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 はじめに

2007/06/30(土)

2006年の5冊を無理に選んだ


 chirashino☆ura2 - 今年の○冊ブックマークして、

あとで書く予定, book, 後で読む

はてなブックマーク - chirashino☆ura2 - 今年の○冊

 とコメントしてからもう半年ちょっと。2007年上半期が終わる前に書いておこうと思います。


本多静六『私の生活流儀』

私の生活流儀

私の生活流儀

 明朗闊達な爺さんのナイスな生き様。「ホルモン漬」や「ニュー・レインコート」にややうけ(読んだ人はわかります)。別にいわゆる癒し系ではないのに、読むと元気になります。まったく詰襟の本多か、本多の詰襟かわかったもんじゃないよなー。この爺さん、若い頃は思い詰めて井戸に身投げしよったことをご本人はさらっと書いてすませてるけど、その後吹っ切れたように大活躍。

 今時のlifehacksなんぞ……という人はこの爺さんの骨太爆笑実用アイディアたちに触れつつ、愉快に生きていこうじゃありませんか。という気分にさせられる。

 本多静六さんの著書は復刊されてシリーズになっており、解説者には自己啓発系のよく知らない方たちもいるので、そういうところに分け入っていくのは別におすすめしません。


V.E.フランクル『夜と霧』

 「読んだことないけどなんとなくこの本のことは聞いたことがある」という人は、漠然と重苦しい印象を持っているかもしれない。でも、ノンフィクションでなく小説でなら、もっと嫌な情景はたくさん描かれているものもたくさんあるし、私はそんなに不快感だけが残るということはなかった。もともと人間は醜いものだしというか。

 むしろ、その醜悪で悲惨な状況の中でも、筋を通して生きようとした、あるいはこっそりと親切を届けた人たちのことの方が今では記憶に残っている。そういう、じつはとても爽やかな本。

 別にフランクルが聖人だからとかではなく、ということをご本人はその後も一生懸命伝えようとしているのだけど、なかなか。


 読んでない人は読んだ方がいいよ。新版の方は読んだことないけど。

 関連して『それでも人生にイエスと言う』は、『夜と霧』よりもフランクルの考えがわかりやすくまとまっている。


V.E.フランクル『それでも人生にイエスと言う』

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

 なんというか快感のために生きようとすれば非常に人生はむなしいけど、自分は人生に何を望んでいるかではなく、むしろ自分が人生から何を問われているのか、という視点。むしろそう考えた方が楽だし生き甲斐ありまくり。たとえばグレッグ・イーガンが『夜と霧』やこの本を読んでどこまで相対化できるか見てみたい(あるいはイーガンの苦悩さえほどけるかもしれない)。落ち込んでる時はこの本のことを思い出して支えられます。元気モリモリです、根深いところ(?)から。


ビル・ナーグラー, アン・アンドロフ『ビルとアンの愛の法則』

 これはこの年(2006年)、全文タイピングして電子化しました。できるだけ毎日(1日に法則1つ分ずつ)見てる。恋愛などに限定した話でなく、広く対人関係にいい本。アメリカにはこの本が必要で、日本には中島義道が必要で、私にはこの本がとても有益でした。


内村鑑三『一日一生』

一日一生

一日一生

 私の朝はいつもケロッグのコーンフロスト*1と『一日一生』から!

 カンゾー先生序文に曰く、

 一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用する道は神の言を聴いてこれを始めることにある。一日の成敗は朝の心の持ちかたによって定まる。朝起きてまず第一に神の言を聴いて神に祈る、こうして始めた日の戦いは勝利にならざるをえない。たとえ敗北のように見えても勝利であることは疑いない。そしてこういう生涯を終生継続して一生は成功を持って終わるのである。

 ……私はときどき何日分かまとめて勝利してます。ふだんはだいたい毎日勝利してるんですが。

 『一日一生』は、聖書の箇所の引用に続いて、内村鑑三の感想とか著書、講演の一部が書いてあるもの。1ページが1日分で、合計366日分。

 キリスト教徒は神以外を神格化しないけど、昔生きててもう死んだあるおっさんがこの聖書の箇所に触れてこんなことを考えていたんだなあと毎日教えられています。内村鑑三はなんというか、朝露に濡れた葉や夜空に煌めく星々といった自然への細やかかつ雄大な感性があって、そういうところもステキおっさん。


 といったところで5冊そろったので、今年の上半期の私の仕事はこれで終わります。ご紹介した本は四の五の言わずに読むといいさ。別に難しくないよ。人生に損得があるとしたら、今回の5冊を読んだら「あー得した!」とお思いになると思います。そして手元に置いておきたくなーる。

「スーダン・ダルフール危機に関心を寄せるブロガーのリスト」からこのブログが削除されたことに関連して


 スーダン・ダルフール危機情報wiki - 日本人ブロガー・リストが更新されていたので、さっき見てみた。

 ……しばらくしてあれ?と思った。自分のブログがリストから削除されている。

なお2007年以降現在リンク切れやダルフール関連記事不更新ブログを削除しました。

スーダン・ダルフール危機情報wiki - 日本人ブロガー・リスト

 管理者のfinalventさんが削除されたのか、それともはてなブックマーク - スーダン・ダルフール危機情報wiki - このサイトは停止中に私が

social, writing 中傷記事が出現した/事実と異なる/部外者という用語に表れている執筆者の思想

はてなブックマーク - スーダン・ダルフール危機情報wiki - このサイトは停止中

 というブックマークコメントを書いたことで、その「中傷記事」を書いた人が何か触発されたのか。あるいはまた別の方かもしれない。

 2007年以降現在リンク切れやダルフール関連記事不更新ブログを削除しました。という表現の意味も、よくわからない。「以降」は何を表しているのか、「関連記事不更新」と判断される期間はどの程度なのか。


 私がダルフールという言葉をブログに書いたのはここ最近では以下の記事。


 一番最後は2006年7月17日。1年弱経過していればリストに残る価値はない、とどなたか判断したらしい。1年弱というのでなく単に、夏のひこうき雲 - スーダン・ダルフール危機に関する記事の一覧だけを見て、文中の

なお、以下のリストは、このWebサイト内で言及した記事すべてを網羅しているわけではありません。このWebサイト内の「ダルフール」検索結果(1ページに表示されていない記事は「前の○日分」のリンクからさかのぼれます)も参考になさってください*

 という記述は読み飛ばしたのかもしれないが。


 そもそもあれは「スーダンダルフール危機に関心を寄せるブロガーのリスト」であって、「コンスタントにダルフール情報を掲載しているブログのリスト」ではないので、そういう風にブログの取捨選択を誰かがすることは元々想定されていないと思うのだけど。多様なブログがあり、「そのブログの執筆者も関心を持っているのかぁ」という署名みたいなものではなかったのかな。


 ただ、編集合戦のようになるのは非常にむなしい気がするので、自分で編集して自分のブログを再掲載する気はない(またどなたか再掲載される方がいればそれはそれで受け入れる)。

 というのは、私としては以下のような心境だから。2年近く前に書いた記事を引用する。夏のひこうき雲 - ダルフールと私の関わり、その後

 私は関心を持っているだけで、何もしていない。


 最初の頃はこの件に関する自分の感覚や心情をぶざまに書き連ね、失笑もかっていた。(あ、何もしていないと書いたけど、何か要約はしたな。何の要約をしたかも忘れた。確認した。wikipediawikiによって閲覧者が自由に編集する百科事典)内のダルフール紛争**の項を要約したものだ。これ。)


