西部邁『国家と歴史―状況の中で』書評

sunchan20042005-04-23

国家と歴史―状況の中で (発言者双書)

国家と歴史―状況の中で (発言者双書)

西部邁の、少しだけ難解な言葉の中に皮肉をたっぷり込める独特の言い回しが、本書でも発揮されている。本書は雑誌『発言者』に掲載された論文をまとめたものであるため、一冊全体を通して一つのテーマを追求しているわけではない。しかし、著者が自分の思想的立場(保守主義)から懐疑的にならざるを得ない思想的立場や現象に対しては、一貫して批判の立場を貫いている。著者にとって一貫して批判の対象となるものは、共同体を悪弊として打破せんとする「個人主義」、「グローバリズム(=アメリカニズム)」、「市場中心主義(=資本主義)」、「世論」さらにそれを生み出す「大衆(マス)」、などである。

現代のプレブス(平民)たるマス(大衆)はあるときはローカリズムに、ほかのあるときはグローバリズムにというふうに、一方の極端から他方の極端へと揺れ動く。それもそのはず、(伝統を追求する)過去志向と(危険への挑戦という)未来志向のあいだで平衡をとることができないからこそ大衆になってしまったのである。(12頁)

経済学者にかぎらず専門主義者たちは、専門を武器にして世論と闘うよりも、世論を正当化するためにみずからの専門的知識の一部を動員する。なぜこんな哀れな振る舞いに及ぶのか、理由は簡単で、専門主義者は事実や現実とよばれるもののほんの一側面を扱うことしかできないからである。ほかの諸側面がどうなっているのかを押さえておかなければ、自分の扱っている特定側面が何であるかすらわからなくなる。そこで専門主義者は、世論にすがることによって、事実・現実の総体にたいする解釈はすんだ、と構える。象を撫でる群盲のごとき専門主義者たちをつなぎ合わせているのはマスコミ世論というげに怪しき代物だ、という次第なのである。(167頁)

著者に『大衆への反逆』(PHP文庫)『大衆の病理』(NHKブックス)というタイトルの著書があることからもわかる通り、彼は一貫して大衆とそれに基盤を置く民主主義に強い懐疑心を抱いている。ふわふわとした気分のようなもので極端から極端へと動く大衆に、国家の重要な決定の基盤を置くことはできない、と。そこでエリートが先導しなければならないはずなのだが、そのエリートが大局的な判断に必要な現象への意味づけ・解釈を避ける、または解釈できないために、結局は大衆のふわふわした気分に意味づけを委ねて、自身は無難な技術的作業に専心する。

あらゆる束縛から解き放たれた個人に至上の価値を置く個人主義を、そのまま経済にあてはめた「市場中心主義」をも、著者は全く信用していない。

市場中心主義あるいは『小さな政府』論なんぞは社会的理念に昇格させられてはならない類のものにすぎない。(略)『政府の失敗』を矯正するために『市場の失敗』を甘受せよと勧めるのは文句なしに愚劣な社会相談である。(32頁)

これは近年、日本の保守論壇においてとみに主張される「近代主義の限界」に端を発するものである。以下の佐伯啓思の論がその典型的な例である。

利益が錯綜し、しかも大衆化した今日の社会では、民主主義や市場主義にほとんどの問題を委ねることはあまりに危険である。民主主義や市場主義は一つのルールであって、その限りでは必要不可欠な制度ではあるが、それだけでは今日の問題を解決するだけの能力を持ってはいない。とすれば、実際には、さまざまに入り組んだ利害や微差をめぐる対立や放恣なまでに展開される自由からくる混乱を調整するには、民主主義や市場主義の以前に、社会的な価値や規範・規律がなければならないであろう。そもそも民主主義にせよ、市場主義にせよ、それが明示的に述べているわけではないものの、何らかの社会的な倫理や価値を前提としなければ、その安定した秩序そのものが維持できない。(『国家についての考察』飛鳥新社、2001年、33〜34頁)

西部の方が表現がより過激ではあるものの、そこに根差している基本的な認識に変わりはない。利害調整の場としての市場は土台に価値や規範がなくては存在し得ないものであるというのがそれである。すなわち、その利害調整の場を下支えしているのが「信頼の構造」(122頁)なのである。そしてその「信頼の構造」の上に成り立つものが共同体である。

『信頼の構造』は、ゲゼルシャフト(利益団体)の次元においてではなく、ゲマインシャフト(感情的共同体)のなかに育つものだ。(122頁)

さらに、

共同体の土台の上にのみ安定した利益団体が築かれる、というのが普遍の真理である。(123頁)

近代主義においては、ルソーの社会契約説的な、一切の制約から解放された独立の存在としての個人が前提とされる。それに対して、共同体論の立場から異議申し立てがなされているのである。そして共同体論者がその先に見据えているのが、言うまでもなく国家である。

共同体論によれば、人間というものは、そもそも、その存在の初めから、ある特定の具体的な社会的・家族的コンテクストの中に生まれ落ち、そこに付随するさまざまな『役割』が命じる義務や振る舞い方に習熟しながら成長するのであり、『自然状態』において、すべてを自身の自由な決定によって人生を開始するという前提に立つことが、そもそも誤りだというわけである。(坂本多加雄『求められる国家』小学館文庫、2001年、191頁)

近代主義にとっては、共同体から来る因習や道徳観は打破すべき悪習であるにすぎない。しかしそのような共同体の因習から人間は永遠に自由でいられるのだろうか。もし仮に個人があらゆる束縛から解放されて自由を得た時、彼(女)は一体その後どうするのであろうか。人は「自由の重み」に本当に耐えられるのだろうか。西部は言う。

この世界共通の最高価値は『自由』である。(略)ただし、その自由は積極的なものではなく消極的なものにすぎない。つまり『(理想)への自由』という積極性は、宗教・道徳・イデオロギーが音立てて崩壊していく時代にあって、世界的な規模で共有されるはずがない。共有されるのは消極的な自由、つまり『(規制)からの自由』のみである。(64頁)

規制から解放されて万々歳のはずの近代的個人が、なぜかまだ不安げにしている。

社会の多数派が自信なげに苛立たしく生活しているのは、実は、共同体との紐帯を見失ったからなのである。彼らの不安と焦燥そのものが共同体の必要を物語っている。共同体を求める少数派が、扼殺されずにすんでいるどころか社会から意見を求められることが少なくないのはなぜか。それは、その不安や焦燥を解決してくれと多数派が頼み込んでいるからなのだ。(55〜56頁)

近代主義者と共同体論者の論争がどこへ行き着くのか、近代主義では解決し切れない問題が次々と露呈してきている現代において、注目を集めずにはおかない。共同体論者は近代主義から来る「平等」、「人権」、「民主主義」という価値に対しても積極的に疑念を呈している。これらの価値を生み出したフランス革命についても、その明るい面ばかりではなく否定的な側面にも光が当てられつつある。そこでは、言うまでもなく、共同体としての国家の見直しも同時に要請されることは確かだろう。「自分は決して何にも束縛されはしない」とうそぶく前に、「本当にあらゆる束縛から解き放たれた自分」というものの空恐ろしさに思いをいたすことも必要な時代になりつつあるのではないだろうか。


フランス革命の否定的側面については

森山軍治郎『ヴァンデ戦争』筑摩書房、1996年
札幌日仏協会編『フランス革命の光と闇』勁草書房、1997年
遅塚忠躬『フランス革命―歴史における劇薬』岩波ジュニア新書、1997年
呉智英「自由・平等・義兄弟―フランス革命の三理念」2002年4月1日付毎日新聞夕刊より)