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2017-02-13

[][]映画『虐殺器官』感想 〜荒野から遠く離れて 19:16 映画『虐殺器官』感想 〜荒野から遠く離れてを含むブックマーク

(以下の論では、原作および映画『虐殺器官』の結末に触れています。

また、原作ファンの視点から、映画に対してそこそこ辛辣な意見を述べていますが、

一つの意見としてご容赦いただければと思います。)


映画『虐殺器官』を観た。


ぶっちゃけた話、Project Itohの題を冠した映画三作品の中で、

「映画として」一番面白いのはおそらくこれだろうと思う。

えげつないゴア描写を含むアクションシーン、人口筋肉を使ったメカの数々など、

見所がそれなりにあるといえばあるからだ。


だが個人的には、原作ファンとしては一番言いたいことの多い作品であった。

なによりも、その精神性において看過し難い点があった。


最初に違和感を覚えたのは公開数日前のことである。

映画をレビューする記事の中に、「原作のエピローグにあたる部分は映画にはありません」

という追記の一文がさらりと書いてあり、ネット上の伊藤計劃ファンの間でざわめきが起きた。

それから「いや、エピローグはある」という関係者のフォローのような発言がまた入ったりして、事態は混沌を極めたのだが……。


真実はどうだったのか。

なんと、映画鑑賞者の中でも、「エピローグはあったよ」「なかったよ」という論争が起きたのだ。不思議なことに。


そこで、僕の意見を言わせていただくなら。

いや、ないだろ。

原作と「結果が同じ」であることを、「エピローグがある」とは言いません。

映画「虐殺器官」には、原作で一番大事なエピローグのシーンは入っていません。


……っていうか、ラストでピザを食うシーンをカットするなら、それまで何のために

執拗にピザを食うシーンを入れてきたんだよ、あれ伏線じゃなかったのかよ!

プライベートライアンがラグビーの試合になってたのは千歩譲って許すとして、

オチにはピザがなきゃダメだろ!

同じピザを食うシーンでも、前半とその周囲の殺伐さが違うから、対になって意味が

出るんじゃないか!


……というのは、実は些細なこと。


それよりも僕が疑問に思ったのは、エピローグ周辺のシーンにおいて

作品の持つ「精神性」が180度転換させられたことだった。


ここで僕の原作の解釈の話をしよう。


『虐殺器官』自体が多様な解釈の余地を持った作品である、という前提の上で言うが、

僕は原作の『虐殺器官』とは、伊藤計劃にとっての『罪と罰』(ドストエフスキー)のような話だったと考えている。


ドストエフスキーの『罪と罰』では、主人公のラスコーリニコフが自己を正当化するために

「ナポレオンなどの偉大な人物(非常人)なら、殺人さえも許される」

という歪んだ思想に基づき殺人を犯すのだが、彼はそのことによって逆説的に自分が

「非常人」であるという自我を獲得する。

もちろん当人だけの理屈ではあるのだが、『罪と罰』には、「罪」を抱えることによって

自我を規定する話、という側面があった。


それでは『虐殺器官』ではどうか。


虐殺器官(原作)のエピローグで、主人公クラヴィスは、自分が何よりも渇望していた

「母親の愛」に恵まれていなかったことに気付き、「真の空虚」というものに苛まれる。


その「真の空虚」を埋めるためにジョン・ポールの残した「虐殺の文法」がピタリとはまった、と描写されている。


つまり、原作において彼が「虐殺の文法」を行使した動機とは、

他国を犠牲にして「アメリカ」を救おうとした最重要人物のジョン・ポールと並び立つことに

よって(アメリカを犠牲にして、ジョン・ポールと同等の「罪」を手に入れることによって)

失った自我を手に入れること、だった。


要約すると、『虐殺器官』とは、クラヴィスが罪によって自我を規定する話であった……

と僕は解釈している。


であるからこそ、クラヴィスのラストの述懐、「これが、ぼくの物語だ」という

言葉に繋がるのである。


ところが、である。

映画版は、作中でクラヴィスの母親への憧憬をすべてオミットした。

その結果、虐殺の文法を行使する動機として選ばれたのは、

「ジョン・ポールの行動になんか感化された」というふわっとした感じの動機だった(と思う)。


ふざけるなよ、と。

それじゃ全然クラヴィスの物語にならないだろ。

それで「ぼくの物語」って言うなよ、と。


僕は、伊藤計劃とは、徹底して「自我」とは何か、「自意識」とは何か、ということを追い求めた作家だと思っている。

抗がん剤治療(医療)の影響などでどこまでもフラットになっていく感情・倫理の中で、

「わたし」の在り様について考察し、文章に刻み付ける。

それをしてきたのが伊藤計劃という作家であり、そのテーマがすべての作品に通底しているからこそ、

僕は伊藤計劃という作家を愛してきたし、同じように「自我の在り処」という悩みを抱える

多くの愛好者たちに作品が膾炙してきたのではないかと推測している。


この原作において、そこで180度違う選択をすることは、はっきり言って死者への冒涜だとすら感じる。

本作がなまじっか三作の中で映画としては一番出来がいいゆえに、だ。


もちろん、読者各々が伊藤計劃に求めるもの、というのがただ単にSF的ガジェットだったり、

夭逝の天才作家という肩書だったりする向きには「あらすじ」を忠実になぞった映画化でも受け入れられるし、

エピローグが「あった」と言えるのだろうが、僕には無理だ。


果たして、伊藤計劃自身はこの映画化を見たら

なんと言うのだろうか?


ぼくは思う。

ここは荒野だ。

今日もたくさんのハイエナがプロジェクトの腐肉を漁り、

その横を一台のジープが走っていく。


ぼくたちはまだ、かつて「ゼロ年代」と呼ばれていた地平からやって来たジープに乗っている。

荒野を遠く離れてなお、変わらないのは――


ぼくたちは自らの手で、虐殺の文法を行使し、自我を獲得していく。

ぼくの中でプロジェクトを続けていく。

それが故人への唯一の餞になるのだと、そう信じていることなのだ。


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