 最近はそういうものもあまり書かなくなった。ときおり書いても夏のひこうき雲 - スーダン・ダルフール危機に関する記事の一覧に追加はしていない。Save Darfur.org :: Wristbandsも購入していない。浮雲で関連記事をクリップしている程度だ。

はてなブックマーク - 浮雲 - ダルフールの検索結果


 だが、関心は持ち続けている。私などが「関心を持つ日本人ブロガー・リスト」のはじめの方に名前を連ねているなんてまったく馬鹿みたいだし、偽善とか思い上がりなどと言われてまあその通りだなと思う。アクセスがある度にじわじわと自嘲の思いが募る一方だが、「関心を持っている」というのは間違っていない。で、リストから自分のブログは消していない。

夏のひこうき雲 - ダルフールと私の関わり、その後


 まあ「私は関心を持っているだけで、何もしていない」というのはただの感慨によるもので、実際にはスーダン・ダルフール危機情報wikiにときどきニュースの紹介記事を掲載したり、既に掲載された記事の誤字・脱字を修正したり、他にも。善行に見えることはあまり人には言いたくない。


 私に独自の見識などはとくにない。文もうまくない。著作権法上の問題がある(翻訳を含めた翻案権は著作権者に留保されているし、引用も正当と認められる一定の範囲内でしか許されない)から、実際上は検挙されないとしても、単にコピペや和訳を掲載しただけの記事は書きたくない。

 だから、これからも浮雲はてなブックマークというサービスを利用したWebページのクリップ集)で関連話題を拾っていく他は、なにか新しい言及はこの夏のひこうき雲では今後ほとんどしないかもしれない。

 でも、関心は持ち続けている。そのことを改めて読者の方々にお知らせしておきます。

*1:冗談です、ケロッグのシリアルは久しく食べてません

2007/06/24(日)

親指シフト、おすすめします


 夏のひこうき雲 - 親指シフっている夏のひこうき雲 - まだ親指シフっているの続き。


 既にローマ字の時よりも入力速度が早くなっています。それでいて手は疲れない。親指シフグレソル*1、余は満足です。


 あえてデメリットを書くなら、

  • キーを叩く速度自体は、ローマ字の時よりはポツポツ感がまだある。そのせいで、周りの人に「ほれほれ 我がタイピング奥義を見よ!見さらしたまえよ!遠からん者も音に聞け!」と誇示する快感*2が味わえない(その分静かだけど)。
  • 両手が空いている時でないとできない

 というぐらいか。でもローマ字での入力も忘れていないから、親指シフトを憶えたことの弊害にはあたらない(「Alt」 + 「ローマ字」キーを押せば、同じキーボードでローマ字での入力に切り換えも可能だし)。


 最初に慣れるまでが大変だけど、その後は楽しい。全然慣れないうちに、議事録等の速記系ノートを(親指シフトで)とるときには心で半泣きになります、が、ぜひ頑張って習得されると、その後の人生が少し楽になります(同じ量の文章を入力するのに必要な打鍵数が減り、速度が上がるので)。別に焦ってるときにはローマ字で入力しても良いけど、早く憶えるにはしばらく親指シフト漬けになっておくといいっぽい。

 大人になってから新しい学習をするのって新鮮な体験だし、自分を実験台にした結果から、軽くお勧めしておきます。

 ご参考のために、練習のプロセスを記しておきます。(WindowsのPCを念頭に置いています)


  1. NICOLA 日本語入力コンソーシアムの中のページ、親指ソフトウェアライブラリ >>> エミュレーションソフトから、親指ひゅんQというソフトをダウンロードする。現在のバージョンは4.34。
  2. ダウンロードして解凍した親指ひゅんQのフォルダをProgram Filesフォルダの中の適当なところへ置く。スタートアップフォルダにOyaoyaq.exeへのショートカットを置いておく。
  3. 解凍した親指ひゅんQのフォルダの中のoyaq.htmlというファイルを開き、ふんふんと読む。ATOKの人は、oyaq.html中の指示に従い、いったん「標準の言語」をATOK以外にして再起動し、その状態でATOKを(ローマ字変換でなく)カナ漢字変換の設定にしてから、ATOKを標準の言語に設定し直す。
  4. 親指シフト - Wikipediaから、「NICOLA仕様配列」という項目にある配列表の画像ファイルをダウンロードし、いつでも見られるようにその画像ファイルのアイコンをデスクトップに置いておく。印刷するとなおよい。
  5. タスクトレイの親指ひゅんQのアイコンを右クリックしてプロパティの画面を開き、「動作」タブで「NICOLA配列にする」「起動時に設定を読む」「起動時にNICOLA」の左側のチェックボックスをクリックしておく。(途中でローマ字に変えたくなった時は適宜チェックを外す。)
  6. 配列表の画像(または印刷しておいたもの)を見ながら、自分の好きな文章、業務で必要な文章を入力する。ここでくじけそうになるが、むしろそのぎこちなさを楽しむ。
  7. だんだん慣れて速くなってきたことに自分でややうけながら、まだある引っかかりの感覚を、消えゆく幼き日の思い出としていとおしむ。いとおしんでいるうちに次第に消えてゆく。

 あとは基本的にないんですが、私なりのコツを書いておきます。

  • 連続した一連の決まった言い回しを入力することが意外と多いので、意味の区切れごとに、先に頭の中で指の動きをシミュレートすると、早く入力できるし憶えやすい(私は最初はそんな余裕はありませんでしたが)。たとえば、「できる」という決まった言い回しについて。
  • 単にキーを押し下げするというのではなく、入力しながら両手のそれぞれがどう傾きを変えてゆくか、意識して少し大げさに手首も含め傾きを変えたりすると、入力がしやすく速くなる。ホームポジションは守りつつ、しかし、それにあまりとらわれない。(親指ひゅんQではBackspaceが右手の小指、「* : け」と印字されているキーでできるので、ローマ字入力のときよりもホームポジションから手を大幅に頻繁に動かさずにすみます。)
  • アルファベットを入力したい時は、いちいち「半角/全角」キーまで手を伸ばさなくても、親指でポンと「変換」または「無変換」キーを押すと半角アルファベットを入力できる状態になる(ATOKの場合)。ただし、文字を入力中(まだ「確定」していない)ときは普通に漢字に変換する動作になります。平仮名を入力できる状態に戻す時も、同じく「変換」または「無変換」でできます。
  • 左の親指シフトキーは、キーボードの形状によってはスペースキーに設定してもいいですが、初期設定どおり「無変換」キーのままの方がいい気がします。

 そうそう、肝心の入力方法ですが、最初に配列表を見ても何のこっちゃ状態だと思います。

一つのキーに複数の平仮名が記載されていますが、

  • 下の段(下の段に複数ひらがなが記載されている場合は、右下)の文字は、
    そのまま押すと出る
  • 下の段の文字を濁点付きで入力したい場合は、
    〈違う側の手の親指シフトキー〉と同時に押すと出る
  • 上の段の文字は、
    〈その文字と同じ側の手の親指シフトキー〉と同時に押すと出る
  • 半濁点が付く文字、つまり「ぱ」行は、
    キーに左下の文字として記載されている。そのキーについては、
    〈違う側の手の親指シフトキー〉と同時に押すと、当該ぱ行の文字が出るようになっている

