高坂正堯『国際政治』(中公新書、1966年)書評

国際政治―恐怖と希望 (中公新書 (108))

国際政治―恐怖と希望 (中公新書 (108))

※注:これは3年前に書いた書評です。

高坂正堯が亡くなってからすでに6年が経つ。国際政治学において日本を代表するリアリストだと言われてきた。一世代前に一般向けに書かれた本書においても、現実の複雑さと格闘することのない楽観主義や空想主義を厳しく戒めている。だが、正直に自分の感想を述べるならば、最初から最後まで結局何を言いたいのか分からなかった。否、言いたいことはわかっても、文章表現がどっちつかずであったりしていて、自分としては読んでいて欲求不満を感じざるを得なかった。国際政治は単純化するにはあまりにも複雑すぎるものであることはわかっている。にもかかわらず、その見通しを良くしようと理論家は日々頭を悩ましているのだ。複雑な現実を説明するのに曖昧なままの表現では、読者もすっきりしないし、国際政治の現実が理解できない。

しかし、一般的になんとなく受け入れられている国際政治に対する幻想を、一つ一つ打ち砕いていこうとする意欲はわかった。その一つが理性信仰の否定である。

われわれはふつう、理性を人間同士の争いとは対立するものとして考える。それを解決するものと考える。しかし、(中略)おたがいがおたがいを恐れる状況において、人間の理性はそれから脱出するのを助けるのではなくて、むしろそれをさまたげるのである。なぜなら、人間は将来の状況を予見する能力を持っているが、それだからこそ、自分がピストルを捨てても相手がこれを捨てないという状況を想定することができる。人間がもう少し単純であったならば、簡単にピストルを捨てることができるであろうし、ホッブス的恐怖の状況もおこらないであろう。しかし不幸なことに、人間は理性のおかげで、それほど単純にはなれないのである。(50〜51頁)

また別の箇所では、世界政府や国際法の限界について、カントを引きながら言及している。

国際法の理念は、多くの相互に独立した隣接国家の分離を前提するものである。ところがかかる状態はそれ自体すでに戦争の状態である。しかし、それにもかかわらずこの状態のほうが、理性の理念によれば、他を圧倒して世界王国にまで進展する一強国によって諸国家が融解せしめられるよりもましなのである。なぜかと言えば、法律は統治の範囲が拡大されるにつれてますます威力を喪失し、かくて魂のない専制政治は善の萌芽を根絶せしめたあげく、無政府主義にけっきょく堕してしまうからである(127〜128頁、カント『永遠平和のために』より)

また、冷戦初期において、米ソが拒否権を乱用したために国連が機能停止してしまったことについて、拒否権の存在そのものを悪とする見方に著者は反論する。

事実は、拒否権さえなければ強制力のある国際機構ができるのではなくて、拒否権がなければ国際連合は成立しえなかったのである。(133頁)

また、世論の過信に対して警告を発したり、逆に世論への不信から来る秘密交渉の利点についても言及しているあたりは、ケナンやキッシンジャーに通じるリアリストの一面が垣間見られる。

国際政治におけるリアリストは、国家に積極的な意義を与えようとする点においてほぼ共通しているように思われる。「すべての秩序(国家もこの「秩序」の一つ――評者)は力の体系であると同時に価値の体系である」(128頁)と言う高坂も、国家の意義を積極的に認めようとする。しかし、以下の箇所を読んで違和感を覚えるのは自分だけであろうか。

共通の価値体系が育ちさえすれば、それで秩序ができるわけではない。やはり権力による強制がなくてはならない。正確に言えば、権力による強制の支えがなければ共通の価値体系も育たない。(129頁)

正直に言って、国際政治学の権威と言われる人間がこのようなことをあからさまにいうとは信じられなかった。具体的な物言いではないのでどのような状況を想定しているのか今ひとつわからないが、これは「文化は路上から生まれる」(辻仁成『ガラスの天井』集英社文庫、1997年、33頁)という考え、文化の発達が国家の強制力とは全く別の次元で起きているという側面を真っ向から否定するものである。

一世代前に書かれた書であるため、とりあげている問題は古くて新しいものであっても、それへの問題意識や視点に少し時代を感じてしまう。国際政治の初学者が、今国際政治では何が問題とされているのか(またはされてきたのか)を概観する上では手頃な書であるかも知れないが、国際政治を学んでいる者にとっては、目新しいところは特になかった。もっと後に書かれた高坂の本も読んでみるべきかも知れない。