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2011-10-05 今週の「逆説の日本史」メインイラスト909

吉田松陰と山県太華の論争

| 23:44 | 吉田松陰と山県太華の論争を含むブックマーク 吉田松陰と山県太華の論争のブックマークコメント

週刊ポスト10月14日号表紙

今週の週刊ポスト10月14日号)掲載
「逆説の日本史」第909回



  幕末激動の十五年




 「1859年」編 その2のイラスト


「倒幕」が論理的に正当化されることになった「一君万民論」

 今週号は、“勤皇”つまり天皇支持派と“佐幕”つまり幕府支持派が対立しているように見えるが、根本的なところは一つなのだ。天皇がこの国の最高にして不可侵の主権者であるということである。では、“勤皇派”が「倒幕」という過激な方向に進むためには、一体何が必要なのか?そのことが明白にわかるのが、吉田松陰と長州藩きっての儒学者・山県太華の論争である。そこでメインイラストは、松陰がいう「天下の大地も、天下の人民もすべて一人の天皇のものである。」という“一人天下”と“日の丸”を背景に、論争の書としての『講孟余話*1』を著作する吉田松陰と、それに対する反論する山県太華。タイトルは『吉田松陰と山県太華の論争』。以下、詳しくは本誌をご覧ください。

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*1吉田松陰と山県太華、論争の書としての『講孟余話』
 長州藩野山獄に投ぜられた松陰は、荒廃した獄風の改善の一環として翌年4月12日より『孟子講義を、さらに6月13日より同輪読会を催した。『講孟余話』は、その際の所感・批評をまとめたものである。 松陰論において『講孟余話』が重要視されるのは、それが松陰の主著であるのみならず、松陰の「国体論」を最もよく表現する著作であるからである。『講孟余話』は「道」普遍性に対する「国体」の固有性の優越を、次のように強く説く。
羊棗と膾炙、姓と名、一は同じく、一は独りなり。同じきを食して独りを食せず。同じきを諱まずして独りを諱む。と…道は天下公共の道にして所謂同じなり。国体は一国の体にして所謂独りなり。(「尽心下三六」1856(安政3)年6月10日)
これは、亡父を偲び、その個人的嗜好であった羊棗を嗜まないことは、父の名(「独」)を諱み、姓(「同」)を諱まないことと同様であるという『孟子』の一節を、松陰一流の読みかえをもって敷衍したものである。この文にはさらに、道の絶対的な普遍性を説くものへの激烈な批判が続く。
然るに一老先生の説の如く、道は天地の間一理にして、その大原は天より出づ、我れと人との差なく、我が国と他の国との別なしと云いて、皇国の君臣を漢土の君臣と同一に論ずるは、余が万々服せざる所なり。(同前)
これこそ、「その後明治大正昭和とつづいたさまざまな形の国体論争の中でも、もっとも生彩あり、情熱のこもったものとして私には敬重すべきものに見える」と橋川文三氏によって評された一文である。この論争の敵手である「一老先生」が、当時長州藩藩校の明倫館前学頭であった山県太華(1781〜1866年)であることは論をまたない。
天下は一人の天下
丙辰幽室文稿に以下の文章がある。
わが大八州は、皇祖が建国したのであって、万世にその子孫が継承し、天地とともに窮まりがないのであり、他人が分外の望みをいだくべきではないのである。天下は一人の天下であることはまた明らかである。……不幸にして、天子が激怒し、億兆の民をことごとく殺してしまうとは、……
殺してしまうときは、これに逆らわず、全国民が一人残らず殺されるしかない。反逆は許されない、臣民に出来ることは諌めて死ぬだけである、と言うのである。
この過激な思想は、西洋主権思想と比較するとよく分かる。「天下は一人の天下」とは、天皇日本の主権者であるという意味なのである。リンカーンの「人民の人民による人民のための政治」を使って言えば、「天皇の天皇による天皇のための政治」となる。「天皇の」は主権、「天皇による」は実際に政治を行う人、「天皇のための」は政治の目的である。 天皇が主権者であるのは天壌無窮の神勅と神武建国に基づく。

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