 この記事を書くのに費やした休日の数十分が、皆さんの今後の数十時間?を節約するのに役立つなら、余は満足です。

 何か必要な情報が欠けていたり間違いがあったりしたら、どうぞお知らせください。

追記:

 その後の親指シフト状況 - 夏のひこうき雲に続編を書きました。

finalventさんへのお詫び、それとモラルについて


 極東ブログ: モラルの低い人を傍観する時を読んで、ずっと気にかかっていたことを思い出した。

>内戦は所詮、当人同士が摩耗するまで殺し合えばいい。テロもまた拡張された内戦と見れば、摩耗するまでやるしかない、ということになる。

これがfinalventさんのご意見なのかどうかよくわかりませんでしたが、国家や民族という大枠で見て、実際にこういう主張をしている人もいるようですね。勝手に喧嘩させておくしかない、みたいな。そういうやむを得ない面も大きいと感じます。

しかし巻き添えになる人々の中で子どもについては、弱いというだけでなく、そのような状況を作りだした責任を一切負っていないのでいっそう問題です。

その犠牲をその国家や民族に生まれたという「生まれ」だけによって容認するということには抵抗を感じます。

finalventの日記

 と、2004年9月7日に書いた。お返事を頂いて気づいたのだけど、実際にこういう主張をしている人もいるようですね*というのは極東ブログで読んだということを忘れていた。極東ブログ: [書評]戦争を知るための平和入門(高柳先男)

 書いた時の意識としては、著者の高柳先男のことを念頭に置いていたのかもしれないが、いずれにせよ、文脈からいって失礼な当てつけとして機能することを考えていなかった。


 そういう皮肉っぽい当てつけのような書き方は失礼だと思っているので、意識的にはしたことがないし、これからもしないと思う。

 finalventさん、その節はたいへん失礼なことをしてしまいました。お詫びします。


 なぜ上のコメントのことを思い出したかというと、

他国人を嫌悪する根拠も偶然的なものだし、親がいて大人になれたというのも偶然に近い。別の偶然は人をこうのとりのゆりかごに運ぶかもしれない。そうする大人にはモラルが問われるかもしれないが、産まれてきた子供には問われるわけもない。そして我々がその子供でなかったというのは偶然でしかない。偶然のもたらす悲劇に対してできるだけ公平であること、あるいはそうした偶然の悲劇をもたらさないように僅かに試みることがモラルかもしれない、とか、ぼんやり思う。

極東ブログ: モラルの低い人を傍観する時

 という記事文末を目にしたから。


 あんまり連呼したりすることではないんだろうけど、自分の行動や選択の責任として不利益を被るのはある程度仕方ない。だめんずウォーカーから高齢者相手の親切な詐欺まで、(私としてはいいとは思わないけど)本人が納得していれば他人がどうこう言えない場合もある。

 ただ、というところで、最初に引用した私のコメントのような。


 あと、なんというか子供は親に従属的な存在と考える人ならこうは考えないのだろうと思った。妊娠中絶とかとも絡むけど。

男女、母子、『やさしいライオン』


 finalventの日記 - 増田的議論というか告白というかを読んで、ふと『やさしいライオン』を思い出した。まったく存在すら忘れていた。あの「それいけ!アンパンマン」のやなせたかしの作品らしい。

やさしいライオン (フレーベルのえほん 2)

やさしいライオン (フレーベルのえほん 2)


 検索してみたらやなせたかしご本人がコメントされているページが見つかった。一部を引用。

「やさしいライオン」はいちばんはじめにラジオドラマとして発表したものを絵本にした。

 僕にとっては無数といっていいほどの数の絵本やメルヘンを創作し、そのなかから現在の代表作であるアンパンマンも生まれた。

 「やさしいライオン」がなければアンパンマンも絵本化されなかったと思う。「やなせさんの作品のなかでは、やさしいライオンがいちばんいいですね」といわれることが多い。

アンパンマンショップ やなせたかし絵本

 絵本ナビ「やさしいライオン」の詳しい情報では「死と向き合う絵本」と分類されている。

 最後にムクムクとブルブルが飛ぶ空の色を今でも思い出す。

 今ではこうした心の動きを冷たく見つめる視点を持ってしまっているし、子供に読ませるのが適当かどうかもよくわからない。子供の時でも、大きくなってからでも、読み手が男性か女性かによって受け止め方は内面では大きく違うのではないかと思う。

 でももう一度読んでみたくなった。


 やなせたかしは、作詞したTVのアンパンマンの歌詞がよく揶揄されるが、人間の内面やその機微を深く洞察している人だと思う。

ただテレビアニメ版では、やなせ本人が「アンパンマンは架空の存在」と述べていることもあり、あえて誕生日は設定されていない

アンパンマン - Wikipedia

 という逸話からも、キャラクターに対するアニミズム的なトーテム的な感覚からは距離を置いている気がする。そういう感覚で思い出せば、新キャラなんかすぐ作れる、といってTVに出演している時もその場で書いて見せていたあれも、別に自分の能力を誇っているというほどのつもりはなく、キャラクターなんてその程度のものということが前提にあるのかもしれない。

*1:「シフグレソル」というのはアーシュラ・K・ル・グィン『闇の左手』に出てくる概念です。この記事では、「シフト」という言葉のただの駄洒落として使いました。

*2:もともと私はタイピング音が静かですが

n o n e c on o n e c o 2007/06/25 10:40 なんか、スゴイな。大丈夫なのか? ブログの男たち。目の前の現実はどうなってんだ。頭の中だけを見ているような?? ちなみに私のモラルは相当低いし、私には公平なんかない、いつも、今、臨機応変。ブログの男たちの残酷なところは、70歳の無学な労働者に対しても、わけのわからない言葉や態度で接するとしか思えないところだなぁ。ずっと底辺で肉体を使って働いてきたんだよ。日本のためでないかもしれないけど、首を回らなくなっているというし、足は歩くと常に痛いというし。そういう人たちは除外されているのかなぁ。理想というのは、自分の胸の中で思い描いていて、本当に求められたときに語ればいいんじゃないのかなぁ。細かいところは、読んでいないからよくわからないけど、ずいぶん器量の小さい腹だなぁと、思ったりもする。ネットでは、犯罪行為以外は、何をしてもいいものだと思うよ。ブーイングだって、ちょっとした悪戯だって、からかいだって、自然なことのような気がするし。そもそも、自分が世の中に適応するしかないのに、世の中の方に悪いことがあって、そこをなんとかすれば、うまくいくなんて、民主主義の法体系では絶対にありえないよ。先に書いた、70歳の無学な肉体労働者も、私も有権者なんだよ。だいたい、モラルなんて書き出すくらいなら、自分で手本を見せればいいだけだと思うよ。口だけでなく。こっそり書くことにならないと思うけど、野猫リングに参加してくれた人の一人は、たぶん、貧乏な国の人たちを助ける国際組織に属しているような、野猫分析があって、あはは。公平と不公平がごっちゃの国で、いやぁ、どーしてんだろうなぁ。どう感じるのかなぁ。とにかく、単なる自分の不幸を自分で理解できない人は、理想で他者を傷つけるだけだと思う。だって、その前述の70歳の肉体労働者は、不幸かというと、どちらかというと幸福な人で、幸福だからこそ、一々、私のモラルの低さを指摘なんかしないし、だからといって不正に対しては厳しい判断はちゃんとしている。今までの経験でも、不幸な人ほど、私の現実を知ると、異常に心配して、あーだこーだと親切の押し売りをしつつ、自分の利益はごっそりもっていくというのが多いんだ。
あ、もしかしたら、話がぜんぜん違うかぁ? あはは。違うついでに、指輪っておもしろいよ。小指にして寝てごらん。とくに左指。もしかしたら、親指シフトも関係あると思うけど、指の使い方で、気持ちよくなったり、健康になったりするみたい。ということで、理想に燃えるブログ男は、理想をタイプしていて、理想ではなく、タイプの快楽に浸っているだけということにもなるので、そのことをちゃんと自覚してほしいかも。あはは

