。


追記:血液型別「性格診断」や星座などの話題については、以前夏のひこうき雲 -  血液型別「性格診断」関連の書籍に、私が書いた関連の記事を7つ挙げました。こちらもよかったらご参考になさってください。

*1:以前とははてなダイアリーでの記事へのリンクの仕組みが変わっているので、今回個別記事へのリンクに直して記載しておきます