考えることは、悩むことではない。 世の中の人、決定的に、ここを間違えている。人が悩むのは、きちんと考えていないからにほかならず、きちんと考えることができるなら、人が悩むということなど、じつはあり得ないのである。なぜなら、悩むよりも先に、悩まれている事柄の「何であるか」、が考えられていなければならないからである。「わからないこと」を悩むことはできない。「わからないこと」は考えられるべきである。ところで、「人生いかに生くべきか」と悩んでいるあなた、あなたは人生の何をわかっていると思って悩んでいるのですか。 (池田晶子『残酷人生論』より)

Putin sees Ukrainian democracy as a threat, undermines his sense of the Russian mission, Stanford historian says

news.stanford.edu

For Putin, it’s one thing if Estonia or Latvia has a well-functioning parliamentary democracy. These former Soviet republics that also share common borders with Russia did not have the same integral nexus with the Russia that Putin thinks Ukraine does. Ukrainian democracy is seen as threatening and undermines his sense of the larger Russian mission.

 

Putin’s version of Russian history is both distorted and pernicious. Alas, given heavy censorship it’s also the only version of history that is proffered in the Russian media. (Note the closing last December in Russia of the impressive civil society organization, “Memorial,” which was dedicated to accurately documenting and interpreting the Soviet past.) To be sure, since the late 19th century, there have been Russian nationalist thinkers who, like Putin, extoll the special role of the Russian people, the superior moral quality of Orthodoxy, the justifiable dominance of Russians in Eurasia and the unique place of the Russian collectivity in the world. But there are also plenty of reasonable Russians, who reject this kind of national chauvinism and would like to live normal lives in peace with their neighbors and in a democratic society. This war really hurts these good people. They live under a brutal autocrat, and there is not much they can do to change their country’s policies. They have had to experience Soviet dictatorship and now Putin’s with the accompanying historical distortions. This is another reason the Ukrainians are fighting so hard: They just don’t want to go back to denying their national aspirations and giving up the ability to tell their own story because of Moscow’s dictates.

「愛さえあれば、ことばはいらない」は勘違い(上野千鶴子)

 

上野千鶴子『国境お構いなし』朝日新聞社、2003年。

愛さえあれば、ことばはいらない、なんて言うひとがいるようだが、何かかんちがいをしている。ことばがいらなくなるレベルに行くまでに、ことばを尽くさなきゃいけないのだ。(p.41)

 

 アメリカの留学から帰国するとき、アメリカで職探しをする気はないのか、と何人かの人から聞かれた。わたしの答えはノー。ここでは勝負にならない、と感じたからだ。

 社会科学は言語の勝負だ。数学や自然科学ならいざ知らず、社会科学は国境を越えない(経済学と心理学はちがうらしいが)。アイディアを翻訳したとき、それはちがうものに変わる。もしあなたの考えをちがう言語圏の聞き手に正確に伝えたいと思えば、その言語の作法を学ばなければならない。だから英語の論文を書くのはたんなる翻訳ではない。自分の思考を異なる回路にのせることを意味する。ときどき国際会議に招かれて、「すでにある日本語の論文を話してくださればいいですから」と言われることがあるが、とんでもない、同じアイディアで英語の論文を書くのは別の論文を生産するのと同じだけのテマがかかる。日本人の学者でそういう事情をわかっている人は少ない。(p.30)

 

 アメリカにいたときには、たくさんの研究者の講演や講義を聞いた。終わりに質疑応答がある。これは息づまる真剣勝負だ。儀礼的なあいさつのような質問もあるが、多くはおそれを知らない若手の研究者たちが、相手のアキレス腱を衝こうと手ぐすね引いている。半人前の研究者だって、他人の揚げ足取りをするのは一人前だ。たとえ自分が講演者の立場にとって替わることができなくても、批判者の立場になら立てる。そういういじわるな質問に、名のある講演者がどんなふうに切り返すかは見物だった。よく聞いていると、いかにも虚を衝かれたという質問に対しても、必ずしもまともに受けて立っているわけではないことに気づいた。わざとツボをはずしたり、搦め手から答えたり、比喩をもちだしたり、フェイントをかけたり……ロジックだけではなくレトリックの華麗なパフォーマンスに唸った。講演上手と評判をとるスピーカーには、そういう言語的なパフォーマンスの技があった。(pp.30-31)