summercontrailsummercontrail 2007/06/28 08:18 n o n e c oさん、おはようございます。「ブログの男たち」の記事でn o n e c oさんが読んでいないとおっしゃる「細かいところ」に、身体の言葉、土の言葉があるかもしれません。愛は隠れたものです。もっとも、他のものを隠している人もいますが。
 私はn o n e c oさんの「親切の押し売り」、嫌いじゃないですよ。髪の分け目も時々変えると面白いです(敏感な人は眼の使い方から鼻の通り具合まで変わるかも)。

summercontrailsummercontrail 2007/07/09 21:01 aiさん、はじめまして。帰って確認してからお返事しますね。

summercontrailsummercontrail 2007/07/10 00:13 aiさん、「MSのワードで親指シフトはどのようにすれば使えるか」ということですが、いくつか方法があります。親指ひゅんQをダウンロードすると中に説明のためのHTMLファイルoyaq.htmlというものが入っているので、それも参考にしてみてください。
(1) ATOKを導入してワードを使う場合(おすすめ)
 入力の効率をあげるにはこちらがおすすめです。※一太郎を使わなくてもATOKだけ購入して、ワードをATOKで使うことが可能です。
 この場合、親指ひゅんQの設定方法は上の記事に書いてあるのと全く変わりません。
(2) ATOKを導入せずにワードを使う場合
 この場合の親指ひゅんQの設定方法は、MS-IMEのバージョンによって違ってきます(バージョンによっては、親指ひゅんQの設定画面で「IME2007対応」という項目にチェックを入れることになるようです)。MS-IMEのバージョンは、たとえばコントロールパネル→[地域と言語のオプション]→[言語]タブ→[詳細]から確認できます。

summercontrailsummercontrail 2007/07/10 00:16 youleeさんこんばんは(お名前は何度かお見かけしたことがあるような気がします)。お役に立てて嬉しいです。慣れるまでは大変ですが、楽しんでできるといいですね。

summercontrailsummercontrail 2007/07/11 21:30 aiさんこんばんは、それは残念でしたね。ワードというかMS-IMEで使う場合も、たしか設定を「かな変換」にする必要はあったと思うのですが、思いつく原因としてはそれぐらいです。でもまあ、ローマ字入力にもローマ字入力のよさがありますし。

summercontrailsummercontrail 2007/07/13 04:52 勝間さんおはようございます、それは知りませんでした。ありがとうございます。親指ひゅんQの作者さんが「世の中の巨大掲示板によるとATOK+親指ひゅんは最強で、MS-IMEとの相性はイマイチということらしい。 しかしながら、作業環境ではOSまたはオフィス付属のMS-IMEしか使っていないんです。」とoyaq.htmlで書かれているので、MS-IMEでも使えることは間違いないとは思っていたんですが。ちょっとしたコツってあまり載っていないので、実際に試行錯誤してみないとなかなかわかりませんよね。

2007/06/19(火)

自由と責任、反応の留保


 なんか徳保さんが早くも

http://deztec.jp/design/07/06/18_blog.html

 という記事で、

夏のひこうき雲 - 徳保隆夫さんは不当な印象操作や論点ずらし、記事の事後的な改変などを頻繁に行っているので彼の文章を信用しない方がいい

 に反応してくれているみたい。

 みたい、というのはちらっと

はてなブックマーク - 記事の改訂について

 を見ただけだから。

 ちらっと見た限りでは、その記事に対する批判や反論、応答としては

夏のひこうき雲 - 徳保隆夫さんは不当な印象操作や論点ずらし、記事の事後的な改変などを頻繁に行っているので彼の文章を信用しない方がいい

 に書いたことで足りている。以下のように忠告しておいたのに、あーあという感じ。まあ予想はしていたけど。

 ならば、どの要素/どの変数がどの限度を超えれば「極端」だと自分が考えているのか、それを徳保さんなりに頭の整理をしてみたらいかがですか。

 論破とか批判されるのが嫌なら、公開を前提とせずにご自分のパソコンの中で書いて練ってみるのもいいでしょう。表現や言い回しではなく、内容そのものを、です。

 アウトプットしないと損した気がするというようなことを前に書かれていましたが、「アウトプット」は何も「世間の目に触れさせること」とイコールではありません。

 自分のロジックを言語化し可視化して、自分から切り離して眺めれば、自分の考えを客観視することが少し容易になります。

[Web

 徳保さんに対して「それについてはここで既に答えてある」と自分の記事を何度も引用してみせることに飽きてきたこともあるし、また少なくとも2か月ぐらいはおきます。それまでに、何度も推敲されて妥当と思える内容に修正されると良いと思いますよ。2年近く前に

モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - ポジ・ネガと多数派・少数派の構図を重ね合わせることの危険性

モヒカン族 - モヒカンダイアリー「アップル通信」 - 「コスト意識だけで「常識」を選択してもよいが……(補遺)」を読ませていただいて

 で指摘されていたことも念頭に置いて。

 それまで、はてなブックマークでコメントをされる方々も、ちょっと記事と記事の書き手への評価を待ってあげてください。私はなんせ死刑廃止論者ですから*1、どこまでも人格の「断定」には慎重です。自由意思というものを信じているので。

 ただ、自由には責任が伴うんですよね。

いったん書いて公開した記事の内容については、書いた人が責任を負います。このことは、転載されてもされなくても、あとで削除・改変しても変わらないので、念のため

夏のひこうき雲 - 徳保隆夫さんは不当な印象操作や論点ずらし、記事の事後的な改変などを頻繁に行っているので彼の文章を信用しない方がいい

 自由ってつらいですよね。たとえばゲド戦記テナー(アルハ)が解放されたあと直面したもの(参照:極東ブログ: [書評]こわれた腕環(ゲド戦記2)アーシュラ・K・ル=グウィン)。たとえば

自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。

芥川龍之介 - Wikiquote

はてなポイントを頂きました


 匿名の方から、夏のひこうき雲 - 徳保隆夫さんは不当な印象操作や論点ずらし、記事の事後的な改変などを頻繁に行っているので彼の文章を信用しない方がいいの記事について、けっこう大きな額のはてなポイントを頂きました。ありがとうございます。


 なお、

結局、徳保さんの挙げた例え話は、徳保さんの「人格」を「断定」するための検査など開発されないし、開発されたとしてもそのようなものを使うべきではないという主張に対して、応答としての意味を持っていなかったということです

