樋口裕一『差がつく読書』書評

差がつく読書 (角川oneテーマ21)

差がつく読書 (角川oneテーマ21)

樋口氏の本でたまたま最初に読んだのが『予備校はなぜおもしろい』(1997年)で、その中でずいぶんとその予備校のことを持ち上げていたので、今も予備校講師をやっているものだと思っていた。ところが近年の著作の経歴にはその予備校のことが書かれていないので、もう今は著述業に専念されているのだと知った。最初に読んだその本がとても面白かったので、4〜5冊立て続けに読んでみた。その中で最も面白く読んだのが『「教える技術」の鍛え方』と、そしてこの『差がつく読書』だった。

自分の背丈に合わない本を読んで、ネット上でその本の悪口を書いている人たちのことを手厳しく批判している箇所を読んだ時は冷や汗ものだったが、その他の多くの箇所では、自分の本との付き合い方を見直すきっかけを与えてくれた本だった。

多くの人が、本を買うとそれをすべて読まなければならないという強迫観念に追い立てられる。「まだ、読み終わっていない」というプレッシャーを感じ、読み終わることだけを目的にして本を読む。その本に興味をなくしていても、途中で放り出すことに抵抗を感じて、次の本に移れない。そんな人も多そうだ。(39頁)

これはまさに自分のことである。「全読」しないとその本を読んだという気持ちになれない。そういう悪い意味での完璧主義は改めなくてはならないと以前から思ってはいるのだが、まだ実現できていない。

だから、多くの人が少ししか本を読めない。今読んでいる本はおもしろくなくても、次に読む本はおもしろいかもしれない。それなのに、ひとつの本にいつまでも時間がかかったりする。それはかなりもったいない。(39頁)

著者の言う「アリバイつくり読み」、「独立読み」、「裏づけ読み」、「飛ばし読み」、「斜め読み」という四つの「すべてを読まない読書法」は参考になった。特に最初の二つが自分にとってはもっと実行すべきものだと思う。「実読 vs 楽読」と「精読 vs 多読」の考え方もわかりやすかった。

意外な見方で面白かったのが、「読書とは基本的に覗き行為である」(115頁)、「読書は悪徳であるから、本来教育とは相容れない」(116頁)という考え方だった。読書とは自分でものを考えられる自立した人間を養うには役立つが、人格の陶冶や愛国心の醸成には役立たないどころか、反対の効果を持たすこともあり得るという。もちろん、著者が言うように、現代の教育が「基本的には国家の理念を国民に広めるための手段」(116頁)であると言えるかどうかは反論の余地もあるだろうが、読書を「悪徳」と見なす考え方は頷ける面もある。

読書というのは、少なくとも「楽読」は、基本的に覗き行為だ。大人の世界、未知の世界、禁断の世界を覗く行為だ。自分の知らない新しい世界に対する好奇心を燃やし、それを知ろうとすること、それは、まさしく覗きにほかならない。読書というのは、覗きの快楽にほかならない。だからわくわくするほど楽しい。どきどきするほど、後ろめたい。(115頁)

読書は悪徳だと私も思う。好奇心をかきたて、現在に満足せずにもっと違う世界を求めさせるのは、悪徳以外の何ものでもない。現在に満足させることを邪魔し、現在の知識に満足せず、もっと知りたいと考え、現実を否定して想像の世界に遊び、想像を羽ばたかせ、それまで誰も考えたことのない考えを知り、新しい思想に触れる。これが悪徳でなくて、何だろう。(118頁)

ちなみに余談ではあるが、著者は本書の中で「出版社に注文されて、自分で書きたいと思っているわけではない本を出すこともないではない。ベストセラーを出した後の私はまさしくそのような状態にある」(49頁)と書いている。本書は著者自身とても楽しみながら書いている雰囲気が伝わってくるのだが、併読したいくつかの本はハウツーもののような内容であまり感心はしなかった。もしかしたらそれらは、著者にとって「書きたいと思っているわけではない本」だったのだろうかと邪推してしまう。