「匿名で発言するよりももっと面白いことが世界にはある」(押井守)

 

押井守『凡人として生きるということ』幻冬舎新書、2008年より。

 自分の作品に対する世間の評判にしても、筆者が正体を現わさない批評に耳を傾けるつもりはない。だが、ネットで発言したい人がいることは理解できる。それこそが、「社会につながりたい」「社会に対して何か発言したい」という、社会的動物である人間の根源的欲求だからだ。

 ただ、言いたいのは、正体を隠してネットで発言するより、もっと面白いことがこの世界にはあるはずだよ、ということだ。ハンドルネームで正体を隠したどこかの誰かでなく、ちゃんと自分を自分として認めてもらえる世界があるのだ。

 ネットで何かしらの発言をして、それが話題になったり、人を傷つけたり、喜ばせたりしても、それは社会性を身につけたというのとは次元の違う話だ。社会性というのは、自分の名前と顔をさらして生きて行こうという決意のことだからである。

 匿名で意見を発表して、何らかの影響を社会に与えたと満足しても、本書の文脈で言えば、その行為はまだ社会性を保留しただけに過ぎない行為だ。自分はいつでも社会とつながれるという幻想を持っているだけで、実際に社会性を身につけたわけではない。(pp.122-123)

「他人のためではなく、自分のために闘いだしたとき人はひとりの人間になれる」

 

「人として生きれていない人ほど、その愛は支配になります」(p.169)

 

「人は、他人のために闘うほうが闘いやすいのです。でも、自分のために闘いだしたとき、人はやっとひとりの人間になれるのです」(p.201)

「知ること」と「考えること」

知ることより考えること

池田晶子『知ることより考えること』新潮社、2006年より。

 

『知ることより考えること』とは、決して知ることの否定ではありません。考えるとは、本当のことを知るために考えるという以外ではあり得ない。しかし、きょうび「知る」とは、外的情報を(できるだけたくさん)取得することだとしか思われていない。取得するばかりで、誰も自ら考えていない。だから世の中こんなふうなのであります。(175頁)

「思わせ人生」(池田晶子)

知ることより考えること

池田晶子『知ることより考えること』新潮社、2006年より。

 

 いわゆる「ハウツー本」のしょうもなさについては、以前にも書いた。

 「頭がいい人、悪い人のどうのこうの」とか、「デキる男はああでこうで」とか、そんな本ばかりが売れているけど、そんなもの読んで、どうなるものか。そもそも頭がいい人が、そんなもの買って読むものか。(p.54)

 

 私は中身は知らないけれども、タイトルだけ見るぶんには、「頭がいい人のどうのこうの」というのなら、そういう人から学んで見倣おうという気持があるのかな。まだそんなふうに思えなくもない。しかし、「頭がいいと思わせるためのどうのこうの」とくるとなると、これはもう斟酌の余地はない。要するに、そういうことである。実際に頭がよくなることが眼目なのではない。頭がよいと「思わせる」ことこそが眼目なのだ。そう「思わせる」ためのハウツーなのだ。(p.54)

 

なんで本当ではなくて見せかけでよしとするかというと、本当の人生をよしとしていないからである。自分の人生を生きていないからである。自分の人生を生きていないとは、裏返し、他人の人生を生きている。他人にどう思われるかということで生きているということである。そういう人にとって、他人に「思わせる」ためのハウツーが重要事になるのは、当然なのである。(p.55)