夏のひこうき雲 - 徳保隆夫さんは不当な印象操作や論点ずらし、記事の事後的な改変などを頻繁に行っているので彼の文章を信用しない方がいい

 を、

結局、徳保さんの挙げた例え話は、私の「人格」を「断定」するための検査など開発されないし、開発されたとしてもそのようなものを使うべきではないという主張に対して、応答としての意味を持っていなかったということです

夏のひこうき雲 - 徳保隆夫さんは不当な印象操作や論点ずらし、記事の事後的な改変などを頻繁に行っているので彼の文章を信用しない方がいい

 と訂正しました。「人格」を「断定」するための検査など開発されないし、開発されたとしてもそのようなものを使うべきではないというのは、徳保さんではなく私の主張です。

 記事中でも訂正箇所がわかるようにしてありますが、何度も読み返す方は少ないと思うのでお知らせしておきます。

*1:ここは微妙に笑いながらも感心するところ

2007/06/18(月)

徳保隆夫さんは不当な印象操作や論点ずらし、記事の事後的な改変などを頻繁に行っているので彼の文章を信用しない方がいい


 今回の記事は、

  • 趣味のWebデザイン備忘録を書いている徳保隆夫さんの考えや文章に、ふだん関心のある人
  • 議論の際にフェアである/フェアでないとはどういうことかの実例に触れたい人
  • 「他人の人格に対する、科学の衣をまとった宿命論的決めつけ≒差別が、一見便利なsocial hacksに見えてしまう」という危険について、認識しておきたい人
  • 『我と汝』という本に関心がある人

 以外の方には、あまり読んで面白くないと思います。

 一般に、不当さ、事実との乖離、醜さについて指摘すると、読んで楽しくはない文章になります。

 

 ただ今回の件については経緯と立場上、私しか指摘できる人がいないようなので、記録としての意味もあり書いておきます。


そのようには生きられない・4を公開された2日後に、

そのくせ私が古い記事を「何となく気に入らなくなった」ので削除したり、大幅に書き換えて全然違う内容にしたりすると、「どーしてですかっ!?」みたいな反応があったりする。そんなの私の勝手であって、説明なんかする気はない。「文句をいう暇があるなら転載しろ」と私は何度もいっている。

いろいろな人の思いを背負っているわけで

 と書かれた徳保さん。

 そのようには生きられない・4に重要な部分に改変をされていましたし、気づいただけでもそのようには生きられない・3がかなり改変されていました。3か月近く経ってそろそろ内容も落ち着いたでしょうから、反応の記事を載せておきます。今後また記事の内容を改変されるかもしれませんが。

 なお、

私だって転載には条件をつけています。

* 転載・改変した情報に起因する全ての問題について転載・改変した者が責任を負うこと

* 転載・改変した情報の再転載・再改変を容認または黙認すること

この2項目をないがしろにする者には、転載させない。「

*

 と書かれていますが、いったん書いて公開した記事の内容については、書いた人が責任を負います。このことは、転載されてもされなくても、あとで削除・改変しても変わらないので、念のため。


 考えが変わったならその時点で「考えが変わった」と書けばいいので、相手から反応があった後に書き換えるのは、ファクトを隠蔽する行為です。読者の目とか体面を、気にしすぎなのではありませんか。

 徳保さんは理系だとおっしゃるけどその割には、科学が検証のプロセスだということをあまりにも軽視しているのでは。

 自分の書いた文章を改変するのはもちろん自由ですが(ただし「備忘録」という名前に反する)、

 特定の読み手との相互の応答を想定した文章について、

 応答を受けた後に内容そのものを改変して、

 事後的に自分の主張の説得力や妥当性を増そうとするのは不誠実です。

 前提を覆された相手と、

 実際の経緯を把握しづらくなる他の読者と、

 その文を書いた過去の自分と、

 後悔するかもしれない(そして、きちんと恥をかくことで成長できていたかもしれない)将来の自分に対して、

不誠実です。そういうちゃぶ台返しは。

 そのくせ私が古い記事を「何となく気に入らなくなった」ので削除したり、大幅に書き換えて全然違う内容にしたりすると、「どーしてですかっ!?」みたいな反応があったりする。そんなの私の勝手であって、説明なんかする気はない。いろいろな人の思いを背負っているわけでと徳保さんが書いていることについて、私が代わりに説明するとすれば、徳保隆夫さんがご自分の記事を改変するのは、徳保さんの卑怯さと傲慢さと臆病さの入り混じった態度の、表れの一つです(そのような言い訳を含めて)。

 そのように事後的に細々と(あるいは大幅に)改変されることを前提とした無責任な記事に対しては、真摯な応答はできないのですが、もともとのテーマが重大なので、私の把握している経緯に沿って一応書いてみます。

---

この後、仮に暴言を吐いた人が「天王星人だから」を理由に左近さんの知人と話をしなくなったとしても、それは衝突の経験があったからこそ。他の天王星人とは、当たり前のように話をしているに違いない。つまりここで「天王星人」は、「なぜ対話が失敗したか」という問いに対する当座の仮説に過ぎません。

*

 衝突の経験があったからこそ、ではなく、「天王星人だから」という口吻が衝突の原因です。だから「他の天王星人とは、当たり前のように話をしているに違いない」となる根拠はありません。他の「天王星人」に対しても(表向きは当たり前に話をしていても)、表面化すれば相手は怒るでしょう。「うまくやれ」「表向きは当たり前に話をしろ」というのはただの欺瞞です。

 それに、その暴言を吐いた人は、そのやりとりに関する限りそもそも「対話」をしようとしていたとはいえないでしょう。

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一人の新人の嘘が、他の新人の信用まで落としたケースの解釈にも、疑問があります。

いちいち書類の数字を関係各所に問い合わせたりする例は、書類の数字を「検査」しているのであって、人格を検査しているのではないと思います。……おっしゃることはわかります。しかしこのケースでは、数字の検査=信じられる人間かどうかを確認する作業、なのです。模範囚の仮出所が早まるのと同じこと。

*

 私には徳保さんのおっしゃることがわかりません。そのケースは徳保さんが想像したものとはいえ、徳保さんの解釈には無理があります。

 徳保さんは、(記述が以前と変わっていなければ)以下の例を挙げていました。

仮にある人が、新人が上司にウソの報告をあげているのを見つけたとする。するとその人は、「最近の若い子は嘘つきね」と予断を持つ。以降、他の新人たちの報告書まで、精査するようになる。横から見ていても、その人が新人を信用していないことはバレバレ。いちいち書類の数字を関係各所に問い合わせたりする。

私はこの人に「予断を持つな」とはいわない。「もう少しうまくやれ」という。書類のミスは見逃さないというアピールも、行き過ぎれば萎縮の弊害が強くなる。

*

 「最近の若い子は嘘つきね」というのは女言葉ですが、徳保さんの挙げる例え話はどれも女性が感情的になって理不尽な行動に出る例ばかりですね。というのはまあ大目に見てあげるとして。

 それは「信じられる人間かどうかを確認する作業」ではなく、単に「(ある特定の属性を持つ集団に属する)相手を、自分は信頼していない」という態度の現れでしょう。

相手の人格を断定することはできないからこそ、「信頼」という概念が出てくるのではありませんか。

夏のひこうき雲 - 「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び

 しかも、そもそも「ウソの報告」と「書類のミス」とは、テーマとの関係では、決定的に違う事柄です(例えば徳保さんが事後的に文章を改ざんしているのは、新たな閲覧者に対する「ウソの報告」です)。「信じられる人間かどうかを確認する作業」と、「書類のミスは見逃さないというアピール」も、方向性が違います。

 もともと、

部品によっては不良率0.01%とかそういったレベルの話になっていて、それを超えると「要注意だから全数検査」となったりします。過半数なんていう基準じゃない。こういうのを見ているから、私は「一部の人間のせいでみんなが色眼鏡で見られる」のが悪いことだとは思わない。危ないと思ったら全数検査でいいのです。

インド人の神様 そのようには生きられない・2

 に対して、

 質問させてくださいね。

* 人間の人格の検査は、例えばどのような方法で行うのですか?

