夏のひこうき雲 このページをアンテナに追加 RSSフィード

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 はじめに

2014/08/29(金)

トマスとして期待しながら

 イエス・キリストに会ってから信じても遅くないのでは: 極東ブログ

を読んだ。

 最後の「復活のイエス・キリストは、そうして死を信じる人間の絶望にユーモアをもたらす。」という1文が、そこまでの文脈との関係でよく理解できなかった。

 これは非難ではない。イエスキリストが人間の絶望にユーモアをもたらす、ということは私なりに理解している、というか、そのような人物像の存在としてイエスを理解しているつもりだ。

 ただ、トマスの話、死の話、と来て、なぜイエスのユーモアなのだろう。

 書いていて思ったのだけど、「イエスがトマスに表れたのは、トマスが自分の基準でもって「こうでなければ信じない」という一線を引いた、その一線を乗り越えて現れ、ユーモラスに自分を開示したのだ」ということだろうか。

 だとしても、トマスの不信の基準と、自分の死を絶対的な基準とする死の奴隷としての在り方は異なる。

 いや、異ならないのかもしれない。自分なりの基準でもって世を裁き、自分を裁き、「究極の罰に甘んじるなら何をしようと文句を言われる筋合いはない」というところまで至ってしまう、そういう危険を有しているのかもしれない。(関連して、裁くことによるニヒリズムは、愛を存続させない在り方だと思う。)

 とすれば、「トマスの不信」は当然死の奴隷への一里塚的な要素を有していることになる。しかし、イエスは、そのような在り方をも裁かない(ということになる。)

 裁くのではなく、ユーモアでもって、そのような死の奴隷への在り方を超越してみせ、ひょいっと目の前に現れる。

 この辺りの理路は、「〜ということだとすれば」「こういう文脈を前提とすれば」という仮定を積み重ねる話なので、後で自分で読んでもよく意味が分からないかもしれない。

 いずれにせよ、復活ということの意義、いや、復活ということの喜び・good news(福音)は、そのような筋道からも一層重要だと思えた。

 自分の死という、どうしようもない終着点、その終着点から逆算して人間は自分の行動を決定していく。しかし、その終着点すら破壊してみせる、いやピョンとゴム跳びで超えられるということ。あるいは、その終着点が帳消しになる。そのような素晴らしいお知らせ。

 私はキリスト教徒としてのマイノリティ感、いわゆる普通のみんなに属することのできない淋しさをしばしば表していながら、どこかでまだ、死んだらおしまいと思っている。あるいは、死による復讐というものをある意味で「信じている」。いいことではない。かつ、日本的だと思う。

 そのことを恥ずべきこととして反省するというのではなく、イエスが再び私のドアをノックして訪れ、私がそれに気付くことを期待していたい。他力本願なようにも思える。しかし、そもそも、救いというのは一方的なものではなかったか。

 この数日も、時折救いのような訪れを感じてはいた。救いは去ったわけではない。ただ私と共にいて、辛抱強く見守っているのかもしれない。

 10分少しでほとんど推敲もせず書いてみた。

 そうそう、「しかしその先には、そうであれば死を決意しえすればなんでもできるはずだという思いが潜む。この世が与える罰は死刑までだ(そこに至るまで苦しみはいろいろ選べるが)、自分の死を支払えば人を殺したっていいことにだってなる。」という最後のほうの下り。これは、『死ぬことと見つけたり』の世界ではないのか。とふと思った。『死ぬことと見つけたり』には肯定的評価をしていながら矛盾している、などと誰かを非難する意図はない。単に、そうなのかもしれない、と思っただけ。死は甘美だし、力を与えてくれることもある。ただ、それは同時に死の奴隷なのかもしれない(他の何かの奴隷でなくなる代わりに)。『1984年』の世界では、物語の舞台ではイングソックが推進されているのに対し、アジアでは「死の崇拝」が信仰されているのだったか(調べないで書いている)。

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