* 検査の結果は誰がどのように判定するのですか?

* それは「断定」といえますか?

* その判定を行う人の人格については、誰が検査するのですか?

* その評価の対象は、果たして「人格」なのですか?

 私は、「人格」を「断定」するための検査など開発されないし、開発されたとしてもそのようなものを使うべきではないと思っています。

夏のひこうき雲 - むしろそのようには生きられない

 と書いた私の記事に対し、一応、質問への回答*として書かれたものです。なのに、なぜいつの間にか、〈書類のミスは見逃さないというアピールの程度が行き過ぎかどうか〉の話になっているのでしょうか。ご自分の主張は間違っていないと言いたいからといって、テーマをずらさないでください。

 結局、徳保さんの挙げた例え話は、徳保さんの私の「人格」を「断定」するための検査など開発されないし、開発されたとしてもそのようなものを使うべきではないという主張に対して、応答としての意味を持っていなかったということです。何度もお願いしていますが、ずらしたミスリードはしないでください。

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ともあれ、あれも違う、これも違う、とするならば、一体どこに人格の断定がまかり通っているのでしょう? 血液型占いにせよ何にせよ、規制するほどのことなのか。

被害者が抗議しても、抗議自体が「女性は感情的だからな」「AB型は二重人格だからそういう抗議をする」などという話に解消されてしまって、まともに受けとめてもらえない(こういうのはフェミニズムや人種差別の分野なんかでよくある議論)

先験的に女性やAB型の抗議が無効判定されるケースがどれだけありますか。偏見の影響がゼロという事例は、なるほど少ないかもしれません。しかし抗議が却下された主要因が、本当に「女性だから」「AB型だから」なのか、疑問に思うのです。

*

 徳保さんが持ち出す例について私があれも違う、これも違う、とするのは、〈穏当で問題視するべきでない〉と思える例ばかりを徳保さんが持ち出しているからでしょう。

 人種差別、女性差別、民族差別、居住地域、そのほかさまざまな不当な差別の実例があり、(こういうのはフェミニズムや人種差別の分野なんかでよくある議論)と書きました。なぜ「主な」要因でなければ問題でないのか、わかりません。血液型による就職差別は、採否をそれだけで決定するものではなく一つのファクターにすぎませんでしたが、にも関わらず徳保さんも最終的には問題視していましたよね。

(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すこと

 のうち、〈(1)には該当しないようにみえるが、(2)や(3)、場合によっては(3)にだけは該当する例〉を挙げますね。なにか私が頭で空想したような都合の良い例え話ではなく、実例です。

 ナチスの優生学です。


 当時のドイツでは、ユダヤ人が虐殺されただけでなく、精神障害者なども断種(強制的な不妊手術)をされたりしたといわれています。

 ユダヤ人については、強制的に労働に従事させ、死ぬと遺体(の脂肪分)を石鹸にしたりしたそうです。資源を無駄にしない、ある意味では非常に合理的な発想といえます。

 優生学そのもののロジック・論理展開について、私は根本的な論理破綻を指摘して批判することができません。論理破綻はないのかもしれません。しかし前提とする価値観に対しては、私は強く反対します。

 彼らは、ユダヤ人等の個人の人格・人間の尊厳の価値をまったく無視していました。あるいは、人格・人間の尊厳の価値というものを、かぎられた一定の範囲内でのみ機能する(他と同列の)ファクターとしてしか認めず、それ以上の価値を持っている可能性を排除する(または、排除して良い)という前提に立って行動していました。

 これは「人格に対する断定的な評価」でしょう。そのことについては強く反対するし、すべきだと思います。

もし女性は感情的で、AB型は二重人格で、感情的な人や二重人格の人の主張は無価値と立証されているなら、その対応は別に間違っていないと私は考えます。どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。と主張する人には、甘んじて外道と呼ばれます、と私は答えます。インド人の神様 そのようには生きられない・2

 ナチス党員だったら、強制収容所の職員だったら、当時やはり似たようなことを言ったと思います。KKKも同様の主張をするでしょう。それとの違いを考えてみてください。(「極端」かどうかでいえば、徳保さんの上の引用部分に表れている考えも極端です。)

 なお、「人格」と「主張の価値」はイコールではありません。およそ主張ができないような、すくなくとも筋の通った主張のできないような、あるいは(意識もなく)ただ呼吸をしているだけのような人の存在にも視野を広げてください。こういう文脈で「具体例」を挙げたくはありません。

被害者が抗議しても、抗議自体が「女性は感情的だからな」「AB型は二重人格だからそういう抗議をする」などという話に解消されてしまって、まともに受けとめてもらえない(こういうのはフェミニズムや人種差別の分野なんかでよくある議論)

夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性

 徳保さんが言っているのは、〈そういう対応をされ続ける人がいても、生まれてから死ぬまで数十年生きたとして、数十年ずっと抗議すら聞いてもらえず、悲しい気持ちをしたり絶望したりするその瞬間瞬間の総体について、別に問題と感じない〉ということです。主張が無価値と「立証」されていれば。


しかしこのケースでは、数字の検査=信じられる人間かどうかを確認する作業、なのです。模範囚の仮出所が早まるのと同じこと。

*

 違います。会社の新人は囚人ではありません。先輩や上司だからといって、看守と似た立場にいると考えるほうが間違っています。そこにも徳保さんの傲慢さが無自覚に表れています。

 徳保さんは塾の教え子に対する関わり方の記事や、インド人が遅刻したら相手の宗教など知らなくても「善神に化けてあなたを惑わそうとする悪神の企みに負けてはいけない」*と言うものだという記事からして、相手への率直さ、誠実さを欠いたsocial hacksらしきものを誇っているように思えます。それはとてもむなしいことです。

 また、判定者(と自分では思っている人)が、確認作業の結果、「およそ新人というものはみな信じられない」という最終的な結論に至ったら、その自称判定者はどういう行動をとることになるのでしょうか。どういう行動をとるつもりにせよ、会社としては新人よりもその自称判定者の方に警戒が必要でしょうね。内部でも外部に対しても大きな問題が起きる。

---

「倫理」は個人のもの、「道徳」は社会のもの、と左近さんは定義されているようなので、私の書く「倫理」は適当に「道徳」と読み替えてください。いくつかの辞書を見る限り左近さんの定義に一般性はなく、「倫理」と「道徳」は文脈上可換であることが多いようです。私もそのようにこの二つの言葉を用います。

*

 私は

 倫理というのは、これをすべきか、すべきでないか、という個人のなかの規範です。私が押しつけるからとか、社会の多数派が押しつけるからという理由で存在しているわけではありません。私としては、「倫理」と社会の「道徳」を混同して使うことは避けたいと思っています。

*

 と書きました。

 私は徳保さんと同じように一人の生身の人間であって、社会の道徳を体現している抽象的な存在ではありません。左近は世間ではありません(母音が違います)。私を社会とみなして勝手に敵視されても困ります。こうしたことは既に2005年11月に、

コスト意識だけで「常識」を選択してもよいが……に対して

強きをくじき弱きを助けていればそれでいいわけではない。

 どちらが多数派かなどという勢力争いには関係なく、ただ率直に行為の是非や当否を自らのうちで問うべきではないのだろうか。

*

 などなど、徳保さんからのトラックバックに対して書きました。常に厳密に用語を使い分けて欲しいとは思いませんが、社会の外的な規範とは別に、個人にも内的な規範が存在することを、徳保さんにはもっと意識しておいて欲しいと思います。

 それから、日本語の辞書は類語を並べているだけのことが多く、べたに読んでも個々の語義の違いについてはあまり参考にならないということは憶えておいた方がいいでしょうね。シソーラス、類義語辞典をお薦めします。私の手持ちの「角川類語新辞典」では違いが反映された表現になっていました(ATOKと連動して使えるので便利ですよ)。

 倫理と道徳の違いについては、ネットにはたとえば次のような記述があります。

 倫理と道徳の関係を考えてみると,道徳は,それに強制される者の合意がなくても,一定の社会規範(例:村の慣行,ヤクザの掟)として存在しており,伝統的,文化的,歴史的または社会的にその遵守が強制されている。倫理の多くは,それに強制される者の合意に基づく場合または当該倫理というルールが適用される環境へ入ることについて当該の者の同意がある場合が多いと考えられる(特定の職業倫理の遵守が求められる集団への任意の加入行為など)。倫理は,現代社会においては,その強制を受けるかどうかという点について,本人の同意または合意があることが前提になっており,それが強制される環境からの脱退も許されている。これに対し,道徳の場合には,生まれれば自動的に強制されるものであって,当該道徳が適用される環境からの脱退も事実上できないことが珍しくない

*

---

私が問題の発生頻度を気にするのは、その対処方法として「広範な規制」と「個別に対応」という選択肢があるからです。人の生活に「当座の仮定」は必要不可欠で、オカルトの存在意義はそれなりに「ある」という立場を私はとります。だから広範なオカルト規制には、それに見合う十分な法益がなければ賛成できない。

*

 発生頻度ということなら、血液型に基づいた性格判断についての会話は日常的に頻発していますよね。

 また、血液型と性格の相関関係は既に否定されている(にもかかわらずいまだに信じている人が多い)ことからわかるように、「当座の仮定」というようなものではなく、もっと閉じた体系であって、オカルトとはまさにそういうものです(参照:オカルト - Wikipedia)。科学的手法に対して開かれていないので、「当座の仮定」、すなわち後の検証によって修正・改善されていくべき仮説としての意義は認められません。

 より重大な被害を生じさせないためにも、小さい事件についてはそれに応じて小さく抗議してよいのです。その抗議を「圧殺」しないでください。日本の過去の重大な社会的事件には、その予兆や、それを許す土壌、(徳保さんや私の嫌いな)多数派による「空気」の醸成が先行しています。いわゆる「割れ窓理論」には一定の説得力があります。

 それから、私はなにか広汎なオカルト規制の主張というよりも、あくまでオカルト批判への反発をめぐる個人の倫理の問題について書いてきたのですが。オカルトを科学のように描いてみせるメディアに対して、批判が出ると、今度はその批判に対する強い反発が出てくる。そうした反発に対して反応したのが、私の関連記事の発端です。夏のひこうき雲 -  血液型と星座と疑似科学、統計の「ウソ」、情報リテラシー、これ。

 なお、放送メディアについては、電波の有限性と公共性、その影響力の大きさから、現状でも一般人の言論とは異なる広汎な規制が法律上なされています。まあ、何を法益とすべきかは「価値観」の問題ですが。

左近さんは人格の断定など不可能だという。だったらそれで満足すべきで、仮に可能であっても云々は過剰な規制です。過剰な規制は、過剰というだけで批判されていい。倫理の重視にもバランスがあって、私は左近さんのそれは行き過ぎと感じるのです

*

 どの部分についてなぜ行き過ぎと感じたのか、示してくださらないのでわかりませんが(徳保さんはそのくせ私が古い記事を「何となく気に入らなくなった」ので削除したり、大幅に書き換えて全然違う内容にしたりすると、「どーしてですかっ!?」みたいな反応があったりする。そんなの私の勝手であって、説明なんかする気はない。「文句をいう暇があるなら転載しろ」と私は何度もいっているいろいろな人の思いを背負っているわけでその他、およそご自分の文章についてアカウンタビリティ*1を欠いている)、お答えできる範囲でお答えしておきます。


 私は何か個人として行政上または立法上の規制権限を持っているわけではありませんし、「仮に可能であっても云々」は、徳保さんと同じく個人としての考えの吐露に過ぎません。だから「規制」ではありません。

 また、内容からしても、「仮に可能であっても云々」は「過剰」な規制だとも思いません。理由は、夏のひこうき雲 - 人間はオートマトンではない/応答の真っ当さの「2」の段落に

 別の角度から言えば、たとえば(1)に該当するかどうかはちょっとわからないこともありますよね。客観的な真偽を判定することが比較的容易な数学の証明でさえ、その分野の他の研究者による検証にだいぶ時間がかかることがあるぐらいだから。

 だから、せめて(2)(3)のような言動に出ることは控えておこうという観点からも、(2)も(3)も問題といえると思います。

夏のひこうき雲 - 人間はオートマトンではない/応答の真っ当さ

 などなど、書きました。

 もう一度引用します。

左近さんは人格の断定など不可能だという。だったらそれで満足すべきで、仮に可能であっても云々は過剰な規制です。過剰な規制は、過剰というだけで批判されていい。倫理の重視にもバランスがあって、私は左近さんのそれは行き過ぎと感じるのです

*

 血液型性格診断と称するあれは、メディアでの扱いが行き過ぎだと私は感じました。人格の断定が不可能だと思っていない、あるいは断定してもいいと思っている人はたくさんいるし、決めつけにあって不愉快な目にあった人の話は身近に何例も聞いている。断定が可能と誤解した上でのそういう「言動」こそが問題なのです。

 徳保さんはご自身の判断基準を、個別のケースについての「極端」「行き過ぎ」「あおりすぎ」「過剰」といった結論でしか表明されていないようですが、それこそ自分の「倫理」の他人への押しつけになりかねない。奴隷制廃止論にしても、地動説にしても、当時は「極端」「行き過ぎ」と思う人が相当数いたでしょう。


 事実第一主義、ロジックよりもファクトが大事と徳保さんは他の記事でも書いています。しかし、ファクトだけならチンパンジーでもドバトでも知覚できます(そういう実験があります)。ナチスの優生学も、冷静に観察したファクトをも基礎としていることでしょう。また、自己実現的予言は、結果的に予言が成就したかどうかとは別に、そのような予言をすること自体に弊害があります(否定的なものについては)。

 だから、知覚したファクトの意味の解釈や、価値観も、たいへん重要な問題なのです。ミスリード(誤った誘導)がないか、巧妙なレトリックの混入によって論理的破綻が隠蔽されていないかどうかという局面においては、ロジックの検証が重要な意味を持つのです。

 またもや改変されているかもしれないと思うとどの記事中の記述だったか探す気にもなれないのですが、徳保さんは、血液型による就職差別については(いったん「そんな企業は淘汰されるから問題ない」というような主張をした後、とくに理由も挙げずに撤回して後の記事で)「就職差別など極端な例については是正しつつ」というような内容のことを書かれていましたよね。そうした点については同意していただいているわけです。

 ならば、どの要素/どの変数がどの限度を超えれば「極端」だと自分が考えているのか、それを徳保さんなりに頭の整理をしてみたらいかがですか。

 論破とか批判されるのが嫌なら、公開を前提とせずにご自分のパソコンの中で書いて練ってみるのもいいでしょう。表現や言い回しではなく、内容そのものを、です。

 アウトプットしないと損した気がするというようなことを前に書かれていましたが、「アウトプット」は何も「世間の目に触れさせること」とイコールではありません。

 自分のロジックを言語化し可視化して、自分から切り離して眺めれば、自分の考えを客観視することが少し容易になります。


 総じて、ここまではっきり具体的に指摘され批判される機会はあまりないと思います。だから、私に対して腹が立とうと立つまいと、貴重なチャンスだと思って活用してください。

 私もあまりここまでは書きません。たいていは労力を惜しみます。そして、これでも、抑制しているのですよ。言い方だけでなく、内容の項目そのものを。

---


ここまでの流れは以下の通りです。ただ、徳保さんが(私からの反応があった後に)ご自分の記事を相当改変しているので、私の記事だけを追った方が正確に経緯を把握できます。

夏のひこうき雲 -  血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性

 ↓

そのようには生きられない徳保隆夫さんによる記事)

 ↓

夏のひこうき雲 - 「血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性」再び

 ↓

インド人の神様 そのようには生きられない・2

 ↓

夏のひこうき雲 - むしろそのようには生きられない

 ↓

そのようには生きられない・3

 ↓

夏のひこうき雲 - 人間はオートマトンではない/応答の真っ当さ

 ↓

そのようには生きられない・4

2007/06/04(月)

朝日新聞連載「ニッポン人脈記」の〈ありのまま 生きて〉シリーズがよかった


 忘れないうちに、と思っているうちに何度も忘れていたけど急いで今回は書いておきます。


 朝日新聞の夕刊に掲載されているasahi.com:ニッポン人脈記という連載をなんとなく読んでいます。毎回ではなく、読まないままになる日もあって、その程度の関心。

 でも、〈ありのまま 生きて〉というシリーズはたいへん楽しく、夕刊を読み逃さないようにして読んでいました。

 「楽しく」、というと不謹慎かもしれない。と思わせるような何かとも戦って生きている人たちの生活を知ることができて、興味深いシリーズでした。

 シリーズ1回目だけはネットで読めます。asahi.com:「また失恋」友の指点字 - ニッポン人脈記

 今回読み返してみて印象に残った部分を引用します。

 04年末、福島は国の審議会で、障害者自立支援策について直言した。「自己負担は、無実の罪で投獄された者に、自由になるために保釈金を払えというようなもの」。その言葉に勇気づけられた人がどれほどいたことか。

asahi.com:「また失恋」友の指点字 - ニッポン人脈記

 真骨頂は、無念や怒りを挑戦のエネルギーに変える底力、そしてユーモア。「未知の惑星に不時着した。音もなく何も見えない。どうやって生還する?」。極限にいる自分を眺め、おもしろがる。幼い頃からSFと落語が大好きなのだ。

asahi.com:「また失恋」友の指点字 - ニッポン人脈記

自殺、を思ったことはないのですか? 「それはないです。あわてなくても、いずれみんな必ず死にますから。あせる必要ない」

asahi.com:「また失恋」友の指点字 - ニッポン人脈記

 障害のある人たちのありようは社会を映す鏡だ。彼らを片隅に追いやる社会は、もろく、貧しい。困難におしつぶされず、人生をきりひらき、社会を変革しようとする人々がいる。たずね歩きながら私は思った。生きるって、なんだろう?

asahi.com:「また失恋」友の指点字 - ニッポン人脈記


 引用部分はどうも文章全体の雰囲気とはずれますが。


 このシリーズを担当されたのは生井久美子さんとのこと。何の気なしに検索したら、こうしたテーマで何冊か書かれているんですね。

 障害者を何かしらただ偉い人として祭り上げる(同時にそれによって「普通じゃない人」として疎外する)のでもなく、もちろん馬鹿にするのでもなく、淡々と書かれている視点はこれまでの取材と執筆の経験から培われているのかもしれないといま思いました。

 「校長先生のいいお話」とかそういう味わいではなくて、単純にそれぞれの人の生活や経緯、やってきたこと、ちょっとしたエピソードを興味深く読ませていただきました。


 新聞の連載は媒体の特性もあって、連載が終わればそのまま忘れ去られていくものが大部分なのでしょうけど、このシリーズのことは書きとめておきたいと思っていました。

 本当は連載中に書いておきたかったのですが。

2007/06/03(日)

男脳女脳診断、やってみた


 hiQ編集部からで知って、やってみました。ビュッフェ

あなたのポイントは 10ポイントです。(男脳度数:45%/女脳度数:55%)

ポイントは、-100〜100ポイントで計算され、マイナスが大きいほど、男性脳で、それに対し、プラスが大きいほど、女性脳となります。

オーバーラップあなたは、極端な考え方をせず中性的な考え方を持っており、融通が利くため、問題解決の時とても役に立ちます。冷静で論理的に物事を考える男性的な部分と、感情豊かにコミニュケーションをとれる女性的な部分を、両方持っており、また、考え方が理解できるため、異性、同姓を問わず、たくさんの友達ができます。ただし、恋愛に関してはポリシーをもって友達で終わらないように注意しましょう。

 思った通りに答えたんだけどね。へぇ〜という感じ。


 まあ、自分の考え方の傾向を知っているので、それを修正しようというフィルターが(あるいは無意識のレベルで)かかっているのかもしれません。

 あと、あんまりたくさんの友達は作りたくないな。既に知り合った人たちを大切にするので手一杯(しょっちゅう連絡を取るとかいうのではなくて)。


 話は飛ぶようだけど、酔うためとか寝るためとかにお酒をたくさん飲む人は、手段としてお酒を使っているだけでほんとはお酒そのものが好きではないから、そういう人の方がアルコール依存症になりやすいらしい。

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)

 それと同じで、友達がたくさん欲しいというのは、ほんとにそのひとりひとりの相手のことが好きというわけではないんだろうなとふと思った。

 ……今なんか左近がいいこと言ったよ!

2007/06/01(金)

新しい仏教のあり方、あるいは「困難だが決して不可能ではない」という比喩的表現として



 マッキーマッキーマッキーマッキーの絵を描いた!」


 ……気づいたらここの更新がやや途絶えていたので、とりあえず書いておきます。


 米粒にお経を書く人もいるぐらいだもの、決して不可能な話ではないよね。あとはマッキーの気持ちの問題。

 「末期ーの」とか「真っ黄ーの」は過剰になるので外しました。


 念のために書き添えておきますが、新しい仏教のあり方というのはタイトルの付け間違いではありません。(う〜む、最近のBOZUはJOZUにそんなこともやるのか…)という心持ちでお読みください*1

*1:なお、マッキーも私も僧籍には入っていません。